第42話 元妻、元幼馴染
「あら、祥子先生じゃないですか。どうしてこんな所に?」
詩さんと同じ質問なのに、どうしてこうも温度が違うのか。
警戒している私を察知したのか、琴子さんも会釈を止め、江菜子さんと向き合う。
「私の方こそお聞きしたいのですが……どうして俊介さんの入院している場所を、草葉さんがご存じなのでしょうか? ここには菜穂ちゃんも居ます。今はまだ寝ているので大丈夫ですが、きっと貴女を見たら菜穂ちゃんは――」
「菜穂が、どうかしましたか?」
冷たい目だ、手紙には反省したって書いてあったけど、そんなの微塵も感じられない。
定型文が多かったものね、あれは心から書いた文章じゃないんだ。
俊介さんが心配していた通り、菜穂ちゃんが今そばにいて良かったと思える。
「元旦那ですもの、入院した情報なんて直ぐに届きます。そもそも私達とは無関係な貴女に、私の事をべらべら喋る必要はないと存じ上げますが? 大体、貴女は幼稚園の先生でしょう? それ以上でも以下でもないのですから、この場はお引き取りになられて下さい。私は、そちらの方に用があって参ったのですから」
私が? と琴子さんは驚きの表情を見せた。
私が知る限り、琴子さんと江菜子さんは初対面のはず。
なのになんで……。
「もともと、今日は面会交流を申し込んだ日ですから。まさか俊介が入院しているだなんて予想もしてませんでしたけど。でも、逆に好都合かもしれませんね。古河琴子さん、初めまして。私ね、今日は貴女に会いたかったのよ?」
「え……っと、申し訳ありませんが、私は貴女を存じ上げないのですが」
「ええ、存じ上げなくて結構。野芽からお聞きしましたよ? 私が不在になってから、貴女が家の事をしてくれていると。酷い家だったでしょう? 宅の俊介は、炊事掃除全部私に任せっきりで、一度だって家事なんかしたこと無かったんですから」
野芽? 野芽さんと江菜子さんに、どういう繋がりがあるんだろう。
良い人だって勝手に妄想してたけど、ちょっと分からなくなってきちゃった。
っていうか、宅の俊介って言い方。
この人、まだ俊介さんと縁が切れてないって思ってるの?
「菜穂の面倒もまったくみないでね、今日は出張、今日は会議、今日は残業って、家になんか全然いないんですよ? お酒臭い時もあったりして、どこまでが本当か分からないんですから。本当、思い出すだけで腸が煮えくりかえっちゃうわよ。でもま、今はこうして天罰が下ったみたいですから? ちょっとは気が晴れると言った感じですけど」
なにそれ……天罰って、俊介さんに対して使う言葉じゃないでしょ。
この人、自分は何も悪くないって思っているの? 浮気したのは江菜子さんでしょ?
怒りのボルテージが一気に頂点まで行きかけたけど。
側にいた琴子さんの方が、先に堪忍袋の緒が切れたみたい。
「……俊介さんは、貴女に裏切られた後も、一人で必死になって頑張っていました。そもそも貴女に俊介さんを悪く言う権利なんかないと思いますが? 高野崎俊介という才能を潰したのは貴女です。面会交流なんか絶対にして欲しくなかったし、私も貴女に死んでも会いたくないと思っていました」
一歩一歩近づきながら語る琴子さんは、鼻と鼻がぶつかる位の距離で怒りを言葉にする。
「貴方は理解していますか? 俊介さんを本当に間近で見てきたのですか? 俊介さんが仕事している姿をリアルタイムで見てきたのならば、家事育児をしなかったなんてセリフ、絶対に出てこないはずなんです。私は、俊介さんが輝く所が見たかった。貴女が壊してしまったこの人を、もう一度花咲かせたいと思っていました。そして今、こうして俊介さんの側にいます。もう、貴女は俊介さんにとって邪魔な存在でしかありません。……帰って下さい。菜穂ちゃんも俊介さんも、今ならまだ寝てますから。貴女が来たと言う事実は、私達の胸の中にしまっておきますから……一秒でも早く、帰って下さい」
恐ろしいまでに低い声。
ぎゅっと握った拳で、今にも殴り掛かりそうな雰囲気を醸し出す琴子さん。
「ふふっ、合格。野芽が言うだけの事はあるわね」
合格? ホントに何を言っているのこの人は?
詰め寄られていた江菜子さんは、距離をとることなくそのまま語る。
色々と言われて腹が立つのではなく、認めるってどういうこと?
ダメだ、江菜子さんの事が全く理解できない。
「私ね、私には出来なかった事を、貴女に託そうと思ったの。野芽から全部聞かされてね、面会交流を申し込めば、多分貴女が出て来るだろうって。半信半疑だったのよ? でも、こうして会えたのだから、野芽の言うことは間違いなかったって事ね」
「……何が目的なんですか、貴女は」
「私の目的? それは勿論、貴女が俊介と一緒になるのを、後押しすることよ?」
なに、それ。
そんなの、普通あり得るの?
「俊介はつまらない男よ? それでも、上を目指そうとする心意気は凄かったの。私も、そんな俊介に昔は憧れたりもしたんだけどさ。でもやっぱりダメね。自分の時間が全くなくなっちゃって、ああ、このままじゃ俊介に潰されるって思ったのよ。でも、そんな俊介でも、琴子さんからなら眩しく輝いて見えるのでしょう? だから、貴女に任そうって、そう思ったのよ」
俊介さんを、一体なんだと思っているの。
この人がしている事は、犬や猫の譲渡と同じじゃない。
自分じゃ要らなくなったから、琴子さんにあげる?
バカ言ってんじゃないわよ、そんなの、俊介さんが可哀想すぎる。
「……何するつもり?」
「ダメよ、祥子さん。気持ちは分かるけど、暴力はダメ」
気づけば、私は江菜子さんに近付き、頬を叩くべく手を振り上げていた。
だって、だって許せないよ。
こんなの普通じゃない、愛し合って菜穂ちゃんを生んだんじゃなかったの?
ダメだったから捨てるとか、そういうのじゃないでしょ?
夫婦だったんでしょ? 親子だったんでしょ? なんで捨てるとか選択肢が生まれるわけ?
しかも、それを笑顔で他人に譲るとか……本当に理解出来ない。
「そもそも、先の質問の答えがまだだったわね。祥子先生、無関係な貴女はなぜこの場所にいるの? 早く帰ったらどう? いる意味なんてないでしょうに」
「私が、なんでこの場にいるか、ですって? そんなの一つしかないじゃないですか」
私は違う、絶対にこの人とは違う。
「私は、俊介さんのことを愛してしまったから、ここにいるんですよ。もう、彼が傷付くのは見たくないんです。精神的にも、肉体的にも……俊介さんは、自己犠牲の塊みたいな人ですから。誰かが側でずっと守ってあげないと、いけないんです」
俊介さんのことを裏切るような真似は絶対にしない。
出来ないからいらないなんて、絶対に言葉にしない。
「私は、貴女になんて言われようが、俊介さんのことを愛しています。愛し、続けます。だから、私からもお願いします。貴女を見たら、俊介さんが傷付くんです。菜穂ちゃんだって、怖がって泣いてしまうんです。ですから……帰って下さい、江菜子さん。この場に一番ふさわしくないのは、貴女だけなんですから」
振り上げた手は、琴子さんによって既に下ろされた。
けど、この人に対しての怒りはまだまだ全然収まりそうにない。
「……いつの間にか、親衛隊みたいな人まで味方につけちゃって。ああ、そうそう、俊介が起きたら伝えておいてね。二股とか、お前も最低な浮気みたいな事してんじゃんかってさ」
「江菜子さん、貴女!」
「は、大事な大事な菜穂が起きちゃうんじゃなかったのかよ。まぁ、その子はアタシの子だけどな。せいぜい頑張って育ててくれよな、大きくなったら私そっくりになるんだろうけどさ」
突然豹変した様に語る江菜子さん、彼女こそが、私が良く知る江菜子さんだ。
敬語なんか使わない、誰にでも噛みつく狂犬みたいな女の人。
昔はこんなんじゃなかったって俊介さん言うけど、到底信じられない。
猫かぶってただけなんじゃないかな。
だってこの人からは、誠実さの欠片も感じられないんだから。
★
「おや、随分とお早いお戻りで」
「イイでしょ別に、役目は果たしたんだから。それよりも約束の金は?」
「がめつくなさんなって、そこの封筒に入ってますよ」
「……ふん、こんなはした金じゃ、慰謝料の足しにもならないよ」
助手席に置かれた分厚い封筒には、かなりの枚数のお札が封入されていた。
指を舐めてから数える江菜子を見ながら、野芽は煙草に火を点ける。
「それで? 結果は?」
「古河琴子だっけ? あの小娘なら絶対に俊介と一緒になるって息巻いてたわよ。元々こんな手段を講じる必要なんてなかったんじゃないの? ただ、健二の情報以外にももう一人女がいたけど、あれはどうするつもりなの?」
「もう一人の、女? 誰だそれは」
「楓原幼稚園の先生、向井祥子って人。面と向かって私に言ってきたわよ? 俊介さんのことを愛しているんだー! ってさ。アホくさ、そんなこと言われたって、別になんともないってのに」
そこまで語ると、江菜子は封筒をバッグの中に入れ、車には乗らずに歩き始めた。
その歩みはとてもゆっくりで、沈むように俯いては、天を見上げるようにして固まったり。
このまま消えてしまいそうな江菜子に対して、野芽は少しだけ瞳を細める。
「車、乗らないのか?」
「今はそんな気分じゃないんだよ。別に用がある訳じゃないんだから、たまには歩いて帰るさ」
ここから歩いて? 電車を使うにしても、この病院からは歩いて三十分はかかる。
ヒールを履いた江菜子が駅に着くには、それ以上に時間を要する事であろう。
「江菜子、お前、本当は」
「心配なんかしてくれるの? 昔みたいじゃん」
長いスカートをふわりと膨らませながら、江菜子は振り返り微笑む。
「俺はずっと心配してるに決まってるだろ、お前とは幼馴染なんだからな」
「嘘ばっか、俊介と離婚する時は敵だったくせに」
「相談を受けたのが俊介からだったからだよ。お前から先に相談してくれてれば、俺は江菜子の側についてたさ。そもそも浮気なんて……いや、それに、俺がいなかったら江菜子の事だ、俊介を刺し殺して自分も死ぬ……とか、考えてたんじゃないのか?」
野芽の言葉に対して、江菜子はゆっくりと口元を緩ませる。
その笑顔はまるで少女の様でもあり、悪女の様でもあり。
「ふふっ、どうなんでしょうね」
振り返り歩き始めた江菜子は、先ほどと同様に、ゆっくりと歩き始める。
ふわり、ふわりと、漂っては消える、タンポポの綿毛のように。
野芽も、江菜子の姿が見えなくなるまで見送り続けた。
振り返るかもしれない、けれども、振り返らずに歩く江菜子のことを。
そして、完全に江菜子の姿が見えなくなったあと。
既に灰になっていた煙草を地面に捨て、捩じるように踏みつける。
「まったく、素直じゃないな。……ま、それを言ったら、俺もか」
野芽が見上げる先にあるのは、俊介の病室。
「腐っても幼馴染なんだ。悪いが、俺は一生お前の敵だよ……俊介」
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