第36話 嵐の種(向井祥子視点)

「そうですか……分かりました、でも、今回限りですからね」

『祥子さんありがとう、無理言ってごめんね』

「いえ、お仕事も大事ですから。本当なら私が菜穂ちゃんと帰ればいいのでしょうけど、それも難しいですもんね。受け渡しは私が直接やりますから、安心して下さい」


 俊介さんのお仕事って、やっぱり大変なのかな。

 普段お迎えに来る時も、自転車全速力で漕いできてるし。 

 本当に、私が代われる事があるのなら、全力で代わってあげたいんだけど。


「どうしたのよ、ため息なんかついちゃって。ついに寝取られちゃった?」

「不吉なこと言わないで下さい! ……神崎先生、もし私が高野崎さんとこのまま上手くいってゴールインとかしたら、菜穂ちゃんのお迎えとかってどうなるんだと思います?」

 

 神崎先生に聞いてはみたものの。

 何となく、予想はついている。


 寿退社って言葉があるくらいに、結婚、ましてや子供がいる女性は煙たがれる傾向にある。

 幼稚園も論外ではない、むしろ、他よりも強いくらいだ。


「どうなるのかって、楓原幼稚園ウチはあまり歓迎しないに決まってるじゃない。送迎は楽になるけど、他の子供たちとの差別化とかもしなきゃいけないし。何より学芸会とか音楽発表会とか、行事に全部参加出来なくなるんだよ?」

「ですよねぇ……」

「とはいえ、他に預けたからって、行事に参加しやすくなるとも言えないけどね。大体同じ時期に行事全部やるだろうし、会場がブッキングしないように調整してんの……祥子先生だって知ってるでしょ?」


 もちろん知ってますけど。

 昨年の音楽会の時は、会場の予約から交通整理までやりましたし。


 菜穂ちゃんの事をずっと側で見てあげるって事は、私も覚悟を決めないといけないって事でもあるのかな。琴子さんは退職して俊介さんと菜穂ちゃんの側にいるって決めてるみたいだし、何ならもう退職願いも出したって聞いてるし。


「まぁ、見方によっちゃ、行事は一番の間近で見れるとも言えるけどね。プロカメラマンが綺麗に撮影もしてくれてるし、高野崎さんと結婚するからって、祥子先生が退職する必要はないと思うけどね」

「別に、退職するなんて一言も言ってませんけど」

「結婚の部分は否定しないんだ?」

「否定したくありません。俊介さんは優しすぎるんですよ……だから、江菜子さんの時もダメになっちゃったんでしょうけど」


 そうだ、俊介さんは優しすぎるんだ。 

 優しすぎるから全てを自分一人で抱え込んでしまい、壊れるまで頑張ってしまう。

 そんな優しすぎる俊介さんが出した答えが、仕事と家庭の両立は不可能ということ。

 仕事を諦め、家庭を選択した俊介さんが、私まで退職する事を果たして望むのだろうか?


 …………そっか、違うんだ。 


 俊介さんは、本当なら主夫になりたいのかもしれない。

 だとしたら、私が代わりにバリバリ働くのが一番の正解なのかも。

 

「……うん、何だか、ヤル気が沸いてきました」

「え? 今の流れで? なんで?」

「とにかく、ありがとうございます。今日は初夏に向けての飾りつけの作成ですよね。その後打合せでしたっけ。プール開きも来月ですし、色々と準備しないとですよね」

「え? ああ、うん、そうだけど」


 奥さんが働いて、旦那さんが家を守る。 

 今のご時世、そういう家庭だって当たり前に存在するんだから。

 俊介さんのやりたい様にやらせれば、それが一番いい。

 稼ぎは……多分、俊介さんには遠く及ばないと思うけど。

 それでも、きっと俊介さんなら笑顔になってくれるよね。

 


「…………以上になります。六月のピアノはすてきなパパです、先生方は弾けるように練習をしておいてくださいね。以上をもって、閉会とさせて頂きます」


 すてきなパパってフレーズ、結構好きかも。

 まさに俊介さんのイメージぴったり。

 日曜日に俊介さんに無理言ってピアノ運んでもらったから、お家で弾いてあげようかな。

 菜穂ちゃんのお歌の練習にもなるし……って、菜穂ちゃんを特別扱いしちゃダメなんだっけ。

 少しくらいなら……? とも思うけど、やっぱりダメかな。


「祥子先生、ちょっと大丈夫ですか?」


 打合せを終えた私を、数人のママさんたちが出迎えてくれた。  

 一瞬、なにかクレーム!? って身構えたけど、様子を見るにそんな感じはしない。


「お聞きしましたよ~? 祥子先生、菜穂ちゃんのママになるんですって?」


 衝撃の言葉が飛び出してきた。

 衝撃すぎて頭の中が真っ白になっちゃうくらい。

 

 数秒後、我に返る。 

 なんで、そんな言葉がママさんの口から出てくるんですか?


 神崎先生が喋った? いや、それはないと思う。

 神崎先生が漏らしたのなら、もっと前に広まってるはず。


 だとしたら……誰かに見られてたかもだけど。

 それにしたってママって言葉は時期尚早だ。

 お付き合いしてるんですか? が、妥当な言葉なはずよね。 

 という事は……どういうこと?


「高野崎さんの前の奥さん、怖い人でしたもんね~」

「そうそう、私、近くを通るたびに大声聞いてましたもん。ああ、あそこの家の人、また怒鳴ってるんだなって」

「ねぇ~、ほんと、菜穂ちゃんが可哀想。でもさ、さすがに他所の家のことに、首を突っ込む訳にもいかないよねぇ~」

「うんうん、それにさ、離婚して高野崎さん一人で大丈夫なのかな? って皆で心配してたんですよ」

「そうそう、年少さんの時に一回も顔出さなかったですもんね。とはいえ、ウチの旦那も来てませんけど!」

「あはははは、でも、菜穂ちゃんも祥子先生が一緒なら安心ですね」

「一緒に住んでるんでしょ? もう仲睦まじい感じで最高じゃない」

「いつ籍を入れられるんですか? 私達みんなで祝福しようって準備してるですよ!」


 え、ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと待って、なんで? なんでこんなにバレてるの?

 しかも私と俊介さんが結婚するって確定情報になってないコレ?

 話が早すぎて私の何もかもが追いついてない、どうすればいいのコレ?

 どう収集つければいいのコレ? あわわわわわ。 


「あ、あの、ちょっと」

「もう皆知ってますから! あ、でも他の先生には内緒にして欲しいって言ってましたね」

「誰がですか」

「お預かり先生の吉住さんですよ?」


 吉住さん……ああ、口から生まれて来た様な感じですもんね。

 って、アイツかああああああああああぁ! 一体どこで見てたのよ!

 一番のお喋りさんだから絶対にバレないように気を付けてたのに!

 吉住さんにバレてるって事は、もう関係者全員にバレてるも同義じゃない!

 え!? 私まだ俊介さんにOKすら貰っていないのに!?

 なんなら琴子さんと四人で暮らしているという謎な状況なのに!?

  

「籍を入れるってことは、寿退社されるんですか? 先生が居なくなったら寂しいわねぇ」

「でも、それで前の先生さんも退職されちゃったじゃない? 幼稚園の先生の宿命なのかもしれないよね」

「先生が居なくなった後も、私達で楓原幼稚園を盛り上げていきますからね!」

「あ、でも菜穂ちゃんのママさんなんですから、今度は私達サイドって事じゃない?」

「そっか、そうよね! じゃあ保護者会のネームプレートも作っておきますね!」


 待って! 退職して保護者会入るの確定するの待って!

 私まだ何も決まってませんから! 何にも考えてませんから!

 バリバリ働いて将来ヒモになる亭主の為に頑張って働きますから!

 って、俊介さんのことヒモ呼ばわりとか、ヒモとか! 


「向井先生、ちょっと」


 他の奥様方とは違い、十オクターブくらい低い声で私のことを呼ぶ人がいる。

 うん、知ってた。だって、直前まで打合せしてたんですもん。

 

「……園長先生」

「他の人に迷惑になりますから、奥で話しましょうか」


 青筋だけじゃない、なんならツノまで見える。

 腕組みしながら私を呼ぶ園長先生は、過去類を見ない程に怒りのオーラに包まれていて。

 

 奥に連れ込まれてしまう私の脳内の片隅に、あ、そういえば菜穂ちゃんのお迎えに琴子さんが来るんだったという、更なる嵐の前兆の種をかすめさせながら、皆の謎の期待を背負いつつ、その場を去るのでした。 

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