第36話 私、今日から妹になります。(古河琴子視点)

「俊介さん、これ」

「お茶? ああ、ありがとう」

「あとついでに」


 社用車を回してきた俊介さんに、自販機で買ったお茶を手渡して、そのままキスをした。

 最近、俊介さんとのキスは、段々と特別じゃないものに変わっている気がする。

 手を握るのと同じような、当たり前のことのように、私たちはキスが出来るんだ。 


「それって、イイこと……なのかな」


 唇に残る感触を人差し指でなぞりながら、俊介さんには聞こえないようにひとり呟く。

 いけない事をしているみたいだけど、俊介さんは既に離婚しているし、私に恋人はいない。

 正当な純愛なはずなんだけど、どこか違う感じがする。

 祥子さんがいるからかな……でも、祥子さんがいるからダメな訳じゃない。

 一人の男性を二人の女が取り合うなんて、昔からある普通の事だと思う。

 それに、菜穂ちゃんのことも、私は大好きだ。

 俊介さんが愛する菜穂ちゃんの事を、私も愛している。

 確かに私は産んでない、だけど、あの子は間違いなく俊介さんの子供なのだから。


 玄関から仕事にいく旦那を見送る妻のように、社用車に乗り込んだ俊介さんへと小さく手を振って、心の中でいってらっしゃいと声を掛ける。安全運転で、ちゃんとお家に帰ってきてね。温かい家庭で俊介さんの事を、いつまでも待ってますから。


「古河さん」


 遠越さん? 突然の声掛けに振り返ると、彼は目を泳がせながらその場にいた。

 何か言いたいことでもあるのかな? ちらちらと私を見ては、ちょっと視線を下に。


「……いってきます」

「うん、いってらっしゃい」


 くぐもった声で、ややもしてようやく出てきた言葉。

 俊介さんと同じように手を振ってあげると、遠越さんはまたちらりと私を見て、小走りで社用車へと向かう。

  

 あの目にはどんな意味が含まれているのかな……なんて、考えても分からないんだけど。

 私が思うのは、俊介さんと仲良くなって欲しいなっていう、伴侶的な思想のみ。

 旦那と仕事仲間が上手くいくのを願うのは、妻なら当然だよね。


 あは、なんて、思考行き過ぎかな。 

 結婚できるかどうかも分からないし、正直なところ、祥子さんは強敵だし。

 でも、私にもできる事をして、俊介さんに認めて貰わないと。

 少しづつでいいんだ、ゆっくりと前に進めていけば、それでいい。



 菜穂ちゃんのお迎えは遅くとも19時までに行けばいいのだけど、基本は18時。

 追加料金が問題なのではなく、お気に入りのアニメに間に合わないのが問題。

 

 真っ先に走っていくのを何度も見てるから、大好きなんだと思う。

 子供の頃を思い出すな……日曜の朝にアニメが見たくて、目覚ましまで掛けてたっけ。

 そんな菜穂ちゃんの期待に応えるべく、幼稚園までタクシーで向かわないと。

    

「あ、運転手さん、ここで大丈夫です」

「え? いいのかい? 幼稚園までまだ結構あるよ?」

「はい、大丈夫です」


 幼稚園の正門にタクシーでつけちゃうと、無駄に注目を浴びちゃうもんね。

 いくら祥子さんが味方って分かっていても、私は菜穂ちゃんのママじゃないんだから。


 内縁の妻……って感じかな? 戸籍上も法律上も何の関係もない、けれど側にいる人。

 ドラマとかで見たことあるけど、私はそんなのあり得ないって思いながら観てたっけ。 


 今なら、ちょっとだけ理解出来ちゃうかも。

 それでも良いから、俊介さんの役に立ちたい。

 俊介さんに褒めてもらいたい……ふふっ、なんか私、子供みたいだね。


 楓原幼稚園の正門、思っていた以上に人がいて、ちょっと焦る。

 言うなら私は部外者だ、嘘をついて菜穂ちゃんを迎えに来ている悪者。 

 変に意識しちゃって、胸がドキドキしてくる。


 中に入ってもいいのかな?

 他の人を見ると、自分で門扉を開けて中に入って、それで閉めてる。 


 同じようにしてもいいのかな……細かいこと聞きそびれちゃった。

 仕事中の俊介さんに電話するのも迷惑だろうし、祥子さんも出れないだろうし。

 普通、子供を迎えに来た時って、誰かを呼んだり……とか?

 

「……どうしました? 誰かお探しですか?」


 どうしよう、正門の所でまごついていたら、年配の方が声を掛けてきちゃった。

 エプロン付けてるし、幼稚園で使うような名札も付けてるから、関係者だよね?

 えっと、名札に書いてある名前は……吉住さん、かな。


「あの、私、子ど」


 「子供を迎えに来ました」って言おうとして、その言葉を飲み込む。

 親御さん以外には引き取らせないって言ってたもんね。

 それを伝えていいのは祥子さんだけ、他の人に言う訳にはいかない。


「……あの?」

「すいません、祥子先生に御用があって来たのですが」

「祥子先生ですか? なら、そこの角が先生たちのお部屋になってますけど」

「ありがとうございます、では失礼いたします」


 ぺこぺことお辞儀をしながら、そそくさと職員室へ。

 幼稚園だと職員室って言わないのかな? 先生のお部屋、かな?


 なんだか無駄に人だかりがあるけど、私には関係ないよね。

 隙間から先生のお部屋を見るも……あれ? 祥子先生、いない?


 てっきり、祥子先生が菜穂ちゃんの帰り支度をして待ってると思ってたのに。

 となると、私一人で菜穂ちゃん見つけないといけないのかな。

 でも、多分それって不味いよね? いくら菜穂ちゃんと面識があるって言っても――


「あー! こちょちょママだー!」


 先生のお部屋から少しだけ離れたお部屋、そこのお部屋から可愛らしい声で、私の事をママって呼ぶ菜穂ちゃん。園服姿のままトテトテとやってきて、私のスカートにぎゅっとしがみつく。


「きょうはおうかえ、こちょちょママなのー!?」


 物凄いキラキラした瞳で私を見上げちゃって。

 うぅ、可愛い……菜穂ちゃんの事をギューッと抱きしめた後、どうしようかなと少考。


「…………うん、そう、今日は私なの」

「きゃー! こちょちょママとなほ、おうちにかえるー!」


 来た時と同じ速度でお部屋へと戻る菜穂ちゃん。

 多分、通園バッグとか取りに行ったんだろう。


 ああ、可愛いなぁ。

 私にもあんな時期あったのかな。

 

 帰り支度をしているであろう菜穂ちゃんの「はむしゃんあうかなー?」って声が聞こえてきて、少しだけ苦笑する。聞いてはいたけど、本当にハムが好きなんだね。柔らかいし食べやすいからかな? ハムだけで夕食が終わりそうになった時はさすがに焦ったけど。


「あの、すいません」

「……?」

 

 その場で菜穂ちゃんを待っていると、先生のお部屋を取り囲んでいたご婦人たちが、怪訝な表情で私へと問いかける。


「貴女、菜穂ちゃんとどういった関係ですか?」

「ママって言われてませんでした……?」

「え、でも、菜穂ちゃんのママは祥子先生じゃ……」


 はっ、しまった。

 菜穂ちゃんが来てくれたから、どこか安心しちゃってたけど。

 私いま、敵地ど真ん中にいるんだった。


 しかもこの人達、菜穂ちゃんの事を知ってる感じ? 

 離婚して、俊介さん一人で育ててる事も……。

 っていうか、そこの人なんて言ってた? 菜穂ちゃんのママが祥子先生?


「でもでも、菜穂ちゃん今この人のこと、ママって言ってなかった?」

「え? どういうこと? 高野崎さんって祥子先生と結婚するんじゃなかったの?」

「あ、私、そういえばこの人見たことある! 団地の中で男の人と腕組んで歩いてた人だ!」

「え? どういうこと?」

「キスとかしてて熱愛ラブラブだなって思って……え? なんで貴女が菜穂ちゃんを?」


 だから、その祥子先生と結婚ってどういう事なの? って問いただしたかったけど、今の状況、多分それどころじゃない。

 このまま菜穂ちゃんが準備を終えて「では失礼します」って帰れる空気じゃないよね。

 当の祥子先生がいれば話は違うんだろうけど、見た感じどこにもいないし。

 

「……えっと、私は……」


 どうする? 素直に言っちゃうべき? でも、そうしたら私が菜穂ちゃんの家族じゃないってバレて、お迎え自体が出来ない事になってしまう。家族だって嘘を付く? そんなの通用するはずない、だって、この人たちは菜穂ちゃんのことを私よりも詳しく知っているんだから。


「あ……そういえば、この人と一緒に歩いてた人、そういえば高野崎さんだったかも」

「え? それって、祥子先生とはどうなっちゃう訳?」

「二股してるってこと?」


 ヤバい、話がどんどん飛躍して真実に近づいていってる。

 私たちの関係は私たちだけの秘密だけど、他からしたら異常な状態なんだ。

 そして、一番叩かれるのは間違いなく俊介さん、彼が誹謗中傷の的になる訳にはいかない。

 

「こちょちょママー! なほ、かえれうよ!」


 帰り支度を終えた菜穂ちゃんがやってきて、キラッキラの笑顔で私を見上げるけど。

 ごめんね、多分、このままじゃ帰れない。

 説明しないと、俊介さんの今後に響いちゃうから。


 でも、説明するにしても、シェアハウスとかじゃダメだ。

 だって、キスまでバレてるんだから。

 なら……どうしよう? どうしたらこの場を切り抜けられるんだろう?

 ダメだ、頭の中がぐしゃぐしゃで、どうにもならない。 


「……すいません、私――」


 たすき掛けにしていたバッグの肩ひもを、ぎゅっと握りしめる。

 俊介さんを悪者にする訳にはいかない、その役目は、私が引き受けないと。


「あれー? どうしました? 皆してこんな場所に溜まっちゃって」


 意を決して語ろうとしたその時、私たちに向けて声を掛ける女性が現れた。

 突如現れたもう一人の女性、ジャージ姿のその人は、私たちを見てニッコリと微笑む。 


 誰だろう? 名札がついてるから、幼稚園関係者かな。

 関係者まで出て来ちゃったら、もう私一人じゃどうしようも出来ない。

 最悪、子供を連れ去ろうとした誘拐犯として逮捕される可能性も――

 

「神崎先生、この人が菜穂ちゃんを迎えに来てるみたいでして」

「え? そうなの? えっと…………」


 神崎先生と呼ばれるその女性は、私のことを上から下にじっくりと確認するように見た後、しばらく悩み、何かを思い出した様に目を見開いて、ぽんっと手を打った。

  

「ああ! この人なら大丈夫! 祥子先生からも話聞いてるから!」

「え? そうなんですか?」

「でも、この人――」


 こそっと耳打ちしてる。

 多分、私が俊介さんとキスしてたのとか、そういうのを伝えているんだろう。


 面倒くさいなぁ……学生時代を思い出しちゃう。

 人と接するのが面倒で、私は一人で過ごす事が多かったんだ。

 それを克服するために、敢えて茨の道である営業職を希望とかしたしたけど。

 やっぱり、面倒だと感じちゃう辺り、私には向いてなかったのかな。


「……ふぅん、でも大丈夫だよ。この人、高野崎さんの妹さんだから」


 妹? 私が俊介さんの、妹?


「ほっぺにキスが出来ちゃうくらい仲の良い妹さん……だよね?」

 

 任せてって感じで、神崎先生って人はウインクをした。

 妹って、ちょっと納得いかないけど。

 でも、いまこの場で全てを丸く収めるには、それしかない。

 

「……そう、です。私、お兄ちゃんと一緒に暮らしてる、高野崎俊介の妹、琴子です」


 今この瞬間、血の繋がりがない兄妹が爆誕してしまった。

 そして私は遠目に確認したんだ、あんぐりと口を開けた祥子先生の姿を。

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