第34話 彼女の秘密(遠越忍視点)
何事もなく終わっちまった契約書の改竄事件。
嘘みたいに日常そのままに毎日が過ぎ、表面上は平和そのもの。
退職すると言っていた古河さんだったけど、てっきりすぐ居なくなるかと思いきや、一か月は残るのだとか。あんまり目を通さなかった社規則、そこに記されていた〝退職の場合一か月前に通告すること〟という内容を、きっちりと守っているという事なのだろう。
俺だったらそんなの気にせず、翌日から出勤しないだろうな。
社規則なんて守る必要なんてないと思っていたし、ある事すら忘れてたし。
でも、遅かれ早かれ彼女は退職しちゃうんだよな。
俺たちなんかよりも気配りも出来て、仕事も出来るのに。
「なーにぼんやりしてんのさ」
「……別に、ぼんやりなんかしてねぇよ」
「嘘ばっかり、ずっと古河さん目で追いかけてんじゃん」
「ば、んな訳ねぇだろ」
「あ、古河さんこっち見てるよ」
「え? ……見てねぇじゃねぇか!」
「あははは、分かりやすいなぁ。詩の予想的中って感じ?」
ケラケラと一ノ瀬は楽しそうに。
確かに一ノ瀬の言う通り、最近の俺は無意識に彼女を目で追っちまう。
でも、それは詩ちゃんが言っていた様な、恋したとは違う感情だと思うんだ。
「惚れた……っていうよりも、見てるだけで学べる気がするんだ。俺に足りないもの、その全てを古河さんは持っている気がする。仕事に対する姿勢とか、コミュニケーション能力とかさ。同じことをするからって上手くいくとは思えねぇけど、それでも何もしないよりはマシかなって思うんだよ」
「ふぅん……なら、教えて貰えばいいんじゃないの? その心意気って奴をさ」
「バカヤロ、俺は先輩なんだぞ? 後輩にはむしろ教えてやらないとダメだろうが」
「後輩ったって一個下なんだし、大差ないと思うけどなぁ」
ごもっともな意見だとは思うが、そこは俺のプライドが許さねぇ。
だからこうして隠れながら〝
いつか古河さんから「遠越先輩、凄いですね!」って言われる様な男になるために。
一か月しかねぇんだけどな。
退職とか、考え直してくれねぇかな。
そもそも何が理由で退職するんだ?
古河さんが退職する理由なんざねぇだろうに。
「古河の退職理由? んなの教えられる訳ねぇだろうが」
会議室に呼ばれて二人きりだったから丁度いいと思ったのによ。
「おー? もしかして最近古河のこと追っかけてんのって、そういう理由か遠越ぇ?」
「違いますよ。ただ、古河さん俺よりも全然優秀ですし、退職なんて勿体ないなって思ったからっすけど。……なんすか、変な目で見ないで下さいよ」
「いんやぁ? まさか遠越からそんな言葉が出てくるとは思わなかったからさ。これは高野崎の野郎も節穴だったって事かな」
「……高野崎? どういう意味っすか」
なんでここであの野郎の話が出てくるんだ?
この裏で色々と動いてる感……気に入らねぇな。
「別に、こっちの話。っていうか、お前を会議室に呼んだのはそんな話をする為じゃねぇんだけど。この資料な、古河が取ってきた仕事なんだけどよ、どうやら人手が足らないらしいんだ。古物商のイベントでな、場所は
ぽいと差し出された分厚い資料。
タイトルには『悠久の時を超えた遺物たち』と題されていて。
中を見ると、人件費やら宣伝費、さらには場所の見取り図から配置設計、人員配置まで事細かに描かれているじゃねぇか。他の資料にはタイムテーブルやアサインシフトまで……これ全部古河さんが作成したのか? 最近、営業には行かずにデスクワークしてるなって思ってたけど、まさか。
「本来、お前が全部出来なきゃいけない事なんだけどな」
両肘を机の上に立て、両手を口元で組む。
威圧的な態度で俺を見る江原は、いつもの江原じゃなかった。
どこか呑気で、仕事なんか二の次って感じを普段は醸し出しているくせに、なんだよこれ。
江原所長の本当の姿って奴なのか? 仕事に対して本気になれって事か?
本来、全部俺が出来なきゃいけないこと。
営業に行き、仕事を取ってきて、成果という目に見える形の結果を残す。
ただ椅子に座って、適当に時間を潰すだけの人間には、何も教える気は起きないって事か。
「……了解っす、出来るってこと、証明してみせますよ」
くっそ、やたら分厚い資料じゃねぇか。
こりゃ相当に読み込まねぇとダメだな、机に戻って一字一句見逃さねぇ様にしねぇと。
スキャンもしておいた方がいいな、いや、既に印刷されてるって事は。
「あの、所長これって」
「既に済みだよ、遠越のメールボックス見てみ」
「……了解っす」
んだよ、言葉にする前に分かってんのかよ。
はは、確かに送られてきてるわ。
意外とみんな仕事出来るんだな、こりゃ良い方に予想外だ。
★
「なんか、遠越さんの目、随分と変わりましたね」
「ん? ああ、そうだな。きっかけがありゃあアイツでも変われるんだよ。毎日毎日勉強しろ勉強しろじゃ嫌になっちまうだろ? スイッチは押すべき時に押すんだ。アイツは、今がその時なんだよ」
入れ替わりで会議室に来た古河に対して、江原はどこかさっぱりとした表情で微笑む。
そして見上げるようにして江原は古河を見るのだ。
「ちなみに、アタシはお前に対しても、いつスイッチを押すか悩んでるけどな」
「……私ですか? 私のスイッチは既に押されてますけど」
「それを押したのはアタシじゃないだろ。まぁいいさ、その時が来たら押してやるよ」
意味深な言葉、江原がいうスイッチを押すタイミング、押された古河がどう変わるのかは不明なままだが、当面の目標は遠越忍を変える事にあるのであろう。
江原はすぐさま視線を遠越へと移すと、ニマニマと微笑み続けるのであった。
★
「遠越君、そろそろ帰ろ」
「……へ? もうそんな時間か? あ、マジだ、五時過ぎてんじゃん」
集中してると時間の経過が早いな、いつもならトランプとかして時間潰してんのに。
一ノ瀬に声掛けられるまで全然気づかなかった……なんか久しぶりだ、この感じ。
「お先、失礼します」
定時と同時に走るように帰る高野崎……あの速度で帰宅してんのに、仕事量だけは誰よりも多くこなしてんだから、恐ろしいもんだ。あんな人間がいると、俺たち凡人が残業するだけで無能ってレッテルが貼られたりするんだよな。
悔しいけど、その通りだと思っちまう自分がいる。
頑張れば、あの高みに俺だって登れんのかな。
一杯飲む? と誘う一ノ瀬と共に、俺は会社近くのラーメン屋へと足を運んだ。
にぎにぎとした店内、のれんをくぐると俺たちはいつものカウンターへと足を運ぶ。
生ビールで乾杯した後、ほくほくの枝豆に塩を振りかける。
しょっぱいよって一ノ瀬は苦笑するけど、しょっぱいくらいがちょうどイイんだ。
「前によ、詩ちゃんの前で一ノ瀬言ってたけどよ」
「ん? 何の話?」
「言ってたよな、高野崎には一生勝てないって」
「ん……言ったけど、それが?」
「あれ、本気で言ってんのかなって、ちょっと気になってよ」
届いたレバニラをそのままにして、俺は沈黙したままの一ノ瀬へとさらに問う。
「最近、この営業所の奴らって、結構出来る奴が多いんじゃないのかって思っててさ。江原にしても、古河さんにしても、野芽さんにしても、高野崎にしても……。俺、この営業所が出発点なだけで、落ちこぼれって思いこんでたんだよな。でもよ、それって自分でレッテル貼ってただけで、実は違うんじゃないかって、最近そう感じててさ」
事実、江原は言葉にする前に仕事をこなす程の人だったし、古河さんはアレだけの資料を一人で作れる凄い人だった。野芽さんは俺たちがしようとした悪事を未然に防いでくれたし、高野崎は一歩外に出れば確実に何かしらの成果を持ち帰ってきている。
「……そうかもね、実際、遠越君は何か仕事任されたみたいだし」
「別に、あれは古河のを手伝えって言われただけだから、何でもねぇよ。俺が言いたいのは……一ノ瀬、お前だって高野崎に勝てるんじゃねぇかって、そういう話だ。腐ってたのは俺たちであって、自分から自分をダメにしてたんじゃないのか? なら、今からでも努力すれば追いついて、追い越す事が出来るんじゃねぇのかなってよ」
既に俺たちは三年無駄にしちまってる。
他の会社じゃ、二十七歳で会社の先頭に立って戦ってる奴だっているんだ。
既に二十五歳、遅いかもしれねぇけど、間に合わない訳じゃない。
「そうかもしれないね、君がそう言うんなら、そうなんだと思うよ」
「だろ!? 今からでも遅くねぇ、何事も全力で取り組めば、きっと俺たちだってやれるはずだって! うっし、明日からも仕事頑張るかな! じゃあ俺ちょっと資料読み込みたいからよ、一足先に帰るぜ!」
「はいはい、無理しないでね。あと、そういった資料は極秘だから、普通持ち帰っちゃダメなんだよ? 仕事を家に持ち帰るなって、散々言われてるじゃん」
「わぁってるよ! そんじゃな!」
既に冷めてきていたレバニラを一口だけ頬張って、俺はラーメン屋を後にした。
心なしか足取りが軽いのは、多分、みなぎってる証拠なんだろうな。
明日からの古河さんとの仕事。
へへ、なんだか学生の頃みたいに嬉しくなっちまう。
……っと? 前を歩くのは古河さんか? 確か彼女って電車通勤だよな?
でも、駅とは反対方向に進んでるし、どこに行くんだ?
明日からのパートナーだし、ご挨拶でもしとこうかな。
★
ご挨拶、出来ねぇ。
なんでこんなに緊張しちまうんだ。
こっそりずっと後を付けてちゃ、まるでストーカーみたいじゃねぇか。
スーパーで買い物もしてるみたいだし、スマホで誰かと会話してる?
遠くて聞こえねぇし、気付かれねぇようにスニークアクションしてるし。
俺、なんでこんなスパイみたいなことしてんだろ。
★
ん? ここって、団地だよな。
楓原団地、会社から結構遠いけど、こんな場所に古河さん何の用があるんだ?
一階……いや、二階か?
扉の閉まる音が聞こえてきたな、中に入ったんだ。
誰の家に入ったんだ? やっぱ、恋人とかかな。
人のプライベートを覗き見るのは気が引けるが、明日からのパートナーだし。
もし恋人がいるんなら、距離感持たないとだしな、えっと、表札はっと。
えぇっと、妙に綺麗な字だな。
…………高野、崎? 高野崎、俊介。
高野崎俊介……高野崎! 俊介!? たか、高野崎俊介ええぇ!?
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