第33話 二人分のお引越し
どうやら琴子さんの引っ越しは冗談ではなかったらしい。
三人で江菜子との接見について談議した翌日の土曜日。
「はい、出来たら近い所が空いていたら、そこにお願いします」
「……そうですね、この辺りなら空いてますよ?」
「あ、じゃあその駐車場をお願いします。いつから使えますか?」
「今日から大丈夫です、その代わり日割りで料金を頂きますけど」
「それで問題ありません、宜しくお願いします」
琴子さんと一緒に、団地近くの月極駐車場へと足を運ぶ。
住んでいたアパートを解約してしまった琴子さん。
現在彼女の車はコインパーキングに駐車してあり、一晩明けた料金は既に天井の二千円に到達してしまっている。
だがしかし、天井二千円は平日の設定であり、土曜日の今日に限っては青天井だ。
一時間ごとに値段が上がっていく駐車場よりも、とっとと月極を契約してしまった方が安上がりなのは間違いない。間違いないんだけど。
「なんだか、段々と本格的に逃げられなくなってきた感が増してきたね」
「当然です、逃がすつもりも毛頭ありませんから」
琴子さんの本気度が伺え知れる。
団地管理事務所にも足を運び、転入手続きをも済ます。
元々が2LDKなのだから、同棲生活であっても契約上なんの問題もない。
「次は転入届ですね。転出届も出しに行かないとですけど、それは私一人で行きますから」
「あ、ああ、うん。そうだね」
「どうしたんですか? そんなに私と一緒に住むの、嫌ですか?」
「そういう訳じゃないけど……なんか、決断が早くて、思考が追い付かないというか」
「……良かった、嫌がられてたらどうしようって思っちゃいました」
少し大きめのパーカーにパンツスタイルの琴子さん。
いつもはちょっと気取った感じの服装な彼女なのに、今日はずいぶんとゆるふわだ。
あざと可愛いちょい出しの指先を口先に当てて、ほっこり微笑む。可愛い。
「嫌がる訳ないよ、琴子さんと一緒なんて、僕にはもったいないくらいだし」
「そんな、そんなに褒めたって、何にも出てこないですよ? もう、俊介さんたら」
ぎゅっと僕の腕にくっついてきては、ぴっとりと頬を肩に当ててくる。
はたから見たら間違いなく恋人同士、しかも熱愛間違いなしだ。
「でも嬉しいな、まさか二人きりで出かけられるなんて、思ってもみませんでした」
「さすがに両手に花の状態で団地内を歩く訳にもいかないからね、それに祥子さんは近くの幼稚園の先生でもあるんだから、菜穂と四人で歩いたら、どんな噂が立つことやら」
離婚した男と一緒に歩くってだけでも噂になりそうなのに、隣にもう一人いたらそれはもう炎上間違いなしだ。離婚の原因は実は僕にあったんじゃないかって疑われても致し方ない、それぐらいに危険度が高い。
そう説明しても、祥子さんはなかなか僕を離してくれなかったけど。
『絶対に帰ってきて下さいね!? 二人でお休憩とか絶対にダメですからね!?』
必死だったなぁ……多分、帰宅したら次は私の番とか言い出しそう。
祥子さんの家は確か近くなんだよな、コインランドリーで会ったくらいだし。
だとしたら、荷物運びとかかな。流石にキャリーケース一つじゃ足りないだろうし。
部屋割り、考えとかないと……いや、引っ越しも考慮しないとか?
「なに考えてるんですか?」
「いや、大したことじゃないさ」
「うそ、絶対いま祥子さんのこと考えてましたよね」
「……そんな訳ない――」
軽いキスを琴子さんとする。
突然すぎて、そのままさせてしまった。
いや、違う。
僕の中でこれぐらいは良いという、境界線が緩んでいる証拠だ。
キスは許していいもの……のはずがないんだけど。
祥子さんともしてるから、かな。
でも、屋外は不味い。
ただでさえ腕を組んで注目されてるのに、キスだなんて。
「ちょっと、団地内だから、誰に見られてるかも分からないのに」
「いいんですよ、どうせ一緒に住むんですから。見せつけてラブラブ夫婦だと思わせちゃえばいいんです。だからほら、この胸だって、俊介さんなら自由にしてもいいんですよ?」
「そんなアメリカンなノリは僕には無理だから……ほら車乗って、市役所行くんでしょ?」
想像以上にスキンシップ激しい。
祥子さんという目に見えたライバルがいるからか?
職場の琴子さんは静かな雰囲気だったのになぁ。
★
「おかえりなさい! 用事終わりました!?」
「ぱぱ! おあえりなたい!」
市役所に行った後、コンビニで飲み物を購入してからの帰宅。
車内でも琴子さんはキスをしてきたり手を握ってきたりと色々だったけど、二人には秘密。
首筋にしてきた時は跡が残っちゃうんじゃないかと、少し焦った。
キスマークで焦るとか、学生じゃあるまいし。
「これ、菜穂リンゴジュース好きだから買ってきたよ」
「りんおじゅーちゅう!? なほ、りんおじゅーちゅだいしゅき!」
「あはは、うん、知ってるよ。祥子さんもこれ、コーヒー買ってきたから」
「買ってきたから」の、「ら」のタイミングで口づけをされた。
菜穂はパックのリンゴジュースを持って既にリビングへと向かい、琴子さんは自分の車をコインパーキングから月極へと移動させているこの僅かな時間。首に腕を回して逃げられない様にして、祥子さんは僕の口の中をペロリとなめる。
乱暴なキスではなく、砂糖か何かをなめるような、そんな感じ。
祥子さんは互いの吐息が感じられる距離のまま、こう言った。
「……やっぱり、琴子さんの味がします」
そんなの分かるの!? 味!? 琴子さんの味!?
「ずるいです、まさか最後までしてませんよね?」
「す、する訳ないじゃないか」
間近でじとーっとした目で見ないで欲しい。
どちらかと言うと琴子さんのキスは丁寧だから、フレンチ具合で言ったら祥子さんの方が遥かに上だ。今だって口の中をなめるとか、生まれてから一度だって経験したことないのを、あっさりとやってくる。
経験豊富なのか、逆に何も知らないから出来るのか。
何にせよ、僕の心臓はドキドキしっぱなしだ。
「ただいまー……って、何してるんですか玄関先で」
「夫婦の情痴です」
情痴……愛欲のために理性を失うこと。
キリっとした表情でぶっ飛んだ返事をした祥子さんは置いておいて。
僕達は遅めの昼食を取ると「次は私の番」と祥子さんに誘われて家を出ることに。
菜穂には申し訳ないけど、この土日は二人の引っ越しで終わってしまいそうだ。
車を走らせること二十分ほどで、祥子さんの住まいへと到着する。
大通りから小道にそれた二階建てのアパート。
運転は祥子さんに任せて、僕は助手席でのんびりとさせて貰ったけど。
なかなか祥子さんも運転が上手い、気を抜くと寝ちゃいそうだ。
「あ、鍵はタッチ式なんだね」
「はい、父親にセキュリティだけはこだわりを持てって、散々言われました」
キーホルダーの一種かと思っていた楕円の鍵をパネルに当てると、ガチャリと開錠する音が聞こえてくる。手に荷物とか持ってる時にこれだと、非常に助かるだろうな。ウチは団地だから勝手に変えられないけど、一戸建て購入する時は検討の余地ありだな。
「どうぞ上がって下さい。まだ引っ越し準備で、部屋の中が汚いんですけど……」
引っ越し準備中の家が綺麗なはずがないだろうなと思い覗きこむも、意外や意外、段ボールこそ積みあがっているけど、部屋自体は綺麗そのものだ。
「あ、ロフトがある。僕、ロフト付きの家ってちょっと憧れてたりするんですよね」
「あはは……夏は暑いですし、冬は寒くて、結構厳しいですよ? それに天井も狭いですから、寝て起きると頭ぶつけちゃうんです。最近は慣れてきましたけど」
「ちょっと上がってもいい?」
「え? あ、えと……は、はい、イイです」
頬を赤らめながら、もじもじとしている祥子さん。
ロフトに何かあるのかな? と思ったら、先の言葉通り布団が一組敷かれていて。
恥ずかしがるほど汚くはないし、目覚ましとか生活感のある小道具が置かれている程度。
「へぇ……あ、確かに天井が近い。座って背筋伸ばすことも出来ないんですね」
「そうなんです、ですからこうやって、布団に入るくらいしか出来ないですよ」
僕の後に続いてロフトへと上がってくると、祥子さんは布団の中にするりと。
手慣れてる感じだ、それはそうか、ここは祥子さんの暮らしている部屋なんだし。
見下ろすと部屋が一望出来て……とはいえ1K、テレビやテーブル、後はお化粧用品かな。
他にもボードとか飾ってたっぽいけど、引っ越す為に外したのだろう。
飾ってあった場所が色変わりしていて、なんとなく前の状態が予想出来る。
あとは……あれはピアノかな? 白くて長方形、小型で可愛い感じ。
そっか、幼稚園の先生ってピアノ弾けないとダメだもんな。
近くにヘッドフォンもあるから、周囲には音が聞こえないタイプなんだろう。
祥子さんのピアノ……ちょっと聞いてみたいかも。
「あの、俊介さん」
背後からの声に振り返ると、祥子さんが布団から顔だけだして、おいでおいでをしていた。
「どうしました? 何かあるんですか?」
「いえ、一緒にお布団とか、楽しいかなって思いまして」
耳まで真っ赤にしながら僕を誘う祥子さんは、なんだか可愛くて。
お布団に入ると楽しい……か、菜穂もお布団に入ると喜ぶんだよな。
一瞬迷ったけど、二人きりだし、祥子さんに恥をかかす訳にもいかないし。
「ふふっ、じゃあ、お邪魔しますね」
「――――、あ、はい、宜しく、お願いします」
宜しくお願いします? 変な事をいうなって思いながら、布団をめくる。
僕は布団にすぽっと入るような事はしないんだ、掛けるために一旦めくる。
これは普通の事であるし、暖気が逃げるとか、そういうのはあまり考慮しない。
――が。
捲った布団、そこにいたのは、洋服も下着も全部脱いだ状態の祥子さんの姿だった。
恥ずかしいのか胸だけは手で隠しているけど、隠しきれていない。
「ど、どうぞ」
腰を上げる事すら出来ない狭苦しいロフトに、裸で横たわる祥子さん。
頭の中が真っ白になった後、彼女の宜しくお願いしますの意味を理解した。
秒で布団を戻す。
「な、なんで布団戻すんですか! これでも結構な勇気が必要だったんですよ!?」
「琴子さんともしてないのに、祥子さんとは出来ないですから!」
「どういう意味ですかそれ!? 琴子さんとしたら私とするんですか!?」
「そういう意味じゃないけど! あ、でも、ちょ!」
布団からバタバタと出てきた祥子さんに気圧され、僕はそのまま後ずさり、そして。
「あ」
ロフトの家には絶対に住まない。
そう誓いながら、僕の体は宙を舞うのであった。
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