第31話 逡巡の日々

29話直後です。元妻からの手紙、不穏な同僚、恋バレ幼稚園。

同時進行しているイベントが三つですいません。


――


 午前中に先方との打ち合わせを終えた僕と古河さんは、その足で楓原営業所へと戻った。

 昨晩あんなに性にも食にも乱れていたとは思えない程に、古河さんはシャキッとしていて。

 公私混同はしない、うん、流石って感じだ。


「どうしたんですか? 私に見惚れちゃいました?」

「あはは……いや、改めて勿体もったいないなって思っちゃってさ」

「勿体ないって、私が退職する事がですか?」

「うん、残る営業は数人いるけど、地域振り分けしてる都合上、僕が直接指揮できるのは一ノ瀬君と遠越君だけになっちゃうからさ。あの二人は頭からこの営業所に染まってる感じがしてね、まずはそこからかなって考えちゃうと、ちょっとね」


 新人にモノを教える時に、絶対に教えてはいけないのがサボる方法だと、僕は思う。

 業務は覚えなくとも、そういった内容はバッチリ覚えてしまうのが、新人というもの。


 世の中には如何にして手を抜くか、手を抜くことがエリートである証拠だ。

 みたいな、そんな下らない世論もあったりして、非常に厄介極まりない。


 熱意ある新人を楓原営業所に配属させた時点で、あの二人の評価が伺え知れる。

 更にはサボる事を覚えてしまった以上、下手な新人よりも時間がかかるのは間違いない。


 その点、古河さんは元々本社営業部。

 ある意味お墨付きの状態ではあるし、才能の片鱗は見え隠れしている。

 彼女に関しては、当時の上司に問題があったとしか思えない。

 

 新人なのだからミスはして当然なのに、自分の安全だけを最優先した人事采配。

 責任者とは責任を取るために存在するのに、それを放棄したも同然だ。

 

「大丈夫ですよ。えへへ、でも嬉しいです。俊介さんに認めて貰った私が、今度は付きっ切りでサポートしますからね。何にも気にしないで仕事に打ち込める環境を作り出しますから、安心して下さい」

「……やっぱり、今日も家に来る感じ?」

「当然です、もうアパートの解約手続きも、退職手続きも進めてますから」


 爽やかな笑顔で言うことじゃないと思う。

 でもさすが仕事が早い、本当に優秀だこと。

 っていうか、今日の夜もか……菜穂になんて言おう。



「ん? ああ、そうだな、古河から退職願いは受理してるぞ」

「受理してるって、江原所長は勿体ないと思わないんですか? 間違いなく琴子さ……古河さんは育てたら伸びる子ですよ?」


 午後、古河さんとは営業所で別れ、僕は江原所長と二人、午前中とは別の顧客へと訪問する為に、社用車のハンドルを握った。本当なら古河さんにも同席して欲しい所だったのだけど、業務引継ぎがあるからと彼女は営業所に残り、江原所長と二人きりで向かう羽目に。


 丁度いい、二人きりというこの空間なら、気兼ねなく古河さんの事を江原所長に伺い知る事が出来る。そう判断し、彼女の退職手続きを進めているという先の言葉の裏付けを取ろうと思ったのだが……それはあっさりと肯定されてしまった。


「ぷっははは! 下の名前でもう呼んでんのかよ! 既成事実は作った感じには見えねぇけど、古河の奴もそれなりに努力してる感じなんだなぁ! あっはっはっは! 部下のつまみ食いしてる奴に太鼓判押されても評価しにきぃなぁ!」

「茶化さないで下さいよ、僕が部下に手を出す訳がないじゃないですか」

「そうかぁ? 武士は食わねど高楊枝って奴かぁ? 我慢は身を亡ぼすぜぇ? 朝から眠たそうにしてるし、酒の匂いは漂わせてるしで、枕営業の臭いがぷんぷんしてくらぁ!」


 何もかもお見通しだって感じで、江原所長は楽しそうに語る……ん? 楽しそう?


「……もしかして所長、貴女、古河さんの暴走を楽しんでません?」


 江原所長のことだ、楽しいが最優先されるこの人なら、古河さんを暴走させて自分は安全圏から楽しんでいる可能性だってある。その性格は本社にいた頃の僕でさえ耳にしていたのだから、相当なはずだ。


 だが、江原所長は長く赤い髪を人差し指でクルクルさせながら、その瞳を細める。


「はぁ? アタシは会社の利益の事しか考えてねぇぞ? 今回の案件もそうだけどよ、高野崎が元のポジションに戻るっつーのも、会社から見たら利益な訳よ。お前が今まで貰い続けてきたサラリー給料だって、会社からの投資みたいなもんなんだからな。娘さんの為にウチに来たお前さんを責めるつもりはねぇが、元に戻せる方法があるんなら、アタシは試してみる価値はあるなって、そう思っただけよ」

「なんですかその〝やらない後悔よりもやる後悔〟みたいなセリフは」

「お、それアタシの好きな言葉。で? 高野崎的にはどうなのよ? 実際古河が娘さんの面倒見てくれたら、元鞘もとさやになるつもりはあんのか?」


 元のポストに戻るという事は、菜穂とは一緒に居られなくなるという事。

 その可能性は破綻した過去と同じ過ちだ、絶対に選ぶことは出来ない。


「……ないですね、菜穂から離れる事は、今の僕には選択できません」

「それこそ、お前の言う勿体ないって言葉なんじゃねぇの?」


 まったくもって、痛い返しだ。

 

「僕と古河さんを天秤にかける様な言葉は、あまり宜しくないかと」

「可能性と実績、会社がどちらを選択するのかなんて、お前なら即答だろうに。まぁこれで分かったと思うけど、アタシとしては古河にガチで協力するつもりだからな。アイツがもし二人掛かりでなら高野崎を落とせるっつーんなら、アタシだって人肌ぬぐぜぇ?」


 江原所長は身体全体を僕の方へと向け、胸元のボタンを外し、すっと足を組み替える。

 背が小さくて童顔な江原所長は、初見では大抵の人が十は見間違えるほどの美魔女だ。

 そんな彼女が語る一肌脱ぐという言葉は、そのままの意味の可能性が高い。 


「……僕は年上が好みじゃないんです」

「そんなの、してみないと分からねぇもんだぞ?」

「冗談はやめて下さい。それよりもほら、もう到着しますよ」


 ちっ、つまんねーの、と言いながら、江原所長は身なりを整え始める。

 勘弁して欲しい、祥子さんと琴子さんで手一杯なのに、そこに所長が混ざるとか。

 ……考えるだけで頭が痛くなってしまう。


 それに、それだけじゃない。

 江菜子の事も、まだ根本からは解決してはいないのだから。


――


『前略 風薫る季節となりました。高野崎俊介様、お元気でしょうか? こうして貴方へと手紙を送ることは、思えば初めての事かもしれません。私は自分が犯した過ちを日々反省し、自分から手放したはずの幸せの数々を妄想しながら、毎日を生きています。今は実家を離れ、安普請なアパートに一人です。隣に貴方がいてくれたら、菜穂がいてくれたらと思うと、涙が止まりません。しかし、あの時の自分がした数々のことは、許されるものではないとも心得ております。余談が長くなりすぎてしまいましたが、文字に起こせば起こすほど、失ったものがどれだけ大きいのかを噛み締めてしまうのです。馬鹿な女の戯言だと思って読んで頂ければ幸いです。高野崎様にはとてもご迷惑な話だとは存じ上げるのですが、私は、菜穂に会いたいと思います。とても酷い事をしてしまった馬鹿な母親ですが、菜穂は貴方と私で産んだ大切な娘なのです。面会交流の申し出を、宜しくお願いしたいと思い、恥を忍んでこうして筆を走らせています。来週か再来週か、高野崎様のご都合の良い日で結構でございますので、面会交流のほど、宜しくお願いいたします。 草々 令和X年、五月吉日 草葉くさは江菜子』


――


 心の底からの重いため息が、はぁという言葉と共に吐き出される。

 僕はこの手紙を商談を終えた後、会社のトイレで一人、目を通していた。

 離婚し親権を失っていても、面会交流の権利が江菜子にはある。


 会わせたくない……菜穂に母親が必要だとは思うけど、それは安心で一緒にいて幸せを感じ取れるというのが最低条件だ。幼稚園で泣きはらしていたと、祥子さんからも聞いている。ママが怖いと声に出して泣いていたのだと。


 一体、どの面下げてこの手紙を送ってきたんだ。 

 菜穂を自宅に放置し、他の男の下へと向かった彼女であっても、菜穂に会いたいと言うのか。

 そんな身勝手な手紙を送ること自体が、間違いだとなぜ分からない。


 でも、調べれば調べるほど、面会交流の強さが理解出来てしまう。

 基本的に面会交流は拒否が出来ない、無理に断れば親権が移る可能性だってある。

 

 離婚の理由は元妻の不貞だ、菜穂への虐待ではない。

 そもそも育児放置とはいえ、江菜子は最低限の事はしていたのだ。

 幼稚園にも連れて行っていたし、ご飯も食べさせていた。

 傷や痣も何も残されてはいない、ただ、怒鳴り散らしていただけだと。

 それだって録音も成功していないのだから、訴えた所でどこまで通じるのか。


 話し合わないといけない。

 どこまでも平行線になってしまうかもしれないけど、それでも。

 

 そうと決まれば、さっそく動かないとだな。

 江菜子の連絡先はもう削除してしまっているから、家に帰ってから調べないと。

 でも、多分、家には祥子さんも琴子さんもいるんだよな。

 二人の目を盗んで江菜子との連絡とか、絶対に不可能だろうし。


 ……なら、打ち明けるしかないか。

 絶対に味方になってくれるであろう、僕の大切な二人に。

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