第29話 底の見えない怒り(遠越忍視点)
古河さんが手にしていた茶封筒を野芽さんは受け取ると、せっかく封緘までされていた封筒を、あっさりとペーパーカッターで切り開いた。
「あー! 野芽お前なにやってんだよ!」
甲高い声を上げてきたのは江原所長だ。
年に似合わず頬を膨らませながら、ぷりぷりとこちらに近づいてくる。
「いやいや、気づくかと思ってちょっとした試験をしたんですよ。まさか気づかれないまま封緘までされるとは思いもしなかったので、私もすっかり忘れておりました」
「試験って、一体何をしたのさ?」
「俊介、お前ともよくやったろ? 契約書のすり替えだよ」
契約書のすり替え? 一体なんの事だ?
頭の中の疑問符そのままに、野芽さんは茶封筒の中から契約書を取り出す。
約款とかが記載されたものではなく、金額が掛かれた一枚紙の方。
つまりは俺が改竄した契約書だ。
「健二……そんなの、今する必要ないだろうに」
「いやいや、洗礼は必要だと思ってな。江原所長、黙っていてすいません。昔、俊介と契約書の中身をすり替えて、気づくかどうかという試験的なことをやった事があったんですよ。契約書がいつ改竄されているか分からない、封緘の最後の最後まで中身を確認する意識づけの為にね。で、今回の契約書は、実はコピーされたものになります。ほら古河さん、触ってみな」
コピーだった、だと?
ぺらり出された一枚紙の契約書を古河さんが触ると、彼女は驚きの声を上げた。
「……あ、言われてみれば、紙質が違います」
「だろ? 我が株式会社オプレンティアでは、契約の時に使う紙は専用紙を使う事と決まっているんだ。別に法令で定められたものじゃないけどな。どうせならお客様には良い物を渡したいだろ? 顧客至上主義ってな、こういう所が大事だったりするんだ。で、これが本物の契約書、江原所長、封緘お願いします」
てめーがやれ! って叫びながら、江原所長は元の席に戻っていき、野芽さんがやれやれといった感じで封緘処理をしているけど。
俺の頭の中には疑念が渦巻いている。
一体、いつの間に入れ替えたんだ?
江原所長が俺の机の上に置いた時には、間違いなく本物の契約書だったはず。
あの後すぐに俺達は中身を改竄したんだ……いや、違う。
ほんのちょっとだけ、俺達は封筒をそのままに喫煙所に向かった。
あの瞬間に中身を入れ替えたって事か?
いいやそれはない、あの後、古河さんは高野崎に契約書を見せに行ってるはずだ。
詳細は見せていなかったが、あの高野崎が用紙が違う事に気付いていないはずがない。
という事は、その後、机に鍵をかけた後ってことだけど……そんな事が可能なのか?
「それじゃあ行ってきます」
「おう、時間取らせちまって悪かったな」
封緘処理が終わると、高野崎と古河さんの二人はぱたぱたと営業所を出て行った。
まるで何事も無かったかの如く、気持ち悪い感触を残したまま全てが丸く収まっちまった。
「じゃあ、ちょっと外に一服いくか」
一緒についてこい。
口には出していないが、野芽さんの目が語っていた。
俺と一ノ瀬は無言のまま顔を合わせ、野芽さんの後へと続く。
悪戯がバレた後の先生と生徒の様な雰囲気のまま、喫煙所まで重い足取りで向かうと、到着するなり野芽さんはタバコに火を点けて、美味しそうに煙を吸い込んだ。
「……あの」
「お前達も一本吸うか?」
「いや、大丈夫です。野芽さん、俺達」
「ま、しょうがねぇさ。悔しかったんだろ? それが普通だよ」
やっぱり、野芽さんは俺達がした事に気付いてたんだ。
でも、一体いつどうやって? 訳が分からないままに黙っていると、野芽さんは一本目のタバコを吸い終わり、もう一本の煙草を口にくわえた。
それを見て、俺は咄嗟にライターで火を灯す。
「お、サンキュ」
「野芽さん」
「種明かしが知りたいって、そんな顔してるな」
知りたくない訳がない。
野芽さんがした事はまるで魔法だ。
「とは言っても、大した事はしてないぜ?
「……そう、だったんですか、試験の為にコピーを」
「違うに決まってんだろ。お前達が何かしそうだったから、予め手を打っておいただけだ」
分かりやす過ぎるんだよって言いながら、二本目の煙草を美味しそうに吸い込む。
営業職なのに営業をやらせて貰えない俺達が何かしそうだと。
それだけで、先回りしたって事なのか。
「……すいません、俺、本当は退職するつもりで」
「勿体ないから、そんなの止めとけって。お前達はまだ若いんだからよ、これからだろ?」
ま、頑張れよといいながら、俺達二人の背中を叩く。
覚悟して来たんだ、もう退職してもいいって。
古河さんにも本当の事を言うつもりだったし、全部終わりにしようって考えてたのに。
「野芽さんは、悔しくないんですか」
野芽さんの吐く白い煙がうっすらと消えかけた頃、突如、一ノ瀬が野芽さんへと突っかかる。
「このまま上手くいったら、高野崎が本社に戻るって事じゃないですか。野芽さんだって同期ですよね? 悔しい気持ちとか沸いてこないんですか? 負け犬のままでいいんですか!?」
「一ノ瀬、お前」
「忍は黙ってて! 僕は野芽さんに聞いてるんだ!」
俺の事を手で制すと、一ノ瀬は野芽さんへと距離を詰める。
「ずっと兄貴みたいに接してくれた、それを嬉しいとも思ってたし、頼りになるとも感じてたんだ。でも、野芽さんは高野崎を前にして何もしていない、悔しい素振りすら見せない……同期なのにっ! アンタは高野崎に完全に負けてるんだぞ!? 子供の為にリタイアした今でさえも負けてるんだ! 悔しくないのかッ!!!」
悔しい、結局俺達の動機の全ては、悔しいから始まっている。
入社の段階で同期から流浪地行きと揶揄され、実際に配属されるもロクな先輩もいない状態。
仕事のイロハのイも分からないままに営業へと行き、全て失敗に終わった。
たかが三年って他の奴らは思うかもしれない、でも、俺達からしたら貴重な三年だったんだ。
悔しいさ、俺だって悔しいから怒りに身を任せて、退職しようと思っていたのに。
一ノ瀬は、俺以上にその思いが強かった。
気づけなかったけど、そういう事なのだろう。
「俺が悔しくないか……か。そんなの、悔しいに決まってるだろ」
野芽さんは、まだ火の残った吸殻を強く握り締める。
毛深くも血管が浮かび上がった腕に、震える拳。
見れば、野芽の目はいつしか血走っているじゃないか。
悔恨の極み、野芽さんから感じるそれは、一ノ瀬をも凌駕している様に感じる。
「だから、俺は高野崎が苦しむように動いているんだ」
「……高野崎が、苦しむ?」
ごくり唾を飲みこみ、一ノ瀬が反応する。
「分からないか? 高野崎は何を望んでこの営業所に来た? この商談がまとまったら高野崎はどうなる? アイツが苦しむように、俺は動いているだけだ。はたから見たら、誰もそれが悪とは思わないだろうな。なぜなら俺は手助けをしている
想像以上の憎悪に包まれた醜くゆがんだ瞳。
野芽さんは、俺達が思っている以上に高野崎の事を憎んでいる。
知らなかった、単なる仲の良い同期だとばかり思っていたのに。
「……そうか、今回の商談がまとまったら高野崎は本社に戻される。だけど高野崎が望んだのは、この営業所での娘との生活だ。それを正攻法で壊そうとしている。誰からも恨まれず、誰にも憎まれずに。あは、あはは……凄い、そんなの、僕じゃ思いつきもしない。こんな壊れた思想、僕じゃとても」
爪を噛みながら喜び叫ぶ一ノ瀬の目に、光が宿る。
その光は、多分間違った光だ。
だけど、今の俺には何も言うことは出来ない。
一ノ瀬と一緒に落ちていくはずだった俺が、何か言うこと何かできやしないんだ。
「……遠越君も、吸うか?」
野芽さんに差し出されたタバコを手にする指が、何故か震える。
怖いと思った、野芽健二という男が。
この男の、底の見えない怒りが。
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