第24話 ぱぱとのお話は、フェアにいきましょう。
「高野崎さん、もう菜穂ちゃんもお家の中にいるんですよね。私、菜穂ちゃんと一緒に料理出来たらなって思って、子供用の包丁とかも買ってきたんです。思えば受注祝いとかもしてなかったですし、お酒も少々お持ちしたので、ちょっとこの袋重かったりするんですよね。なので、入れてくれると嬉しいなぁって思うのですけど」
いじらしいまでの笑みを浮かべながら古河さんは家の中に入れてアピールをしてくるが。
入れられない、だって僕の後ろ僅か数メートルの場所には、祥子さんがいるのだから。
キャリーケースから買い物袋を取り出して、同じように夕食の準備を始めているのであろう。
菜穂はテレビに釘付けだから動きはないとして……ど、どど、どうする?
「……き」
「き?」
「き、今日はほら、遠くまで商談に行ったりさ、疲れてるだろうから、古河さんもご自宅で休まれてはいかがかなって思ったりするのですが?」
「……なんですかその喋り方? ほら持って下さいよこの袋、結構重いんですから」
ぐいって僕に荷物を渡して家の中に入ろうとする古河さんを、咄嗟に身体でブロックした。
ぶつかった際にふにょんと伝わる感触に、一歩後ずさる……が、直ぐに距離を詰められる。
「なんですか、なんで家の中に入れてくれないんですか」
「……いや、それは」
強気で強引なのは相変わらず、僕との密着もセクハラとも何とも思っていないみたいだ。
恋人とストーカーは紙一重。
実れば恋人しくじれば犯罪者、どうすれば僕は犯罪者にならないで済むのか。
古河さんと結ばれる? それだって今の状態じゃ正解だなんて言いきれない。
「汚れてるのを見せたくないとかですか? そんなの、この前のお出かけの時に全部把握しましたから、今更恥ずかしがる事なんてないんですからね…………ん?」
古河さんの視線が随分と下方向へと向けられている。
何があるんだ? と僕もそちらを見て、一発で把握。
「……高野崎さん、それ」
「これは、その――」
なんと説明すればいいのか、浮気現場に踏み込んだ時の江菜子の気持ちが、少しだけ理解出来てしまった。違う、違うの! と彼女は叫んでいたけど、今の僕も思わず同じ言葉を吐いてしまいそうだ。……何が違うのかは、未だに理解できないけど。
「あら、高野崎さん、その方は……?」
あれだけ押し問答してたんだ、気になるのは当然のこと。
僕の肩越しに見える古河さんを見て、祥子さんはニコリ微笑む。
そして招き入れる事になったのだ。
僕を慕う、綺麗で素敵な女性二人を。
★
僕はほんの数週間前に、妻である高野崎江菜子と離婚した。
浮気現場に踏み込んだ時も、そのあと僅かにだけ発生していた同居生活の時も、空気はとてつもなく重かった。もう、これ以上重い空気は存在しないって思ってたんだ。語る言葉一つにしても事務的で、咳払い一つに反応してしまう空気の重さは、二度と味わいたくないと思っていた。
まさか、あの時以上に重い空気がこの世に存在するなんて、僕は知らなかったんだ。
「そうでしたか、菜穂ちゃんが通う幼稚園の先生さんでしたか」
「ええ、向井祥子と申します。貴女が俊介さんの職場の後輩さんなんですね、お噂はかねがね伺っております。なんでも菜穂ちゃんと一緒にアウトレットにいかれたり、ご飯を作って下さったとか」
「そんな、ご飯を作っただなんて。あの時は冷蔵庫の中にあった簡単なものを作っただけですから、大したもの作ってないんですよ。今日は仕事のお祝いも兼ねて、本格的なものを作ろうかなと思い、こうして色々と買ってきたんです」
二人とも笑顔で会話しているけど、絶対に心からの笑顔じゃないって分かる。
牽制球を投げあうような会話、言葉の節々に僕を感じ取り、そして逆鱗に触れ続ける。
リビングダイニングのテーブルを挟むようにして語らう二人。
僕はどっち側に座る事も出来ず、一人キッチンに立つ。
菜穂に助けを求めるけど……ダメだ、まだアニメが終わらない。
「それにしても……向井さんって、高野崎さんの事を俊介さんって、下の名前で呼ぶんですね」
「ええ、この前お出かけした時に、そうしようって二人で決めたんです」
「そうなんですか、じゃあ私もそうしようかな……いいですか? 俊介さん」
言葉の節々どころか全力で怒りを感じる。
これ、うんって言ったら祥子さん怒るし、言わなかったら古河さん怒るでしょ。
「……えっと、僕は、古河さんの事は職場の後輩だと思って見てるから、古河さんって呼びたいと思うのですが。それにほら、今までだってずっと古河さんって呼んでるし、職場で急に下の名前で呼んだらさ、皆おかしいと勘ぐっちゃうでしょ?」
「もう退職するので、別に構いません」
「それは勿体ないって昼間伝えたじゃないか」
「ダメです、遠越さんにも一ノ瀬さんにも業務引継ぎお願いしちゃいましたから。それに江原所長にも今日から同棲するって報告済みです」
なにそれ僕なんにも知らない。
当の本人が何も知らないのに、周囲が色々と把握しちゃってるワケ?
しかも遠越と一ノ瀬まで巻き込んで話膨らませてるのか。
「……同棲って、どういう意味ですか」
ここにきて、静かに祥子先生が怒りを口にした。
どこか余裕のある感じだったのに、今や額に青筋が浮かんでいる。
そんな祥子さんに対して、古河さんは揃えていた足を組み、机に肘をついた。
「そのままの意味です。隠し事とか面倒くさいの嫌いなのでお伝えしますけど。私、俊介さんと結婚前提のお付き合いをしたいと思っています。その為に今日から同棲生活しようと思って来てみたら、思わぬ伏兵がいたって感じです」
「だから、僕はそんなのOKしてないって――――」
「あら奇遇ですね、私も今日から俊介さんの家に同棲するつもりで足を運んだんです。俊介さんの家からなら歩いて職場まで通えますから、菜穂ちゃんの事も付きっ切りで一緒にいる事もできますしね」
僕の言葉を遮るようにして、祥子さんも語り始める。
ヤバいぞこれ、火が付いちゃってる感じだ。
「私だって退職してフリーになりますから、一日中このお家で俊介さんと菜穂ちゃんの為だけに生活することが出来ます。お熱が出た時は私に連絡して下されば、直ぐに菜穂ちゃんのお迎えに行きますからね」
「ご家族以外の方には大切な園児をお渡しする事は出来ませんので、悪しからず」
「直ぐに家族になりますから、大丈夫ですよ」
「そんな訳ないって言ってるんです、俊介さんと一緒になるのは私なんですから」
「俊介さんは貴女の告白にOK出したんですか? 出してないですよね?」
「貴女だって頂けてないですよね?」
「ええ、だって今の俊介さんは誰も愛せないし、誰も恋せないって知ってます」
「私だって……私だって知ってます」
「なら、どうして同棲を望むのか、向井さんならご理解頂けますよね?」
僕は、二人にほとんど同じ事を伝えている。
そして奇しくも、二人は同じ答えに辿り着いてしまったんだ。
僕が人を愛せる様になるまで、恋が出来る様になるまで、ただ側にいる。
そんなの、僕にとって都合のいい存在にしかなり得ないんじゃないのか? 一体僕のどこにそこまでの価値があるっていうんだ。古河さんは僕の事を古巣に戻そうと考えているみたいだけど、それをしたら間違いなく僕は菜穂と一緒に居れなくなるっていうのに。
「あー! おねえたんだー! ぱぱ、きょうはおへやいっぱいだねー!」
沈黙がようやく訪れたと同時に、菜穂の叫び声が室内にこだまする。
見ればテレビが終わったらしい、ニュースが流れ、時刻は既に夜の七時だ。
「そうね、お部屋いっぱいだね。菜穂ちゃん、今日はお姉さんとご飯作ろっか?」
「なほ、つくう! しょうこてんてーもいっちょにつくう?」
「あはは……私は一緒には」
「作りましょうよ、同じこと考えてここにいるのなら、作れますよね?」
それでも、明確な目的がある古河さんの方が、一枚上手な感じかな。
どこかぎこちない二人だったけど、時間的に作らない訳にもいかず。
狭いキッチンに祥子さんと古河さんが立ち、横で菜穂が子供用の包丁でキュウリをトントンと切り始める。あんな包丁があるんだなって物珍し気に見ると、菜穂は満面の笑みを浮かべながら「ぱぱもきう?」と僕に包丁を向けて来た。
さすがにその中に入る勇気はない。
というか、入る物理的なスペースがない。
「それで、何を作るんですか?」
「チーズリゾットとアンチョビガーリック、あとは菜穂ちゃんが食べたくて仕方がないキュウリを巻いたハムさんです」
「はむしゃん!? はむしゃんあうのー!?」
「ありますよー、私も買ってきてありますので、ハムは私のを出しましょうか」
「そうですね、何日かは持つでしょうし、私の分は冷蔵庫に入れておきましょう」
そうこうしている内に、何やら美味しそうな匂いが立ち込めてきた。
祥子さんに古河さん、二人が料理しているんだ、かなり美味しいに違いない。
合間合間を縫って、古河さんと祥子さんとで、僕の代わりに家事も済ませてくれている。
洗濯物も掃除も、お風呂の湯張りも片付けも全部だ。
僕が何かしようとしても座ってて下さいと言われ、リビングのソファーに一人座る。
のんびりとテレビでも見れれば良かったのだけど、流石にその心境には至れない。
間違いなく、ついさっきの二人にあった感情は怒りだ。
今は菜穂のためという、共通の目的があるから協力しているに過ぎない。
これが終わったら……うう、何故か寒気がする。
★
「ご馳走様でした」
「なほ、おなかいっぱい!」
「菜穂ちゃん、ご馳走様、でしょ」
「あい! しょーこてんてー、ごちそうたまでした!」
祥子さんがいると、我が家も幼稚園みたいだ。
本当に面倒見がいい。
普段の菜穂がどうやって幼稚園で生活しているかも、手に取る様に分かる。
「はい、上手にできました。歯磨きとお風呂だね。今日は先生と一緒に入ろっか?」
「しょーこてんてーとぉ!? はいうー! おねえたんもいっちょ?」
「さすがにそれはちょっと。お姉さんね、ぱぱとお話する事もあるの……お先、いいですか?」
「ええ、後で私もぱぱとお話しますけど、いいですよね?」
「もちろん、そこはフェアにいかないと」
あくまで静かなのは菜穂のため。
菜穂が寝てしまったあと、一体どうなってしまうのか。
二人は同棲すると言って今ここにいるのだ、家に帰ったりはしないだろう。
キャリーケースの中からお風呂セットを取り出すと、祥子さんは菜穂と二人で脱衣所へと向かった。祥子さんなら菜穂の長い髪も丁寧に洗ってくれるんだろうな……もしかしたら僕の知らない洗い方とかあるのかも? なんて想いを馳せながら見送っていると、僕の前にすとんと古河さんが座る。
「あの、古河さん?」
「琴子です」
「……え?」
「祥子さんだけ下の名前で呼ぶなんて、ズルいです。私のことも琴子って呼んで下さい。じゃないと、今すぐ叫びますよ?」
見れば古河……琴子さん、着ていたブラウスのボタンを全て外し、スカートも太ももが付け根まで見えるぐらいに捲りあげているではないか。仕事のあとそのまま来たんだ、女性のスーツスタイルはどうしても色香が凄い。ぴったりとしたスカートを持ち上げると、濃い目のタイツから紫色の下着がうっすらと見え隠れしていて。
勘弁して下さいと正面に顔を向けると、琴子さんは僕の頬に優しくついばむ様なキスをした。
一回二回と繰り返されるその行為に、僕は動きを止め、彼女の唇が僕の唇に来ない事を望む。
「……やっぱり、俊介さんは襲ったりはしないんですね」
やや残念そうに言うと、琴子さんは僕のことを強く抱きしめる。
さきほどまで頬をついばんでいた柔らかな唇から漏れる吐息が、僕の耳たぶを熱く濡らした。
「もう、本当なら我慢出来ないんですよ? 所長からも既成事実作れって言われてたんですから。バッチリ危険日でもありましたし……でも、今日はやめときます。さすがに他の女がいる家の中じゃ出来ないです」
空恐ろしい内容を耳元で聞きながらも、僕はただひたすらに素数を数え続けていた。
絶対に男を見せたらいけない。
間違いなく琴子さんは二人がお風呂に入ってる隙に僕を襲い、果てさせる気だ。
柔らかい、しかも下着も外してるし……いけない、続きを数えないと。
647, 653, 659, 661, 673, 677, 683, ―――
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