第23話 ついに顔を合わせる二人
――高野崎さんが言う〝その時〟が来るのを、私、ずっと楽しみに待ってますから!――
あの時の事は、今でも鮮明に思い出す事が出来る。
涙目で微笑みながら出た言葉に、僕は何も言うことが出来なくて。
結局なんの返事もしないままに、無言で電車に乗り、目をつむり逡巡している内に唇を奪われそうになっていた。
全然気づかなかった、古河さんが僕に対してあんな感情を持っていただなんて。
思えば、江菜子の選んだ服を捨てるとか、一緒に買い物に行くとか、普通しない。
鈍感、ここに極まれりって感じか。
「……あまり考えていてもしょうがないか、菜穂のお迎え行かないと」
古河さんから逃げるように会社を出てしまったけど、僕は自転車での通勤なのだから、電車で通う古河さんと一緒に帰るのはそもそも不可能に近い。
明日の朝にでも謝罪すれば、多分彼女の事だから許してくれると思うけど。
……というか、今日から居候とか、本気だったのかな。
「あら、菜穂ちゃんのお父さん、お帰りなさい。難しい顔してどうされました?」
「あはは、すいません……って、あれ? 向井先生いらっしゃらないんですね」
幼稚園に到着して出迎えてくれたのは、祥子さんと良く一緒にいる神崎先生だった。
何度か祥子さんと二人でいるところを見たことあるから、名前は知ってる。
「祥子先生のこと……やっぱり気になります?」
なぜに上目遣いで僕を見る。
それはモチロン、気になるの一択だ。
「そう、ですね、気になります」
「あらあら~、そんなズバッと言われちゃうと、ため息しか出ないですね。うふふ、大丈夫ですよ、午前中で早退しただけですから」
「早退ですか? どこか具合が悪いとか?」
「いいえいいえ、全然違う理由ですので、ご心配なさらずに」
祥子さんが早退でいない事に対して、思った以上に残念な気持ちになる自分がいる。
古河さんの件で頭がごちゃごちゃになってるから、祥子さんに相談しようかと思ったのに。
相談、したらどうなるんだ? 間違いなく祥子さんだって僕と一緒になりたいと思っている。
それは言葉にされ、一度は断ったものの、彼女はそれでもと全てを受け入れてくれていた。
古河さんだって同じだ、ただ彼女の場合、僕にもっと輝いて欲しいとも言っていた。
菜穂の面倒は自分がみるから、僕にはもっと自由に働いて欲しい……みたいな。
どっちの選択肢も、今の今じゃ答えが出せない。
心の底からの両想いだった江菜子に裏切られた傷は、そう簡単に癒える事はないんだ。
常に頭のどこかに江菜子がいて、その罪悪感を感じてしまっている。
彼女との語らいが、言葉の一つ一つが鋭い刃になって心を抉っていくんだ。
動悸がする……信じぬいた相手に裏切られたのは、どれだけ時間が経っても辛いままだ。
「ぱぱ? なほ、いうよ?」
「……菜穂、菜穂」
帰りの準備を終えた菜穂が、神崎先生につられて僕の側まで来ていた。
その事に気付けない程に、僕は考え込んでしまっていたのか。
しゃがみこんで、菜穂の事をぎゅっと抱きしめる。
温かい、心の底からの安心が菜穂から伝わってきて、涙が出そうだ。
「ぱぱ、よしよし?」
「あはは、うん、ぱぱ、よしよしだね。神崎先生、すいません、ありがとうございます」
「ああ、いえ……大丈夫ですか? 具合が悪ければ休んでいかれても」
神崎先生に大丈夫ですと告げて、僕は自転車を漕ぎ始める。
うっかりすると泣きそうになってしまうのは、僕の弱さだ。
菜穂のお父さんとしてしっかりしないといけないのに、泣いてばかり。
祥子さんの前でも泣いてしまったし、ちょっと気合入れないとかな。
「ぱぱー、きょう、ごあんなにー?」
「今日のご飯は……何にしよっか?」
「なほねー、はむさんしゅきー」
「またハムかい? 今朝も食べたし、お昼のお弁当にも入れておいたよ?」
「うん、おいしあったー。はむさんしゅきー」
買わないといけないかな? と考えていると、突如、自転車のカゴの中に入れておいた鞄から着信音が鳴り響いた。古河さんかな……戦々恐々な気持ちでスマホを取り出し相手を見ると、そこには向井先生と表示されていて、ほっと胸をなでおろす。
ほっと胸をなでおろす?
まるで恐怖症じゃないか、別に古河さんは何も悪い事してないのに、これじゃ失礼だろ。
って、僕は一体誰に向かって謝罪しているんだ、早く電話に出ないと。
「あの、もしもし」
『あ、俊介さんですか? いま電話大丈夫ですか?』
「大丈夫ですよ、どうかされました?」
受話器から聞こえてくる声を耳にして、思っていた以上に元気そうな雰囲気で安心する。
『あの、菜穂ちゃん、ハム欲しいって言ってません?』
「ああ、言ってます。今日のお弁当にも入れたんですけど、足りなかったみたいですね」
『買ってありますから、買わないで帰ってきて大丈夫ですからね』
……なんだと? え、どういう意味?
「あの、祥子さん、それって」
『ですから、私いま、俊介さんの家の側まで来てるんです。今日の晩御飯は私が作ってあげますから、何も買わないで大丈夫ですからね』
「え……僕の家に、祥子さんがですか!?」
思わず叫んでしまったのを、菜穂が「しょうこてんてー! いりゅのー!?」と復唱する。
『あはは、菜穂ちゃんの声も聞こえる。別に私がしたいだけですから、俊介さんは気にすることないですからね。前に伝えたじゃないですか、ただいるだけでいいって。それって、こういうのもアリかなって思ったら、止まらなくなっちゃいました』
「……相変わらずの大艦巨砲主義ですね」
『え? 何かいいました? とにかく、早く帰ってきて下さいね。私、近くで待ってますから』
「……分かりました、全速力で帰ります」
好きとか好きじゃないとか、そういった感情は一旦置いておこう。
せっかくの祥子さんのご厚意なのだから、受け止めてあげないと男としてダメだ。
もしかしたら菜穂の為かもしれないけど。
思えば、祥子さんは菜穂の為に遠足に連れていってくれたり、必死に探してくれてたり。
今だって菜穂の好きなハムを買って待っていると言っているのだ。
そもそも僕のためじゃないかもしれない、祥子さんの行動原理は菜穂のため。
そう考えることだって出来るし、それだと僕もすんなりと受け入れる事が出来る。
都合の良い考え方だと分かってるけど、今はそれでもいい。
一緒にいる理由、菜穂を思う気持ちだけは、間違いなく同じのはずだから。
「あ、本当に早い。おかえりなさい、俊介さん」
楓原団地の二階、階段の踊り場から顔を覗かせた祥子さんは、一緒にお出かけした日のような笑顔で僕達親子を出迎えてくれた。服装も淡いピンクのセーターに、白のロングスカート、コインランドリーで着用していたような服装ではなく、また甘い感じの服装だ。
横にやたら大きいキャリーバックがあるけど、あの中に買った物が入っているのかな?
そんな事を考えていると、菜穂が自転車を降り、祥子さん目掛けて走り始める。
「しょうこてんてー!」
「はいはい菜穂ちゃんもお帰りなさい。急にすいません、この前の休日のことを神崎先生に話したら、今日は早退して俊介さんの家に行くべきだって言われて……あはは、ご迷惑でしたら直ぐにでも帰りますので」
「迷惑だなんてとんでもない、菜穂もこうして喜んでくれていますし。ほら菜穂、祥子先生がハム買ってきてくれたって、さっそく食べよっか」
「なほー! はむしゅきー! しょうこてんてーもしゅきー!」
玄関を開けると「たらいまー!」と菜穂は速攻で園服を脱ぎ捨てて、いつものテレビ前へと駆けて行く。夕方六時半から始まるアニメを見るのは、菜穂の中で欠かせないルーティンの一つなのだ。
微笑ましい菜穂を見ていてふと、隣に立つ祥子さんと目があって、瞬間的にそらす。
「こ、これが菜穂ちゃんの帰宅してからの姿なんですね。私、この前来た時は家に上がらなかったので、知りませんでした」
「大体毎日こんな感じですよ、汚い家ですいません、いま片付けますから」
玄関入って目の前の洗濯機や洗濯カゴには、今朝脱いだ寝巻がそのままの状態で放置されていて、なんなら洗濯機の中だってまだ干してない洗濯物があるぐらいだ。今日もコインランドリー持っていかないとかなって程の量を、祥子さんに見せる訳にはいかない。なのに。
「大丈夫です、俊介さんはリビングでくつろいでて下さい。私が家事全部やりますから」
「そんな、やらせらんないですよ、ほとんど朝出たままの状態なんですから」
「そういうのも、今後は全部私がやります。私、考えたんです。俊介さんのご自宅って、幼稚園から歩いていける距離にあるじゃないですか。だから……通えるなって」
通う? 僕の家から、祥子さんが?
ん? なんか、そういえば疑問に思ってたんだ。
そのキャリーケースは何なんだろうって。まさか。
「だから私、俊介さんさえ良ければ、今日からこのお家にお世話になろうかなって……そう思って、準備までして来ちゃったんです。早退した理由は、色々と準備が必要かなって思っちゃって、それで」
顔を真っ赤にし、もじもじと左右に揺れながら語る祥子さんは、とても可愛かった。
綺麗な艶のある髪を揺らしながら、いじらしく頬に手を当てている姿なんか最高に可愛い。
が、それとこれとは話が別だ。
いきなり同棲生活なんかできるはずがない。
菜穂にも何の説明もしてないし、幼稚園でどんな噂が流れるか。
祥子さんの事は好きだし、信頼もしてる。
でも、さすがにこれは―――と考えていると、キンコンと呼び鈴を押す音が聞こえてきた。
「あら? チャイム?」
「いやいや、勝手に出ないで下さいね。祥子さんはとりあえずリビングにいて下さい」
誰だろう? ご近所の人にしても何にしても、祥子さんの姿を見られる訳にはいかない。
キャリーケースと共にリビングへと向かったのを見届けてから、僕は玄関の扉を開ける。
「はい、高野崎ですが――――が」
「高野崎さん、私、来ちゃいました」
宅配便とか、幼稚園の関係者とか、団地の人だと思ってたんだ。
だから簡単に玄関を開けちゃったし、何の躊躇もしなかったのに。
扉を開けた先には、頬を紅に染めた古河さんが立っているではないか。
しかもご丁寧に買い物袋まで手にしていて、夕飯作る準備万端と言った感じだ。
断言しておこう、僕は不倫も浮気も何一つしていない。
身近にいる女性の誰にも手を出してないし、告白は全て断ってきたはずだ。
だがしかし、これからまさに修羅場が訪れようとしている。
前門の虎、後門の狼。
不可避の争いが間違いなく訪れようとしているのは、一体何故なのか。
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