第21話 彼女なりの決意(古河琴子視点)

 まだ午後三時の電車、朝の通勤ラッシュが信じられないぐらいに空いた車内。

 毎朝これだったら楽でいいのになって思う程に空いた椅子に、高野崎さんと二人で座る。

 彼は椅子に座るなり目を閉じてしまったから、今の内にスマホ起動っと。


 ――惨敗しました。でも、今日から高野崎さんのご自宅に居候させて頂きます――


 江原所長に送る内容はこんな感じでいいかな。

 今日からっていうのは、やりすぎかも?

 ……ううん、これぐらいじゃないとダメ。


 相手は高野崎さんなんだ、野芽さんよりも上に立っていた人。

 どこまでやっても、やり過ぎたって事はないと思う。

 あ、さっそく返信が来た、随分と早い……。

 

 ――了解、今日中に既成事実つくっちまいな。あと、本社からメール便届いてたっぽいぞ――

 

 はい、わかりました! って返事書いて送信っと。

 今日中に既成事実かぁ、作れたらいいなぁ。

 

 ちらり高野崎さんを見ると……あれ? 本当に寝てる?

 疲れてるのかな? 疲れてる、よね。

 一人で全部やってるんだもん、本当なら二人でやる事の全部。

 私が一緒になって、少しでも高野崎さんの負担が軽くなればいいな。 

 

 それに、本社からのメール便も届いたみたいだし。

 うふふ、見なくても分かる、社長が捺印した契約書だ。

 明日にはお客様の所に行って、契約書に捺印してもらえれば契約成立。

 

 私の営業人生の最後を飾るには相応しい、高野崎さんと一緒に上げた打ち上げ花火だ。

 この大輪の花を咲かせた後、私は高野崎さんの家に入り、仲睦まじい家庭を築く。

 菜穂ちゃんと一緒に、彼の帰りを待つ幸せは果たしてどれほどのものか。

 もしかしたら、菜穂ちゃんには妹か弟が出来るかも?

 妄想が飛躍して、どこかに飛んで行っちゃいそうになる。


「……まだ寝てる、本当に疲れてるんだね」


 もうそろそろで駅につくのに、こんなに熟睡してて起きるものなのかな?

 こんなに深く眠ってたら、キスしても起きないかも?

 起きないの……かな。

 

 小刻みに揺れる車内、周囲を見ると、私達以外の人が誰もいない。

 遠くの方に座ってる人がいるけど……多分、私達なんか見てないよね。


 キス、しちゃおうかな。


 近くなれば近くなるほど、高野崎さんの匂いに包まれていく。

 普段は分からない頬の香り、薄い唇に、角ばった、だけど形のいい鼻。

 眉もきちんと手入れしてるんだね、まつ毛も男の人にしては長いし綺麗。


 ドキドキする、学生時代、ロクに恋なんかしてこなかった。

 周りの人が彼氏を作っていく中、私は一人で過ごす事が多かった。

 いなくてもいいと思っていた、彼氏なんていても、自分の時間が減るだけって思ってたのに。


 心の底からの一目惚れ。

 高野崎さんが犠牲にならなくていいって言ってたけど。


 大好きな人になら、何でも出来ちゃうんだよ。

 犠牲を犠牲と思わない、だって、その分あなたが輝くのだから。


「――――、え、古河さん」


 ゆっくりと開く瞳、お疲れだねって思いながら、どぎまぎした彼と頬を合わせる。

 でも……勇気を出して、右の頬を合わせた後、ゆっくりと左の頬も。

 互いの頬の感触を味わったあと、数秒だけ見つめあって、ぴょいと元に戻った。


「今のって」

「……バタフライキスです、唇を合わせた訳じゃないですから、OKですよね?」

「え? ま、まぁ、いいけど」

「ふふっ、隙を見せてる高野崎さんがいけないんですよ」


 本当はキスをしたかった。 

 でも、不意打ちのキスよりも、愛の籠ったキスをして欲しい。

 だから、私も学生のように微笑むのだ。

 こんな私に、愛する人が出来た喜びをかみしめながら。



 生まれて初めて自分で作った契約書。

 テンプレートの空欄を埋めるだけのものだったけど、それでも嬉しい。


 やった事に対して褒めて欲しいって思うのは、人間の本能だと思う。

 だからじゃないけど、私は裸のままの契約書を手に取り、自慢する様に高野崎さんの元へと向かったのだ。


「契約書届きました高野崎さん!! ハンコもばっちりです!」

「嬉しいよね、元はただの真っ白な紙だったのに」


 意味深なことを言うと、高野崎さんはキーボードを叩く手を止めて、私へと視線を移す。


「真っ白な紙、そこにプリンターで文字が打ち込まれて、偉い人達が名前を書いてハンコを押すだけで、紙は業務請負契約書と名前を変えるんだ。こうなってくると、紙はとても恐ろしまでの力を持つ。無くしただけで罰則が与えられるぐらい、重要なものに変わっていくんだ」

「……なんか、そう言われると、怖い気がします」

「あはは、そうだね。だからじゃないけど、取り扱いは慎重かつ丁寧にね」


 褒められたかっただけなのに、今では高野崎さんの所に契約書を持って行ったことを後悔する羽目に。

 破いたらダメ、濡らしたらダメ、汚したらダメ。

 なんだかこの契約書を持っているのが怖くなってきちゃった。

 本当は中身精査したかったけど……。

 手汗とか付いちゃう前にしまっちゃおうかな、そーっと机に置いて、そーっと。


「ふふっ、そんなに慎重にしなくても大丈夫だよ」

「だって、高野崎さんが怖がらせるから」

「怖がらせた訳じゃないよ、事実を言ったまでさ」 


 確かに事実だけど……。

 なんとなく怖くなった契約書を、引き出しの中にしまって鍵掛けてっと。

 さて、今日はこれからが本番なんだ。

 高野崎さんのお家に行って、既成事実を作らないと。


 荷物とかどうしようかな? まだ住んでるアパートの契約解除もしてないし、引っ越し業者にお願いしないといけないし。うーん、とりあえず今日は着の身着のままでいっか! 替えの下着はあるから、必要なものだけコンビニで買って、他は高野崎さんのを拝借してしまおう!

  

 妄想に励んでいると、耳に定時を告げるチャイムが聞こえて来た。  

 よし、今日が肝心、何ごとも一日目が一番大事なんだ。

 高野崎さんの家に殴り込みに行くぞー! って、あれ?


「え? 高野崎さんは?」


 さっきまで椅子に座っていたはずなのに、いない。

 私の席から高野崎さんの席は確かに遠いけど、そんな?


「お? 高野崎の奴ならもう帰ったぞ? アイツ時間前に片付けて、チャイムと同時に事務所から出ていくからなー。っていうかお前、今日から居候するんじゃなかったのか?」


 アイツ娘迎えに行くからなしょうがねぇけどなーって言いながら、江原所長は自分の席に戻っていくけど。


 逃げた……? 逃げたの? 私、居候宣言したのに? 

 窓から下を見ると、自転車に乗った高野崎さんが私を見つけて、ぺこぺこお辞儀している。 

 

 頭の中からぴきって、何かが切れた音が聞こえてきた。

 逃げられると思わないでよね、私、本気なんだから。


 ――――でも、その前に。


「遠越さん、一ノ瀬さん、少々お時間宜しいでしょうか?」


 帰り支度をしている営業職の二人へと、私は声を掛けた。

 遠越さんは今風の若者のように、ツイストパーマをかけた細身の男の人。

 三白眼で切れ目な彼は、眉間に少しシワを寄せるだけで睨んでいる様な印象を与えてくる。

 一個上の先輩という事もあってか、話をする時は少し緊張する。

 

「……なによ?」

「いえ、あまり人に聞かれたくない内容ですので、外でお話が出来ればなと思うのですが」


 二人は互いの目を見た後に、しょうがねぇなと言いながら重い腰を上げてくれた。 

 普段、私はこの二人と会話する事はほとんどと言っていい程にない。

 仕事上の会話はするけど、プライベートに関わる事はゼロと言ってもいいくらいだ。


 いきなり呼び出しを喰らって嫌な気持ちになるのは分かる。

 ましてや最近、私はこの二人から仕事を奪ってしまったのだから。



「おこがましい事をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」


 会社から出てすぐのコーヒーショップで、私は席についた二人へと深く頭を垂れる。


 私の謝罪を受けてかは分からないけど、二人は机の上に置いてあるホットコーヒーにも手を出さず、ただただ無言のまま。このまま一方的に物事を伝えてもいいのだけれど、それは今後の高野崎さんに迷惑が掛かる可能性が残ってしまう。


 顔を上げ、二人を見ながら私は語る。

 出来る限り、禍根は残さない様にしないと。


「私のワガママだったんです、本当なら営業なんて行けるはずの立ち場じゃないのに、高野崎さんへの憧れとか……先輩たちはご存じかと思いますが、私は元々営業畑の人間でした。どうしても自分の可能性を諦めきれなくて、それで無理を言って今回、高野崎さんのお供につかさせて頂きました」

「……それでなに? 謝罪したからもう全部終わりにしたいって、そういう事?」


 カップを手に取って、一ノ瀬さんが不満気に語る。


「はっきり言って今回の件、俺達は相当に頭にきてる。古河さんがいない間、君の仕事を全部俺達で肩代わりしたんだ。なんで営業部の人間が経理課の仕事をしなくちゃならない? 今日なんか遠越は君の代わりにメール便の仕分けまでやらされたんだぞ? どこの世界にそんな営業職の人間がいるよ」


 分かっていたことだ、私が喜べば喜ぶほど、先輩たちは絶対に苦しむ。

 自分の力で契約を取ったあの感動は、一度味わったら止められない、麻薬のようなものだ。

 本来ならこの二人がそれを味わえるはずだったのに、私が横から奪ってしまった。 

 

 予想通りの一ノ瀬さんの反応に、心のどこかで安堵している私がいる。

 爆発する前に謝罪が出来て良かった。

 多分この二人のことだ、その刃は高野崎さんにまで向けられていたに違いない。


「いま古河さん言ってたけどさ、元々本社営業部にいて、本当はもっと出来たんだって思ってたんじゃないの? それで今回高野崎さんの力を借りて、自分なら営業職で通用するって、そう思っちゃったんじゃないの? でもそれって勘違いだから。全部高野崎さんの力であって、古河さんの力じゃないから。もし今回の件で古河さんが本社営業部に抜擢される様な事があったら、俺達だって黙っていられないけどね……まぁ、無理だろうけどさ」

「……大丈夫です、それは絶対にないですから」


 はぁ? と睨む一ノ瀬さんに、私はそれでも笑みを浮かべる。

 告白したのだから、もう後戻りは出来ない。

 覚悟だってある、後悔しない様に、この何日間は全力で動いたんだから。

 かけていたメガネを外して、裸眼で二人を見る。


「私、退職するんです」

「…………え?」

「まだ退職願いも出してないですし、片付けもしてないんですけど。でも、高野崎さんには既に伝えてあります。ですから、私が本社営業部にどうとかは、絶対にないです。安心して下さい。それと……これをお渡ししたくて、今日は無理言ってお二人に来て頂きました」


 カバンの中に入れておいた封筒を、二人への前に。


「これは……」

「高野崎さんと私で営業を掛けた業者のリストになります。あ、もちろんデータでも送信しますけど、話にするのに何か資料があった方がいいかなと思い、今日は持ってきました。あと、本当に申し訳ないのですが、今日本社から届いた契約書の顧客の対応も、いずれお二人にお願いしたいと思います。古物商のイベントなんですけど、私がいつまでいるかも分からないですし……最後の捺印までは私がしっかと受け持ちますので、その後は宜しくお願いしたいです」


 すっくと立ちあがり、私は二人へともう一度深くお辞儀をした。

 

「ご迷惑ばかりお掛けして本当に申し訳ありませんでした。至らない後輩でお二人の足を引っ張ってばかりでした……けど、お二人を見て、個人的にはとても毎日楽しく過ごせました。本当にありがとうございます」


 一方的になっちゃったかもしれないけど、業務引継ぎは出来る限り早い方がいい。

 しかも本来なら二人の仕事なのだから、一秒でも早くしないと迷惑が掛かってしまう。

 私が顔を上げた後も、二人は互いの目を見て居心地悪そうにカップを口に運ぶ。


 これで大丈夫、かな。

 二人の溜飲が少しでも下がっていてくれれば良いのだけれど。


「――、あ、あの、俺」

「すいません、私、このあと急ぎの用事がありまして……申し訳ないのですが、お先に失礼させて頂きます」

 

 遠越さんが何か言いかけてたけど、謝罪や激励の言葉を二人から聞くつもりはない。

 そんなの受け入れられない、私が迷惑をかけただけなのだから。


 返事を待つことなく、コーヒーショップを後にして、私は高野崎さんの後を追う。 

 高野崎さんは退職しない方がいいって言ってくれてたけど、でも、もう決めちゃったから。 


 いきなり家に行ったら驚かれるかな? 

 ふふっ、でも、それだってサプライズイベントだよね。

 喜んでくれるかな、楽しみ楽しみ。

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