第14話 触っちゃいけないし、気づかれちゃいけない。

 

 もう土曜日か……なんかあっという間に一週間が経過した感じだ。

 充実してるって事かもしれないけど、身体の疲れが取れてない感じもする。


 あれから仕事の方も順調に事が運び、商談した三件の内、成就したのが一件。

 これは既に古河さんに全てを任せているから、僕の手を離れてると言ってもいい。

 これを契機に彼女の中の炎がもう一度再燃するようなら……僕が責任持たないとかな。


 そして音沙汰がないのが一件と……思いもよらぬ大物に化けそうなのが一件。

 みんな外国語が喋れないから、外国人が主というだけで営業を掛けなかったりする。

 僕からしたら、そういったのは全部カモだ。

 現場に送り出す人にも外国語力を求められてしまうけど、今は機械で何とかなる事も多い。

 僕が主となって窓口になれば、何も問題は起きないだろう。


「ぱぱ、なほ、きえい?」

「……うん、とっても綺麗だよ。綺麗すぎて食べちゃいたいくらいだ」

「え! ぱぱ、なほたえちゃうの!? きゃー!」 


 お出かけ用の新しい洋服に袖を通して、家の中を駆けずりまわる菜穂。

 向井先生によると、幼稚園での菜穂もどうやら順調のようだ。 

 大泣きして起きる事もなくなり、今ではお友達とぐっすり寝ているとか。

 寝ないで遊び惚けている時もあるらしいけど、それはそれで健康に良い。


 全ての元凶が元妻だったというのは……何とも言えないけど。

 

「そんな事を未だに思っているって知ったら、健二の奴、きっと怒るだろうな」


 横になりながら背の低い窓に頭を乗せて、ぼんやりと空を眺める。 

 妻の江菜子だって、最初からダメだった訳じゃない。

 僕が気づかなかっただけで、沢山のSOSを出してたんだ。

 


――結婚したのに、ずっと一人だった! 何もかもアタシに押し付けて、自分は仕事をしてるからイイんだって、そんな顔してるのが許せなかったのッ!――



 ……思い出してどうする。

 今更反省したって、もう元には戻らない。

 江菜子を壊したのは僕だ、それは揺るぎないのだから。


 流れる白い雲に、恨めしいくらいに青い空。

 こんなのを眺める余裕も、あの時の僕にはなかったな。


 家の中で寝そべっていると、キンコンと呼び鈴が鳴った。

 早速菜穂が玄関へと駆けて行き、その勢いのまま僕の所へと戻ってくる。


「ぱぱ! しょーこてんていきたよ!」


 心の底からの笑顔だね、本当に向井先生の事が大好きなんだな。

 今日は菜穂が行けなかった遠足の代わりに、先生と一緒のお出かけの日だ。


 向井祥子先生、こんな人が菜穂のお母さんだったら……なんて、先生に迷惑なだけか。

 ご厚意に背くわけにもいかないし、今日はちゃんとしないと。

 寝そべっていた体を起こし、ワクワクが止まらない菜穂の頭をぽんぽんする。


「さすが先生、時間通りだね。じゃあ準備も出来てるし、お出かけに行こうか」

「やったー! なほ、おでかけしゅきー!」


 お待たせしましたって玄関から表に出ると、そこには初夏の彩りを着飾った、澄んだ空に溶ける様な青いワンピース姿の向井先生の姿が、僕の目に飛び込んできた。


 大きい胸元を隠すように白いカーディガンを羽織っていて、それがまるで空に浮かぶ雲の様に見えてしまって。腰にも白いベルトを付けていて……青と白って、こんなにもマッチするんだなって、改めて思い知る。


「……あの、私、変な恰好でしょうか?」

「い、いえいえいえいえいえ! とっても素敵です! すいません、普段のジャージ姿に見慣れていたせいか、一瞬ちょっと魅入ってしまいました」


 僕が慌てて反応すると、向井先生は口元を抑えながら相好そうごうを崩した。

  

「魅入るだなんてそんな……ふふふっ、ありがとうございます。コインランドリーの時も違う服装でしたもんね。あの時のような動きやすい服装の方が良かったのかもしれませんが、今日は思っていた以上に天気が良くて、思い切ってこんな服装にしてきちゃいました。……やっぱり、変でしょうか?」


 変じゃないです、とっても素敵です。コインランドリーの時は長袖Tシャツにダメージジーンズだったけど、今日はまた清楚な感じがしてとても良い。こんな綺麗な人とお出かけとか、もしかしたら他の人から見られたらデートに見えちゃうかもしれないな。


 ……いや、違うか、夫婦か。


 それは向井先生に対して失礼になってしまうかもしれないけど。

 今更着替えてきて下さいは無いだろうし、せっかくのご厚意なんだ、受け止めないと。


「こいんあんどりーって、あに?」

「え? あ、うん、菜穂はまだ知らないよね」

「こいんあんどりーで、ぱぱとしょーこてんてい、いっちょ?」

「い、一緒じゃないよ? あ、あはは、それじゃあ出発しようか」

「ねぇねぇ、しょーこてんてい、いっちょ?」

「ほらほら菜穂ちゃん、先生も一緒で楽しいでしょ? 出発しんこーだよ!」


 その後も菜穂の「いっちょ?」は続いたけど、僕と向井先生とで必死に騙し通す。

 もし菜穂の口から幼稚園で僕と向井先生の密会が広がったら、きっとヤバい事になる。

 職場恋愛ってあまり良い感じ持たれないし、幼稚園に通う奥様方にバレたらどうなる事か。

 

 ……別に、ならないか。

 バレるのを恐れてたら家までこないよな、ははは……。

 僕、自意識過剰かも。



 さっそく車を走らせて、遠足で行ったという公園まで行こうとすると、向井先生から待ったが掛かった。


「どうせなら、ちょっと遠出しませんか? 群馬の方に長い滑り台とかあるんですけど、あれなら菜穂ちゃんも一緒に楽しめそうだなって思うんですけど」

「群馬ですか、行ったことないですね……菜穂、行きたい?」

「いきあい!」


 チャイルドシートから聞こえてくる元気な声を聞いて、僕は聞くまでもなかったなと苦笑する。


 以前は菜穂と二人でお出かけはおろか、江菜子と三人で行くこともなかった。

 僕が土日関係無しに仕事してたし、江菜子も菜穂を連れてどこかに行く事もなかったし。


 菜穂は一日中、ほとんど家の中にいたんだ。


 幼稚園だけが菜穂の外出先であり、唯一母親から逃げられる場所。

 菜穂から見た向井先生という存在は、思いのほか大きいのかも。


「私が言い出したのですから、高速料金出しますね」

「え? いいですよそんな。ETCで支払いも済んじゃってますし、そんな大した金額じゃないですから」

「でも、なんか申し訳ない気がしちゃいますし、せめて半分だけでも」


 向井先生は財布から千円札を取り出し、僕に渡そうとしている。 

 けど、僕はかたくなにそれを拒んだ。


「大丈夫ですよ、今日なんか言い換えれば、向井先生を一日レンタルしちゃっている様なものなんですから。むしろ僕が向井先生にレンタル料支払わないとです」


 言葉にして、自分の過ちに気づく。

 レンタル料って……これは失礼な言葉だったかもしれない。

 売春やパパ活を連想させてしまう様な言葉だ、菜穂の教育にもよくない。


「そんな、私なんて高野崎さんが望めば何日でも……」

「……え? 何か言いました?」

「いえ、別に」


 次は気を付けないと、相手は向井先生、それに菜穂もいるんだ。

 お父さんらしい振る舞いを心掛けないと。


「それにしてもまだ五月なのに、今日は暑いですね。外の気温って何度くらいなのかしら?」

「ここに外気温が出てますよ」

「え、どこですか?」


 車のインパネ(メーターがある場所)、そこの左奥に外気温が表示されている場所がある。

 奥まった場所に設けられているから、角度的に助手席からは見えないのだろう。

 向井先生は助手席から身を乗り出して「どこ?」と温度を確認する。


「わ、まだ五月なのに二十七度もある! 暑い訳ですねー!」

「そ、そうですね」


 ゴクリ、と生唾を飲む音を必死に鳴らさない様に、慎重に喉を動かす。

 向井先生は、巨乳だ。

 コインランドリーの時に下着まで触ってしまった手前、僕はそれを把握している。


 そんな向井先生が助手席から僕の膝に手をかけて、インパネ部分を見ているのだ。

 つまり、僕の左腕には少し硬い下着と、なにやら柔らかい部分が触れてしまっていて。

 綺麗に下した髪からはフルーティな香りと、どこはかとなく女子の香りがしてくる。


 触っちゃいけないし、気づかれちゃいけない。

 僕の心臓のドキドキが向井先生に聞かれない事を祈りながら、ただただハンドルを握る。


「あ、っと」


 随分と乱暴な右車線からの割り込みに、自動運転だった車が急ブレーキに近い制動をかけた。

 人力じゃないその操作は、乗っている人の状況なんか完全に無視して安全を守る。


 手が滑り、僕の胸に飛び込むような形で向井先生が倒れこんできた。

 ワンピースや下着に守られていたはずの胸が零れ落ち、隠されていた桃色部分を露にする。


 見ちゃいけない、と思うのだけど……男の性がそれを許さなかった。

 すいませんと言いながら、彼女も見上げる様に僕を見る。

 彼女も気づいたのだろう、僕との距離が、危険領域に踏み込んでいる事に。


 一瞬にして赤くなる頬、思わず伏せる瞳。

 恥じらう彼女を見て、僕の心はとまどいを隠せ――


「ぱぱ」

「「はい!」」


 授業中に遊んでいた生徒が名前を呼ばれた時の様に、とても大きな声で僕達は返事をした。


「なほも、てんてーとぎゅーしたい」


 純粋無垢な悪魔の言葉。

 菜穂に見られてたかー……って、そりゃ見てるよ、後ろにいるんだもん。

 

「あ、え、あ……菜穂ちゃん、先生とパパはね、ぎゅーしてた訳じゃないんだよ? 車がきゅーって止まって、ちょっとごっつんこしちゃったの。だから、ぎゅーじゃないからね?」


 菜穂を見ながら両手の人差し指をぴんと立てて、ふりふりしながら説明する先生。可愛い。


「そ、そうだよ菜穂、パパが向井先生とぎゅーなんてする訳ないじゃないか。ねぇ、先生?」

「え、ええ、そうですよね。菜穂ちゃんのパパと私が……」


 え、なんでそこで言葉を途切らすんですか先生。

 ものすごい意識しちゃうんですけど、でもそれって不味いのでは?

 幼稚園での体裁を考えると、僕と向井先生がぎゅーとかって……え?


「そ、そうだ、高野崎さん」

「は、はい、何でしょうか?」


 息詰まった空気の中、突然良いこと思いついた! って感じで、向井先生が両手を合わせる。


「せっかくのお出かけなんですし、私のことを先生って呼ぶの、なしにしません?」

「え、っと? では、なんとお呼びすれば」

「そのまま、向井さんでも……しょ、祥子でも、いいです、し……」


 最後の方は聞き取れなかったけど、先生って付けないで呼ぶのは、結構いいかも。

 公園で向井先生っていいながら一緒にいるのも、なんか変だろうし。


「わかりました、じゃあ思い切って呼び捨てでいきますね」

「呼び捨て! あ、あ、は、はい、宜しくお願いします!」


 顔を真っ赤にし、なんだか十代に戻ったみたいに恥じらいの心を意識しながら。

 僕は誠心誠意を込めて、彼女の名前を呼んだ。


「……じゃあ、向井…………」

「……」 

「――――さん、っ、ぷ、あはは! ダメだ、苗字の呼び捨てはやっぱりハードルが高いですね! 間を取ってそのまま苗字で呼び合う事にしましょうか。向井さんも僕のこと高野崎でいいですから、きっとその方が他人から見てもおかしくないでしょうし」

「……あ、はい、そう、ですね。そう、ですよね……」


 あれ? なんか意気消沈させちゃった? 

 ともあれ、そろそろ目的地だし、わくわくが止まらない感じの菜穂と沢山遊ぶぞ!

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