第12話 初めての――
「終わりました。すいません、着替える時間がないなって思いまして、つい」
「いや、次からは予め言っておいてもらえれば、僕も車から降りますから」
「高野崎さんなら、大丈夫だと思ったので」
何が大丈夫なんだ何が。
どうやら古河さん、事務用の服から営業用の服に着替えたかったらしい。
僕に合わせて慌てて出て来たから、って古河さん言うけど。
確かに地味な印象だったけどさ、別にブラウスとスラックスでも問題ないと思うよ? 着替えた古河さんは、黒いゆるふわな感じのニットセーターに、下は控えめな薄茶系の色をしたマーメイドスカート。確かに営業っぽい服装ではあるし、印象も随分と変わっちゃいるけど。
「ごめんなさい、時間取らせちゃいましたね」
「ああ、いや、大丈夫」
「それじゃ、出発します」
もしこれで古河さんからセクハラで訴えられでもしたら、僕は絶対に勝てない。
必死に見ないように目をつむって耳も塞いでたけど、それでも車内に二人きりだったんだ。
無駄に疲れてしまった。
なんていうか、距離感がバグってるとしか思えない。
土曜日もいきなり家に来てたし、一度ちゃんと言った方がいいのかも? しかし言い過ぎるとパワハラになってしまうし、さっきの状況を切り出されてしまったらと考えると……うーん。
★
「ふぅ、凄いですね、まさか飛び込みで総務担当者まで出てくるとは思いませんでした」
「別に凄くなんかないさ、昔の伝手を頼っただけだよ。意外とどこの企業も上の方では繋がってるもんなの。あまり良い手法とは言えないけどね」
「なるほど……人脈って奴ですね。あ、すいません、ちょっとメモります」
行きは運転させちゃったから、帰りは僕がハンドルを握る。
昼前に出てから回ること十件、その内、事実上の担当者まで会えたのが三件。
まぁまぁってとこだろう。
完全なる飛び込み営業だとしたら、本当に空振りばかりの徒労に終わる可能性の方が高い。
個人情報保護法もあるし、中に入る前にとめられて終わるのが関の山だ。
「予め相手先のホームページを確認しておくんだよ。会社にもよるけど、取引先一覧を載せている所もあるからね。そこから繋がりを見出して、アポイントメントを取ってから訪問してる。流石に完全な飛び込みは今のご時世やらないさ」
古河さんは助手席に座って一生懸命にメモを取っていて、その表情は真剣そのもの。
元々営業部の人間だったのだし、今の配置は彼女の本望ではないのだろう。
だからこそ、経理課の課長も彼女を送り出し、僕の下に仮初でも営業を堪能させた。
……もしかしたら、古河さんの目的は営業職に戻ることなのかもしれない。
けど、その為に僕を利用しようとしているのだとしたら――
「ありがとうございます、高野崎さん」
必死に走らせていたペンを止め、彼女は満足げに肩を上下させながら、ゆっくりと息を吐いた。
「本当なら、今の私が高野崎さんと一緒に回るなんて、許される事じゃないって分かっていたのですが……どうしても、ふんぎりがつかなくって。一緒に回って、やっぱりって思いました。思い、知りました。私じゃ、やっぱり高野崎さんみたいにはなれないなって」
古河さんは眉根を寄せながら、物悲しげに微笑む。
今の彼女から感じ取れる感情は、熱意というよりも諦め。
「私じゃ、ダメなんですよね。楓原営業所の経理って辞令が出た時に、分かってたはずなんです。だけど、まだ、心のどこかで少しだけ、……ひっく、ほんのちょっとだけ我儘な私がいて、……どうしてもって、思ってしまいました」
「古河さん……」
「いいんです。ごめんなさい、急に泣き出したり、変なこと言いだしたり。もう、諦めてたはずだったんですけど。高野崎さんと一緒になれたら、嬉しくて、つい」
目じりに溜まった涙を拭きとると、古河さんはそれでも笑顔になった。
とても悲し気な笑み、それまでの努力と未来を打ち砕かれてしまった、悲しみに濡れた笑み。
邪推な考えを持っていたのは、僕の方だったのかなって、ちょっと目を閉じて反省する。
「……いや、もっと自信を持ってもいいと思うよ」
どういった言葉を投げかけてあげるべきか考えてみたけど。
今の古河さんには、叱咤よりも激励の方がいいだろう。
「少なくとも、今日打合せの場を設けてくれた三件、そのどれもが古河さんを見てガードを緩めてくれていたと思う。僕だけだったら、何か頭硬そうなのが来たなって警戒されるけど、古河さんみたいな……何ていうか、柔らかい感じの人が側にいるってだけで、空気が緩和された気がしたんだ。それってやっぱり僕だけじゃ出来ない事だし、今日は古河さんがいてくれて良かったって、僕はそう感じてたよ」
二年間、古河さんはそれまで築き上げてきたもの全てが打ち砕かれてしまったのだから。
そうじゃなくとも、彼女には菜穂の洋服を買ってくれた恩義もある。
恩を仇で返すのは、僕の流儀じゃない。
その後も古河さんは黙ったままだったけど、僕も敢えて会話はしないままでいた。
沈黙が一番の会話になる時だってある。
必要以上の励ましは、毒になってしまうから。
「さてと、ようやく会社に戻る事が出来たね。時間は午後四時か、報告書をまとめて、何とか定時には帰れそうかな」
「菜穂ちゃんのお迎えですよね、良ければ私が代わりに行きますけど……」
「はははっ、ありがと、でもダメなんだ。あれって親が迎えに行かないと絶対に引き渡してくれないシステムになってるからさ」
代理の人が来たとか嘘をついて、そのまま誘拐されてしまうパターンだってある。
最近の誘拐は身代金じゃなくて悪戯目的がほとんどだ。
僕には到底理解出来ないけど、そんな酷い目に菜穂をあわす訳にはいかない。
「(だったら、私だって)」
「ん? 何か言った?」
「いえ、何も。あの、高野崎さん」
「……?」
「また、連れていって下さいね。私も菜穂ちゃんのこと、沢山見てあげますから」
車を降りた古河さんは、土曜日の時の様にちょっと強気に戻っていた。
しょぼくれてる彼女よりも、明るくて元気のいい古河さんの方が数倍綺麗に見える。
連れて行って下さいね、か。
洋服以外にも沢山捨てられそうだなって思いながらも、そこは笑みで返そう。
「そうだね、またいつか……って、着信? 今日行った所からか?」
何かしくじったか? もしくは忘れ物? なんて思っていたら。
蟻の思いも天に届く、歩く足には棒が当たる、色々なことわざがるけど。
幸運とは、結果とは、やっぱり行動しないと訪れないものなんだ。
「はい、かしこまりました。ご用命誠にありがとうございます。はい、契約前後書類というものもありますので、早急に作成致します。……はい、では、宜しくお願い致します」
スマホを操作して、相手との通話が切れたのを確認してから、ゆっくりと息を吐く。
いつだってこの瞬間は嬉しい、仕事が上手くいった時の喜びは、何物にも代え難い。
「……高野崎さん、今のって」
「これは古河さんが運命の女神様だったって事かな。小規模だけど、早速新規案件受注だよ」
百貨店の一部を借り切っての小さなイベント、それの運営をお願いしたいというものだった。
芸術作品を展示し即席販売をウチでマネジメントし、是非とも成功させたいのだと。
それを聞いた古河さんの目が大きくなったと思ったら、拳と共にぎゅーっと強く閉じた。
腰を曲げながらぐぐぐぐって力を溜め込むと、一気にそれが弾かれた様に「やったーーー!」ってそれはそおれは大きな声で叫んだ。
「やった、やった! 私、新規案件受注なんて生まれて初めてなんです! しかも今日の今日で受注って、やったあ! すっごい嬉しいいいいいい!」
「そ、そうなんだ、良かったね」
「はい! どれもこれも高野崎さんのおかげです! あ、別に私一人の成果じゃないんですけど、でもでも、やっぱり嬉しいんですー! あーもう最高の気分になっちゃったなー!」
頭の中で考えるに、多分こみこみでも併せて三十万円にも満たない契約なんだけど。
でも、そんな水を差すような事は、今は言わなくいい。
「お祝いに、そこのコンビニで何か奢ろうか?」
「え!? いいんですか!? 実は私結構飲めるんですよ!」
「いやいや、まだ仕事中だから。それに古河さんには、今の契約書を作成するっていう大事な仕事も残ってるでしょ?」
「え!? 私が作成しても良いんですか!? 本当に!?」
「何事も経験だよ。出来上がったら後で僕に送っておいてね」
「はい!」
いやぁ、輝く女性って、こんなにも綺麗に見えるものなのかな。
もしかしたら、今の営業部の人を鍛え上げるよりも、古河さんを鍛えた方が効率が良いかも?
可能性は、可能な限り広く持て、か。
「それじゃ、会社に戻ろうか」
「はい! 高野崎さん!」
おいおい、腕を組んで跳ねる様に歩くとか。
若いなぁ、まだ二十四歳だっけ? そりゃ若いよなぁ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます