第10話 私の想いと、不思議な質問(古河琴子視点)

 高野崎さんの運転する車の助手席に座り、彼の横顔を眺める。

 一言で言うと素朴な感じ、人を裏切るとか、そういう事が出来ない純情な人。

 運転している時でも会話を途切れることなく続け、菜穂ちゃんと私を楽しませてくれる。

 とても素敵な男性だ、離婚した江菜子って人が、私には信じられない。


 今朝、高野崎さんは私に対して「同情からかと思ってた……理由って?」と質問してきた。

 その答えを伝えていいべきか悩んだけど、多分、まだ早い。

 もっと二人と打ち解けてからじゃないと、私の覚悟は伝わらないと思うから。



 高野崎俊介が楓原営業所に異動になる。

 そのことを初めて耳にした私の第一声は「……嘘」であった。

 

 こう言ってはなんだけど、楓原営業所は成績がかなり悪い。

 マンパワーを主にしている我が社の、味噌っかすの様な営業所だ。

 陸の孤島や流刑地、楓原営業所の呼び方は様々だけど、総じて悪い噂の根源の様な呼び方だ。


 私だって、こんな営業所に来たくて来た訳じゃない。

 ドジで間抜けな私は、幾度となく失敗を繰り返し、更迭の様な形で楓原営業所、経理部門に異動になったのだ。でも、それでも退職しなかったのには理由がある。


 高野崎俊介。

 新人研修の時からお世話になっている彼を思い、私はこれまで必死になって頑張ってきた。

 だから、あの人がこの営業所に来るなんて、思ってもみなかったんだ。


――二年前――


「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。これは有名な山本五十六という軍人さんの言葉になります。僕は人にものを教える際に、彼の言葉を意識して教える様にしています。まずはお手本を、そして次に皆さんに実際にやってもらう。結果を褒めて、次は任せる。人は誰しも褒められて任せられる事を好みます。僕だってそうです。まだ二十六歳ですが、こうして皆さんの前に立たせて頂き、実際に任されてとても光栄に感じています。もちろん、この後にお褒めの言葉を貰えるのでしょうから、俄然やる気が出るってもんです。ね? 社長?」

 

 高野崎さんに無茶振りをされて、後ろで立っていた社長が苦笑しながら「そうだな」と言って笑い始める。社長の厳格な挨拶の直後だっただけに、皆の空気が一瞬でなごんだ、そんな感じが彼の教育のスタートだった。


 一週間続いた新人研修だったけど、高野崎さんが教壇に上がった時だけは、皆楽しみながらも真剣に授業に集中できてた気がする。ベテランの先生なんかよりもよっぽど上手い彼の話術は、社長や他の先輩社員さんが期待してしまうのも無理もない、後光が差している様な感じがしたのだ。


 私は、彼について行こうと思った。

 高野崎さんについていけば、私も同じ様になれるかもしれない。


 でも、高野崎さんの道は、高野崎さんだから歩める道だったんだと、思い知る事に。


 入社して一年、もう新入社員として見られない、でも仕事は半人前。

 そんな時に、私はとんでもないミスを犯してしまった。


「はい、こちら東京本社営業部、古河がお受けいたします」

「Hello,――――――」


 英語!? 英会話は習ったし、一応分かるはずなんだけど、あれ? あれあれあれ?

 ど、どうしよう、少々お待ちくださいって何て言うんだっけ!? あわわわわ!

 

「わ、わわわ、わんもーめんと! ぷりーず!」

「――――? ――――!」

「あ、ああ、いえす! いえすいえす! ぷりーず!」

「――! ok! that’s right!」

「え? え、っと、ええ!? ……え、き、切れちゃった」


 ざわつく社内、ほんの数秒前まではなかった緊張感の中、一人受話器を握り締めたままどうしていいかおろおろしていると……当時の上司が容赦なく私へと質問を飛ばしてきた。


「古河君、今の電話、どこから?」

「え? え、えっと、その……」

「いや、メモくらい取るのは常識でしょ? じゃあ相手の番号は?」

「そ、その、国際電話だったので、番号が長くて、メモもその、ほんとに、あの」


 名前も分からない、当然会社名だって分からない。

 相手先の番号も分からないのに、私は最後にyesを連呼して電話が終わってしまった。

 どうするのか分からないし、この後どうなるのかも分からない。

 

 海外に拠点を置き、国内に仕事を依頼している顧客だって沢山いる。

 その中の一つなのは間違いないのだろうけど、そんなのを探すのなんて無理も良い所だ。

 

「す、すいませんでした」

「すいませんじゃないよ、分からなかったら分かる人に代わる! 当然でしょうが!」

「……すいません、でした」


 同じ言葉しか言えず、意気消沈しながら席に着く。

 終わってしまったのだから、もうどうにも出来ない。

 なんで電話に出てしまったのだろうかって、そんな事を悔やんでいた、その時だ。

 椅子に座りながら、高野崎さんが受話器を片手に皆に告げたのは。


「……先ほどの電話の主、突き止めましたよ」


 二つ机を挟んで仕事をしていたはずの高野崎さん。

 海外顧客渉外部門のホープ、教育の場で彼を見てから、既に一年。

 そんな彼が、笑顔のままに電話の主と会話を続ける。 


『君も人が悪いな、ちょっと待っててと彼女が伝えていたのだから、その通りにしておいてくれれば良かったのに。三か月後のイベント関係だね、了解、契約書はそちらの雛形を使用するから、なるはやで送ってくれな……はは、その話はまた、楽しみにしているよ。ああ、あと……君の事はしかと報告させて頂くからね? 彼女はウチの大事な仲間なんだ、今後はそこの所、宜しく頼むよ』


 流暢な英語で会話を終えると、高野崎さんは上司へと語りかける。


「先ほどの古河さんの受話器から耳に覚えのある声が聞こえてましたのでね、僕の方で試しに掛けてみたらビンゴでした。まったく、彼の方もあのまま終わりにして、こっちに無理難題吹っ掛けようとしてたみたいですね。……だから、古河さん、君が悪い訳じゃないよ」

「それって……どういう」

 

 彼は私の方に近づくと、メモ用紙に相手先の会社名と氏名をメモし、今回の事を図解付きで私に教えてくれた。


 私のyesを言質にし、三か月後に数千人規模のイベントを開催するので、それまでに格安で人を集めて欲しいという内容だったとか。もしあのまま進めていたら、相手が作成してきた契約書に無理矢理にでも私達はサインさせられ、人を、それも格安で百人以上集めなければいけない状況になってしまっていたと、高野崎さんは語る。


「最初から悪意のある電話だったってことさ。とりあえずこの事は社長にも報告して、しかるべき処置を取らさせて貰おうかな。ふふふっ、古河さんのおかげでだいぶこちらにアドバンテージが寄ってきたよ。かなり優位に事が進められそうだ」

 

 私のミスだったのに、高野崎さんはそれを踏み台にして、その時の契約を相場の三倍で相手に飲ませたのだとか。

 

 正直、凄いと思った。 

 私に同じことは出来ない、絶対に。

 

 その後も色々と助けてもらっていたのだけど、他にも様々なミスを重ね、今や私は楓原営業所の事務員にまで成り下がってしまっていた。本社営業部から営業所の事務、転落もいいとこだ。


 もはやここまで来ると後悔の念すら沸かない、私には私の限界があったと認めるしかない。

 色々と腹をくくりながらも、出来る事をしていこうと思った。

 そんな時だ、高野崎さんの異動の話を耳にしたのは。


 あり得ないと思った、絶対にそんな事があってはならないと。

 人のプライバシーを勝手に聞くのはどうかとも思ったけど、ウチの所長は口が軽い。

 そうでなくとも噂の人だ、高野崎さんの異動についてぺらぺらと喋ってくれた。


 奥さんの裏切り、育児放棄……確かに高野崎さんは仕事人間だった。

 だけど、そこまで完全に家庭を放置していたとは、私には思えない。


 ううん、あんな仕事が出来る高野崎さんなんだ。

 支えてあげる人は、覚悟がないといけないのに。

 

 私なら……出来る。


 高野崎さんは菜穂ちゃんが心配でこんな営業所まで堕ちてしまったんだ。

 そんなの、もったいないよ。

 

 私なら、菜穂ちゃんと二人で、ずっと高野崎さんの帰りを待っていられる。

 だからもう一度羽ばたかせたい、あの人の輝く姿は、誰よりも素敵なのだから。



 月曜日、今日からまた高野崎さんと仕事が出来るとウキウキしながら出勤しパソコンを起動させると、私あてに一通のメールが届いていた。


 社内メールで、相手は……野芽健二、か。

 まだ業務開始前、ちらり視線を飛ばすと、ニコニコと私を見ながら手を振っている。

 本社所属の人間だし、無碍に出来ないよなぁとげんなりしながも、野芽さんの所へ。


「ちょっと二人きりになろうか、古河さん、コーヒー飲める?」

「飲めますけど……何ですか? ここじゃ出来ない話なんですか? 私、色々と準備しないといけないんですけど」

「まぁまぁそう言わずに、直ぐ済むからさ」


 半ば強引に連れられるがままに、私は野芽さんと共にエレベーターに乗り込み、一階にある喫茶店へと移動した。

 その間、ずっと無言。

 別に話しなんかしたくないけど、なんとなく想像はつく。

 

「古河さんさ、土曜日、高野崎と一緒にいたろ?」


 やっぱりかと、私は大袈裟に肩をすくめた。

 

「そうですけど、何か」

「おいおい、随分とつっけんどんだな。でもまぁ、そんな古河さんを見て、高野崎の事をどういう風に見ているかも、何となく分かるけど」

「……何が言いたいんです?」


 コーヒーを運んできた店員さんに会釈したあと、野芽はこう言った。


「古河、お前、高野崎をどうしたいと思ってる?」


 目が……違った。


 私の知っている野芽健二という男は、フードコートで会った時の様な、どこか飄々とした、掴みどころのない雲みたいな人だと思っていたのに。

 今は、まるで目の前の獲物を噛み殺す様な……。

 とても怖い、怖くて逃げだしたくなる様な目をしていた。


 この質問の答えを間違えたら、もしかしたら私は楓原営業所からも飛ばされる。

 この男は、それが出来る人間だ。

 そんな可能性を秘めた問いに、生唾を飲みこみながら、私は答える。


「……私は、私なら、高野崎さんをもう一度本社に戻せると、そう、思っています」


 思わず出てしまった本心、まだ高野崎さんに何も伝えていないのに。

 言葉の意味はいわずもがな、野芽なら秒で理解する事だろう。


 なのに、沈黙。


 一分、二分と過ぎていく、無言の時間。

 こんなにも耐え難い沈黙は、生まれて初めて経験する。

 拳を握った手には汗が走り、野芽の目を見ないといけないのに、俯いてしまう。


 とてつもない圧力、これが、いや、こんなのと同等に戦っていたのが、高野崎さんなんだ。

 一瞬でも、高野崎さんみたになりたいなんて考えた私が、どれだけ愚かだったか。


 ……でも、私は、違うから。

 私がなりたいのは、高野崎さんみたいな人じゃない。

 私は、この男よりも強い高野崎さんの、支えになりたいと思っているのだから。


 だから、卑屈になんてならない。

 負けない、この男にも。


「……そうか、分かった」


 野芽の一言で、それまでの空気が霧散した。

 聞こえてこなかった店内BGMや、他の喫茶店の客たちの会話が耳に入ってくる。

 いつの間にか頬を走っていた一筋の汗をぬぐいとって、私は下げていた顔を上げた。

 

 でも、そこに野芽の姿はなくて。

 既にお会計を済ませている彼の姿を見て、私は肩に入った力を、ようやく抜くことが出来た。

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