第7話 SS 幼稚園での菜穂ちゃん(向井祥子視点)

 送迎で出ていた幼稚園バスも戻り、園内はお預かり保育で残った園児のみとなった。


 お預かり先生と呼ばれる一般の方も協力してくれるので、幼稚園の先生としての仕事は書類関係の作成と、自分たちの技術の向上、他は問い合わせてくるご家庭の対応となるのだけど。


 私は菜穂ちゃんの発音について、少しだけ懸念を抱いてしまっていた。

 四歳の年中さんなら「さ行」や「が行」が、まだまだ言えない子も多い。

 舌足らずな子だって沢山いるし、今は菜穂ちゃんが目立つような状態ではない。


 でも、菜穂ちゃんにはお母さんからの虐待を受けていたという過去がある。

 ネグレイト、育児放棄、呼び方は色々あるけど、どれも意味は一緒だ。


 ストレスからくる発声障害、柔らかい物しか与えられずに、舌や口内の筋肉が育っていない可能性、母乳をほとんど与えられずに吸うタイプの哺乳瓶で育ってしまい、やはり筋力がない可能性だってある。


 言葉の教室とかもあるけど、でもまだ四歳だし……考えすぎかな。


「なに難しい顔してるの、子供たちが不安になるよ?」

「神崎先生……すいません、菜穂ちゃんについてちょっと考えてました」


 神崎先生に相談するのもアリかな、と思っていると。


「菜穂ちゃんって、高野崎さんの事でしょ? 今朝も見させてもらったわよ? 一緒になって手を振って、いってらっしゃーいって。まるで本当のお母さんみたいじゃない、あの人はシングルになったばかりなんだから、気を付けないと直ぐに変な噂が立っちゃうわよ?」

「変な噂って……私は別に」

「あくまでお客様なの、先生と保護者、きちんと線引きしないとダメなの。狭い世界なんだから、一度噂の煙が上がってしまったら、もうどうにもならないからね?」


 神崎先生は先生よろしく、人差し指をぴっと立てながら私に指導をする。

 そんな気持ちは微塵もないけど、言葉にされたら少しは角が立ってしまうというもの。

 嫌な気分を表に出さない様にしつつも、視線を逸らしながらちょっとだけ唇を尖らせる。


「それぐらい、分かってます」

「ならいいけど。あ、そういえば菜穂ちゃんと言えば、そろそろあの時間じゃない? ほら、昨日沢山泣いたって」


 昨日の……うん、昨日沢山泣いちゃったっていう、あの時間だ。

 お預かりの時間になると、お昼寝の時間が設定されていない年中さんたちは、結構な頻度でお昼寝を始める。

 お預かりの時間はお勉強の時間が設けられていないから、アニメを見て過ごしたり、園庭で遊んでたり自由にしてて構わない。

 もちろん、お預かり先生の目がある中で、という制限はある。


 昨日菜穂ちゃんはその時間に大泣きしてしまい、他の子も起きてしまうという状態にあった。

 私達の部屋まで聞こえてきたのだから、相当だ。


「そうですね、私、ちょっと様子見に行きます」


 引き戸をあけて緑色の石廊下を進むと、数歩のところに預かり保育のお部屋がある。


 心配のしすぎかもしれないけど、菜穂ちゃんが泣くことによって他の子が怒りだし、最悪は喧嘩になってしまうかもしれない。

 菜穂ちゃんだって大泣きして暴れる可能性だってあるのだから……と、頭の中が心配ごとで埋め尽くされそうになりながら、少々速足で預かり部屋へ。


 すると。


「あ、向井先生」

吉住よしずみさんすいません、昨日のことがあったので少々気になりまして……」

「ふふふっ、大丈夫ですよ。みんな寝てますから、そーっと見てみて下さい」

「そっーっとですか……? …………わ」


 お預かり先生の吉住さんに促され、私は預かり保育の部屋を覗き込み、あまりの可愛さに思わず声を漏らしてしまった。

 カーテンが閉まった薄暗い室内、その中央に、菜穂ちゃんを囲むように皆が仲良さそうに眠っている。

 その姿はまるで天使達の集い、大きな一つの円を描きながら眠る子供たちを見て、私の頬はこれでもかってぐらいに緩んでしまった。


「みんな、菜穂ちゃんの手を繋いで……」

「ええ、眠くなった菜穂ちゃんに、年長の高木君が手を繋ごうって言ったみたいです。手をつなぐと安心するって分かるんでしょうね。菜穂ちゃんが泣いちゃう理由とか事情とか、もちろん皆には伝えてませんが、なんとなく察してしまうのでしょうねぇ。高木君に連れられて、他の子たちも菜穂ちゃんの手を握ったり、近づいて横になったり」


 本来、お預かりは自由な時間だから、みんな一緒に寝る必要はない。

 お部屋だって暗くする必要はないし、遊ぶ子は自由に遊んでて構わないのに。


「……凄いですね、みんな」

「はい、なので、一時間くらいはこのまま寝かせておこうかなって。何かありましたら直ぐに連絡しますから、後はお任せ下さい」


 沢山のお友達に囲まれながら眠る菜穂ちゃんは、とっても幸せそうな寝顔をしていた。

 こうやってみんな大きくなっていくのかなって、少しだけ寂しい気持ちと、嬉しい気持ちが混ざり合いながらも、私は頬笑みを浮かべながら、お預かりの部屋を後にしたのでした。

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