第5話 夜のコインランドリーで出会う彼女は、またいつもと雰囲気が違った。

 時刻は既に午後五時半を過ぎている。

 預かり保育は午後六時まで、ギリギリだ。

 定時で仕事を上がり自転車をひたすらに漕いでもこの時間なのだから、世の共働きの主婦の皆さまには頭が下がるばかり。


「すいません、高野崎です! 菜穂を迎えに来ました!」


 園内には僕と同じようにお迎えに来た主婦の人達と、園庭で遊ぶ子供たちの姿があった。

 習い事の為に集まっている子供たちなどもいて、まだまだ賑わいを見せている。


 そんな中で、僕は向井先生を見つけ出し、名前を告げて小走りで近づいていく。

 毎日のことだけど、やっぱりこの空間は慣れない。

 ほとんど女性しかいないこの空間で、男の僕が一人で娘を迎えに来るのは、やっぱり異質だ。


「菜穂ちゃんのお父さん、すいません、菜穂ちゃんの事で少しだけお話が」


 朝預けた時とは違い、向井先生の表情はどことなく暗い。

 薄暗い廊下に案内されると、向井先生は立ち止まって僕へと視線を落とす。 


「菜穂に、何かあったんですか。まさか、喧嘩とか」

「あ、いえ、そういうのではないのですが。菜穂ちゃん、今日のお預かりの時間にお昼寝してたのですが、大泣きしながら起きちゃったんです。それで眠っていた他の子も釣られて泣き始めてしまって。あ、いえ、泣いてしまうのは子供ですから、別に構わないのですが、それが……」

「……それが、何ですか?」

 

 向井先生は伝えていいのか眉根を寄せながらも、自身の肘を摩りながら重い口を開く。


「ママがこわいって、泣いてたんです。ごめんなさいって沢山泣いていて。高野崎さんはとても素晴らしいお父さんだと思います。高野崎さんを責めている訳ではないのですが、私達としても菜穂ちゃんの事が心配で、もっと親身になれたら良いんですけど……」

 

 向井先生の言葉を聞き、僕は「そうですか」の一言も伝える事が出来ずにいた。

 菜穂の育児を江菜子一人にさせてしまっていたのは、僕のせいだ。

 育児は一人でするものではない、僕もきちんと参加しないといけなかったのに。

 

 江菜子の怒声は、団地中に響き渡るほどのものだと、後に聞かされた。

 その環境下にいた菜穂が、どれほどの恐怖だったのか、想像する事すら僕には出来ない。


 日本国内を飛び回り、仕事をする事が一番だと思っていた。

 一戸建ての資金を貯め、三十歳にはマイホームを購入するんだと、バカみたいに一人意気込んでいた愚か者、それが僕だ。

 ぎゅっと歯を食いしばり、それでもとようやく口を開く。

 

「それで、菜穂は」

「沢山泣いたからか、その後はずっと眠っていたみたいです。おやつにおにぎりも用意してあったのですが、それも手つかずのまま、ぐっすりと。もしかしたら、今日は夜なかなか寝ないかもしれませんね」


 くしゃりと笑顔になった向井先生を見て、ようやく僕も笑顔を作れるようになった。

 連れて行かれた預かり保育の部屋、そこに敷かれた布団で眠る菜穂の寝顔を見て、不覚にも僕の頬を一筋の涙が落ちる。

 こんなに小さな身体で、こんなに小さな手で、どれだけの苦労を菜穂に掛けてしまったのかと、後悔で圧し潰されそうだ。


「……菜穂」


 手を握り、小声で語り掛けると、菜穂はゆっくりと瞳を開いていく。


「…………みゅ? ぱぱ……?」

「うん、パパだよ。菜穂、おうちに帰ろうね」

「……うん、なほ、いっぱいねたね」

 

 いつものフレーズを聞き、僕は思わず小さい娘を抱きしめる。

 お父さんの涙なんて見せたくなかったから。

 心配させる事は、もう絶対にしないからねって。

 

「あの、高野崎さん」


 菜穂のことを抱っこしながら園庭へと出た僕へと、向井先生が声を掛ける。

 これを……と言って渡された紙には、十一桁の番号が手書きで書かれていた。


「私のスマホの番号です。もし菜穂ちゃんの事で相談ごととかありましたら、いつでもお声がけ下さいね。私に出来る事がありましたら、何でもしますので」


 にっこりと笑顔になった向井先生は、菜穂へと手を振りながらこう言ってくれた。

 社交辞令にしては随分と重い言葉だ、幼稚園の先生って大変なんだなって思いながら、僕は会釈と共に「その時は、お世話になるかもしれません」と返し、幼稚園を後にする。


「ぱぱ、なほね、おなかすいた」

「そっか、夜ご飯、菜穂は何が食べたい?」

「えー? なほ、ハムさんたえたいよ?」

「あ、そっか、朝もハムって言ってたっけ……ごめん、パパ、買ってないや」

「そか、なほ、ぱぱがつくうの、でんぶしゅきよ?」


 二人だけの帰り道だけど、菜穂と二人なら笑顔になれる。

 自転車をころころ押しながら歩く帰り道に、僕は菜穂とのこれまでを埋めるみたいに、罪を償うように、ずっと語り掛けながら家路をゆっくりと歩き続けたのであった。



 帰宅後、朝と同様に僕を待つのは、家事育児炊事洗濯だ。

 家を出たまんまの状態で出迎えてくれるリビングにキッチン。


 四畳半の部屋には室内干しにした洋服が干されたままだし、お風呂だって湯が張ってある訳がない。

 シンクにも朝食で使った食器がそのままだし、なんなら焦げたフライパンだってまだ焦げたままだ。


 これは時間がかかるなと判断。

 色々と後回しにして、僕はコンビニ袋から買ってあったお弁当を二個取り出した。


 菜穂の幼稚園に持って行くお弁当はさすがにコンビニ飯には出来ないけど、夕食ぐらいは手抜きしても多分大丈夫だろう。

 いつかきちんと料理が出来る様になったら、菜穂に作ってあげたいとは思うけど……いつになるかな。


 菜穂はというと、帰宅するなり園服を脱ぎ散らかして、テレビの前に陣取っていた。

 夕方の六時半から放映される教育チャンネルの漫画、それに首ったけだ。

 

 今のうちに動かないとと、布団を敷いて、お風呂を作って、ご飯の準備して。

 そして四畳半に干してあった洗濯物で、僕の足は完全に止まってしまった。


「うげ、なんだこの臭い。室内干し用の洗剤使ったのに、生乾き臭が半端ないぞ」

 

 くんくんと臭いをかいで、あまりの臭さに思わず鼻をつまんだ。


 こんなシャツを着ていては、会社で何て言われるか。

 曲がりなりにも営業職なのに、こんな臭いを漂わせていてはマズい。


 両肩を落とし落胆しながらも、洗濯カゴの中にぽいぽいと放り投げる。

 洗い直しが必要だ、しかも明日の朝までに。


 夜は寝ないかもしれないって言われていた菜穂だったけど、ご飯を食べてお風呂に入り、布団で寝かしつけると直ぐにすやすやと寝息を立てて眠ってくれた。


 ありがたいと思いながら、いつも菜穂と一緒に寝ているウサギのぬいぐるみに「菜穂を任せた」と言葉を残し、僕は洗濯カゴを持って一人駐車場へと足を運ぶ。


 出来る事ならば菜穂から目を離したくない。

 でも、洗濯物が乾かないのも死活問題だ。

 

「もっと予備を買わないとダメだな……江菜子はミニマリストとか言って、僕の分をあまり買ってくれてなかったし。っと、ここがコインランドリーか」


 車を走らせること十五分ほどで、コインランドリーに到着する。

 正直なところ、コインランドリーにお世話になるのは生まれて初めてだ。

 中に入ると洗濯機と乾燥機が沢山並んでいて、どれに入れるのがベストか目移りしてしまう。


 どれが正解かよく分からないけど……この洗濯と乾燥がセットになってるのが良いのかな?

 一回千二百円、ちょっとお高いなって思いながらも、コインを投入する。

 終わるまで二時間もかかるらしい、どうしたもんかと思い適当な場所に腰かけると。


「あれ? 高野崎さん?」


 ふいに声をかけられることに。

 男の子がかぶるような前鍔の帽子に、グレーの薄い長袖にダメ―ジジーンズ姿の女性。

 背中辺りまで落としている髪は、少し濡れている? お風呂上り?

 なんて思いながら視線を上げていく、すると。


「……あ、向井先生ですか?」

「あはは、こんばんは、まさかこんな所でお会いするなんて思わなかったです」


 恥じらいながらも、僕に対して両手を合わせながらお辞儀する向井先生。

 幼稚園の時と違い、私服になった向井先生は……なんていうか。

 女性として、とても素敵な人だなって。

 一瞬だけ、そんな考えが、僕の頭をよぎってしまっていた。

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