第4話 後輩で、ちょっと強引な女の子。

「それで結局遅刻とか、シングルファザーも大変だな」

「もっと早起きしないといけないんだけど、気づくと寝ちゃっててさ」

「家事は給与換算するとサラリーマン並みって言うもんな、一人で仕事掛け持ちしてる様なもんだから、そりゃあ大変に決まってるわ」


 電子タバコなんかタバコじゃないって言いながら、今も昔と変わらぬ紙タバコを愛用する同僚、野芽のめ健二けんじ

 彼は口にくわえたタバコに火を点けると、頬をすぼめながら、実に美味しそうに煙を吸い込み、そして吐いた。


 今となっては貴重な喫煙OKな飲食店、会社近くの〝味は二の次〟のラーメン店ではあるものの、愛煙家には貴重な喫煙スポットだ。

 そこに誘われた僕は、早々とチャーハンセットを食し、彼の食後の一服に付き合う事に。

 無論、娘がいる僕はタバコなんて吸わない。


「それでどうよ、独身貴族に戻った感想は?」

「……あまりいいものではないね。お皿一つどこに収納していいか分からないし、洗濯物だってどこに収納されてあったのか分からないんだから。どれだけ家事を江菜子に押し付けてたのかって、自分に飽きれるよ」

「でもま、そんなのが浮気の言い訳になる訳がねぇけどな」

「健二、その話はもう終わったことだから」


 「そうだったな」と口にしながら、健二はフィルター間際まで来た火種を灰皿に押し当てて、二本目へと火を灯した。


 僕が江菜子の浮気を疑った時に、健二は誰よりも僕の事を心配してくれた過去がある。

 心配なんてもんじゃない、徹底的に炙り出せって的確なアドバイスまでしてくれたのだ。


 相手の家族構成から勤め先まで調べ上げ、更には情事の証拠まで僕は掴む事が出来た。

 そして相手の人生を終了させたんじゃないかってぐらい追い詰める事が出来たのは、健二のアドバイスと協力によるところが大きい。 


「それにしても、ウチの会社も終わってるよな。エリート街道まっしぐらだったはずの俊介が、今じゃこんな県外れの営業所の課長まで下がってんだもんな。会社も手厳しいもんだ」

「課長で残してくれるだけありがたいよ。それにこれも僕が望んだことだから。定時で帰らないと娘のお迎え間に合わないし、あまり寂しい思いもさせたくないんだ」

「だとしてもよ、一時は海外の顧客相手に渉外業務の部長代理だったってのに。俊介の経歴だったら、こんな小さい営業所なら所長じゃないとおかしいってもんだ」


 「本当にいいのか?」社長室で言われたこの言葉を、ふと思い出した。


 本社勤務、更には今までの様な働き方だと、菜穂と一緒にいられる時間は限りなくゼロに近い。

 当時の収入なら、家政婦さんや保育所に菜穂を預けて、これまで通りの働きをする事も可能だっただろう。


 でも、収入が下がってしまうのは確定だけど、僕は夕方六時までの預かり保育にも間に合える様に、家からも近いこの楓原営業所での勤務を希望した。

 

 会社は上がるのは難しいけど、下がるのはとても簡単だ。

 離婚した件と一緒に楓原営業所への移転を希望すると、直ぐに転属辞令が僕の下に届いた。

 どれもこれも僕が望んだことだから、むしろ迅速な対応は助かるとして。

 それよりもと、僕は言葉を続ける。


「僕よりもなんで健二まで楓原営業所にいるのさ? 営業支援に何回か来てたのは知ってたけど、健二まで営業所勤務になる必要はないだろうに」

「……まぁ、それはあれよ、色々と事情ってもんがあんのよ。別にお前を追いかけて来たとか、そんな殊勝な心掛けがある訳じゃねぇから、安心しとけ」

「別に心配した訳じゃないけど」

「そうかい、そんじゃ、そろそろ仕事に戻るとするかな」


 緩くパーマが掛かった髪をかき上げながら立ち上がると、健二は吸っていたタバコを灰皿に押し付けて席を立った。

 社内では喫煙厳禁だから、次に健二がタバコを吸うのは定時になってからの事であろう。

 禁煙すればいいのにとは思うだけで言葉にせず、僕も健二に続いて席を立った。


「高野崎さん、ちょっといいですか?」


 昼食から戻り小一時間が経過した辺りで、ふいに女の子から声を掛けられ振り返る。

 暖色系のニットカーデガンにタートルネックのセーター、下は柄物のロングスカートを着込んだ彼女、古河ふるかわ琴子ことこが、僕を見ながら申し訳なさげに眉を下げる。


「古河さん、どうしたの?」

「あの、午前中に提出して頂いた諸経費請求書なのですが」

「ああ、あれね、営業の際に使用したものばかりなのだけど。何か不都合でもあった?」


 今回提出したのは、電車代と顧客との打ち合わせの際に利用した喫茶店のみだったはずだから、不都合なんて無いはずなのだけれど。と思っていたら、古河さんは笑顔になりながら、一枚のレシートを僕に手渡してきた。


「このレシート? 先日実際に使ったお店のだけど……これが何かあった?」

「裏面、ご覧になりました?」


 裏面? レシートの裏なんて別に見ない……と思いながらひっくり返してみて、僕は驚きと喜びで思わず目を見開いた後に、頬を緩めながらその目を細めてしまった。


 そこには、菜穂の字で『パパ、ダイスキ』とクレヨンで書いてあるじゃないか。 


「それ、あまりにも可愛らしい内容でしたので、多分高野崎さん気づかないで提出したんだろうなって思ったんです。業務上、高野崎さんの事情は伺っておりますが……可愛い娘さんに愛されているみたいで、ちょっと安心しました」

 

 古河さんはそう言うと、少しだけ一緒に休憩しませんか? と僕を誘いだした。

 特に急ぐ仕事もないしと、僕は彼女に連れられて席を立つことに。

 

「まだ見てる、よっぽど嬉しかったんですね」

「……うん、娘の菜穂が頑張って僕の為に書いてくれたんだなって思うと、何かこう、胸の奥が熱くなるって言うか」


 楓原営業所に設けられた小さな休憩スペースには、椅子が数脚と背の高いテーブルが一つ、社員なら自由に飲めるコーヒーバリスタと、最新の週刊誌が何冊か用意されたガラス張りの一間となっている。

 元は喫煙所だったとかで、なごりで背の高いテーブルだけが残されているが、これはこれで座らない程度に休憩したい人達に重宝されていた。

 

「本当に良かった。先々週ウチの営業所に来るなり『元妻の保険証の返却をお願いします』って物凄い暗い顔で言ってくるんですもん。健康保険資格喪失証明書だって、ちゃんと送付しました?」

「もちろんしたよ、あれが無いと前のも困るだろうし」

「そうですね……でも、お仕置きの為に少しは困らせた方が良いような気もしますけど」

「お仕置きはしたさ、法的にね」

「うわ、怖、高野崎さんを敵に回したら怖そうですね」


 言葉とは裏腹に笑窪を作りながら、温かな湯気がでるコーヒーを口へと運び、古河さんは一口だけ啜る。

 確か彼女は僕の四期後の入社の子だから、今は二十四歳くらいかな。


 抽象画とか、窓辺に佇みながらコーヒーを飲む仕草だけで一枚の絵になりそうな、そんな雰囲気の女性だ。

 温かみのある人、誰にでも優しい雰囲気で語りかけてくれる古河さんは、どこにでもあるインスタントコーヒーを、少しだけ良い味に変えてくれる……そんな人だ。


「そんなことないさ、普通にしてれば僕は全然、人畜無害も良い所だよ」

「人畜無害って……そういえば、菜穂ちゃんって今四歳なんですよね?」

「うん、四歳、幼稚園の年中さんだけど」

「じゃあ、まだ身長は100cmくらいかな。私の姪……お姉ちゃんの娘さんなんですけど、その子のお古とかで良ければ、洋服とか菜穂ちゃんにプレゼントできるかなって思うんですけど……必要ですか?」


 菜穂の服、はっきり言って僕には女の子の洋服に関する知識はとんとない。

 多分、今のままで洋服屋さんに行ったら、菜穂の言われるがままに購入してしまう事だろう。


「うん、凄い助かる。今はまだ江菜子が選んだ洋服とかがあるから、何とかなってるけど」

「え、前の奥さんが残した洋服を使ってるんですか? そっか……ふむふむ」

「……?」


 古河さん、腕を組みながら難しい顔をしているけど。

 江菜子の残した洋服とかって、着せたらまずいのかな?

 

「いえ、分かりました。今度のお休み、高野崎さん何か用事とかありますか?」

「特段、何も」

「じゃあ、一緒に菜穂ちゃんの洋服買いに行きましょうか。土曜日の十一時に高野崎さんのご自宅にお伺いしますね。高野崎さんは何も準備しなくて大丈夫ですから、私が菜穂ちゃんの洋服、コーディネートしてあげます!」


 僕は何も返答をしていないのに、古河さんはそれが決定事項の様に話を進めてしまった。

 ふふんと鼻歌を奏でながら休憩室を後にする古河さん。

 彼女のお団子になった頭を見送りながら、僕は一人、残されていたコーヒーを寂しく飲み干すのであった。

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