第2話 忙しい朝、二人だけの朝。

 江菜子と別れた直後の僕に、菜穂と二人だけの生活が始まっていた。

 当時ひとり身になって感じた事は、家事ってとても大変だという事だ。

 炊事洗濯掃除なんて、漢字二文字で終わる様な内容じゃない。


 いま思い出してみても、やっぱりそれらは大変すぎて。

 元妻の存在がどれだけ大きかったのか、ただただ思い知るばかりだ。



 数週間前、朝七時半――



 昨晩の内にセットしておいたご飯をせっせと娘のお弁当箱に詰めて、どのフライパンで焼いてたのか分からないから適当にコンロに乗せて卵を落とす。

 油? そんなのが必要なのかも分からない。

 いちいち調べる時間もないし、大して変わらないものだと認識している。


「菜穂、もうそろそろ起きないと、幼稚園に間に合わないよ」


 2LDKの団地住まいの僕の家は、お世辞にも大きい家とは言えない。

 LDKのキッチンだけは大きく見えるし過ごしやすくて、そこから繋がって見える襖の先には、今も娘の菜穂が寝ているであろう八畳分の畳の部屋がある。


 トイレと風呂は別、更には廊下を少し行くと四畳半の一間。これで全部。

 でも、家族三人で過ごすには十分すぎる広さだったし、二人になってしまった今ではもてあそんでしまう程だ。


 江菜子と離婚してから二週間、僕は以前の生活を取り戻そうと必死に頑張っていた。

 毎日の洗濯に料理に掃除に……無論、会社も毎日通勤している。

 

 結婚の時は冠婚葬祭として特別休暇をくれたけど、離婚でくれるはずもない。

 江菜子が居なくなったというだけで、僕と菜穂の生活は何も変わっていないのだ。


 朝日が入る眩しいキッチンで、テレビの音だけを耳にしながらもせこせこと動く。

 それで気づくのだ、いつも賑やかな菜穂の姿が、未だにリビングにないという事に。


「あれ、声かけたのに……まだ寝てるのかな?」


 気構えだけでもと着用したエプロンを紐解いて、とたとたと八畳間へと足を運ぶ。

 僕が起きた時に菜穂を起こさない様にと、閉じてあった襖。

 勢いよくそれを開けると、薄暗かった室内に一気に光が差し込んだ。


 まだ夢見心地だったのかな。

 菜穂は眩しそうに眉間にシワを寄せる。


「……ねみゅ」


 温かなな毛布にくるまったまま一言だけ言葉を発すると、菜穂はもぞもぞと布団を手繰り寄せて再度眠りの世界へと旅立とうしていた。

 このまま寝かせたらさぞかし菜穂は幸せなのかとも考えたけど、そういう訳にもいかない。

 近寄って四つん這いになり、もちもちしたほっぺに指をつんつんしながら、優しく語りかける。

 

「ほら菜穂、幼稚園いかないと、お友達も待ってるよ?」

「よういえん? …………ぱぱ」

「菜穂、おはよう」

「……おあようごじゃい、ましゅ」


 布団にくるまっている菜穂を見ると、なんだかおくるみに包まれていた赤ちゃんの時を思い出してしまう。

 あの頃も可愛かったけど、今もやっぱり可愛い。

 目に入れても痛くないほど可愛いという言葉は、実に素晴らしい比喩だと思う。


「うん、おはよう、もう起きようね」

「ぱぱ……なほ、いっぱいねたね」


 にま~とした笑顔を見せられてしまうと、思わず僕も笑顔になってしまう。

 こんなに可愛い娘を捨てて居なくなるなんて、僕には死んでも出来そうにない。


 江菜子はどうして菜穂を捨ててまで他の男の所に……って、それどころじゃなかった、もう時間がなかったんだった。もう七時五十分じゃないか、ご飯もまだだし、お弁当もまだ終わってないのに、目の前にはお目覚め頭大爆発の菜穂が相も変わらず可愛い笑顔を……って、寝てる!?


 四歳児に自立を促すのは、正直難しいのかもしれない。

 出来ることからお願いしようとは思うけど、それはほとんどないのかも。

 もうしょうがないからと寝たままの菜穂を抱っこして、無理矢理に洗面台の前に。


「よし、では菜穂さん。まずはお顔を洗ってきてください。終わったら朝ご飯ですからね」

「……ねみゅ」

「ほらお水ぱっぱっぱ」

「う~、ぱぱ、つめたいお」

「お顔洗わないと、可愛いが汚くなっちゃうよ?」

「きたないの、やら。……ねぇぱぱ、なほ、くえーぷたえたいな」

「え? クレープ? さすがに朝からクレープは用意してないな。そうだね、今度お休みの時に食べに行こうか」

「うん! やった! くえーぷ!」


 江菜子は朝からクレープを食べさせていたのだろうか? いや、流石にそれはないか。

 スイッチが入った菜穂は、小さな手で蛇口から出る水を掬うと、勢いよく自らの顔にぶちまける。

 辺り一面が水浸しだ、でも、菜穂は満足気ににっこにこの百点満点の笑みで僕を見るのだ。

 

「ぱぱ、あらったよ?」

「ははは……そうだね。綺麗になっ……あ、いけない! 目玉焼き放置してた!」


 菜穂の顔をタオルで拭き、そのタオルで床も拭く。

 江菜子が見てたら『雑巾とタオルは使い分けて!』って怒りそうだ。


「ぱぱ! おうちもえちゃう!」

「ええ!? わかったわかった、すぐに行くから!」


 菜穂の叫びと共にリビングに向かうと、フライパンの上で炭クズになりかけの目玉焼きの姿が。

 ひっくり返してみると裏面はもっと酷い事になっていて、お焦げ美味しいね! ってちょっとぐらいの焦げなら食べる僕でも、とてもじゃないけどこれは食べられない。


「めあまやきさん、ばいばい」


 さすがに真っ黒クロスケを食べさせる訳にはいかない。

 目玉焼きとはサヨナラして、残してあったハムを少し焼いて食卓に。

 コンビニで購入してあった漬物とハム、それと白米で朝ごはんはフィニッシュだ。


「なほ、はむしゅき」


 こんなのでも喜んでくれるのだから、いつかはしっかりとした料理を学んで、菜穂には良い物を食べさせてあげたい。

 でもね、今のパパの腕前じゃ、お弁当箱に冷凍食品とサラダスティックをぶつ切りにしたお野菜しか入れられないの。ごめんね、菜穂。


「こんな感じで大丈夫……かな。よし、お弁当かんせーい!」

「かんしぇーい!」


 ようやく完成したお弁当を菜穂の保冷バッグに詰め込んで、他にはスプーンとコップ、歯ブラシのセットもちゃんと入れないと。

 ああ、あとハンカチだ、確か昨日アイロンかけたよな? どこだっけ、畳の部屋かな? 

 

「ぱぱ、こえ」


 足元を見ると、菜穂がにこにこしながらハンカチを持っているじゃないか。

 ぎゅーって抱きしめると、菜穂も両手両足をジタバタさせながら喜び舞い踊る。

 

「菜穂、ありがとう、ぱぱ助かっちゃった。すっかりお姉さんだね」

「なほ、おねえさん! きゃはは!」

「いつかは偉くなって博士とか呼ばれちゃうのかな、菜穂は何でも出来る凄い子だもんね」

「うん、なほ、なんええきるお!」


 バカ親かな? でも、菜穂は可愛いしお利巧さんだから、将来は本当に偉くなってるかも。

 そこまでの事は望んでいない、ただ、普通に人を愛して裏切らない子になってくれれば、僕はそれでいいと思っている。

 僕みたいに、鈍感で妻のSOSにも気づかない様な、バカな男にだけは引っかかってくれるなよ。


 菜穂の頭を撫でていると、満足したのか菜穂はとてとてと歩き出し、またキッチンの椅子へと座ってしまった。

 そしてその手には子供用のフォークが握られていて、菜穂はハムを小さなお口へと運ぶ。


「……え? 菜穂、まだご飯食べるの?」

「うん、なほ、まらこはんたえうの」


 大好きなものは長く味わいたいというのは、僕も同じだから理解できる。

 だからってこんな時まで、ハムを一生懸命はむはむするのはどうかと。


「なほ、はむしゅき」

「分かったから、もうおしまいね」

「はむ……しゅき」

「うん、夜もハムにしようね」

「ようも!?」


 また食べられると分かると、菜穂はそれまで一口数ミリで食べていたハムを、二口で平らげてしまった。最初からこうやって食べてくれればいいのにと思いながらも、まだ四歳だし、何より可愛いし。


 さてさて、次は普段着の上に白茶しらちゃ色の園服を着せないと。

 襟の部分と袖口、ポケット口などは濃い茶色になっている、可愛い園服だ。


 こんな小さい袖口に腕が通るの? ってぐらい細い袖に菜穂の腕を通して、ボタンを三つ。

 後は園帽をかぶせれば終わりなんだけど……その前に、大事な仕事がある。

 僕の一番苦手なもの、それは菜穂の髪の毛を縛るという作業だ。

 

「菜穂、痛くない? 大丈夫?」

「へーきらよ。なほ、きもちい」

「そ、そっか……あれ? でも、上手くいかないなぁ」


 菜穂の髪は一本一本がとても細い、そのせいかゴムで留めようとしても全然留まらなくて、ようやく結んだとしてもスルリと抜け落ちてしまうのだ。江菜子はこんな髪でもきちっと結んでたけど……どうやって留めてたんだろう。

 

「ぱぱ、きょうもえきないね」

「そうだね、ダメなパパでごめんね、菜穂」


 本当ならきっちりと三つ編みにしたいのだろう。

 菜穂は幼稚園に行くときはいつも三つ編みにしていたから。


 でも、今は後ろで一本にして輪ゴムで縛るだけ。

 髪の毛を三つ編みにするのも、今度練習しないとだ。

 いま何時だろう? と、目を上げると、ふと、冷蔵庫に張られたカレンダーが視界に入った。 


「赤く丸が付いた日……あ、そっか、今日はゴミの日か! でももう時間がないし、急いだら危ないし。いいや、菜穂、出発するよ」

「ごい、しゅてないの?」

「また今度ね、幼稚園、遅刻したら悲しいでしょ?」

「なほ、よういえんしゅき」


 菜穂は幼稚園の先生が大好き。

 それは離婚前から何度か江菜子から聞いていたけど、具体的な内容は知らないままだった。

 でも、この数日で、菜穂の幼稚園が好きな理由の一つは知る事が出来た。


「おはようございます、高野崎です」

「しょうこてんてー! おあよーございましゅ!」


 楓原かえではら幼稚園の正門に到着する頃には、幼稚園バスも既に戻っている八時二十五分を過ぎてしまっていた。遅刻ギリギリでも、笑顔で菜穂を受け入れてくれる先生方には感謝しかない。


 特に、エプロンに動きやすいジャージを着用した幼稚園の先生。

 菜穂の幼稚園が大好きな理由の一つ。

 向井むかい祥子しょうこ先生、菜穂のクラスでもある竹組の先生だ。


 向井先生は黒くて長い髪を後ろでひとまとめにしつつも、前髪は七三に分けて垂らす髪型をしていて、もとより小顔なのに、ヘアスタイルのせいで更に顔が小さく見える可愛い系の女性だ。それに愛嬌のある笑顔に、澄んだ瞳、子供たちから好かれそうな要素が全部詰め込まれた、とても素敵な幼稚園の先生さんでもある。 


「おはようございます菜穂ちゃん、菜穂ちゃんのお父さん。菜穂ちゃんの髪型、今日はどうします?」

「すいません、僕にはどうにも出来そうにありませんので……お願いします」

「いいですよ、お父さん一人じゃ大変でしょうし。じゃあ今日はどういう髪型にしよっか?」

「なほ、いつもの!」

「あはは、分かったよー、じゃあ三つ編みにしておきますね」


 向井先生はエプロンのポケットから小さい輪ゴムを取り出すと、器用に菜穂の髪を三つ編みにして、びしっと留めてしまった。

 とても早業で、僕が間近で見ててもどんな風に指が動いていたのか、はっきりと認識することができないほどに、早い。


「凄いですね、僕じゃどうやっても留まらないのに」

「あはは、結構髪の毛ってぎゅうぎゅうにしないと緩くなっちゃうんですよね。私も髪の毛しばってますけど、思った以上に引っ張っても痛くなかったりするんです」

「そういうものなのですか……いや、確かに僕はあまり強くは出来ないですね」

「それだけ優しいって事でしょうけど。お時間、大丈夫ですか?」


 時間? 最近は菜穂にぶつからない様に腕時計もしてないから、時間を見るのにスマホを見ないといけないんだけど……え、八時四十分!? 


「ご、ごめんなさい! 菜穂のこと宜しくお願いします!」

「いいですよ、ほら菜穂ちゃんも、お父さんにいってらっしゃいしようね」

「ぱぱ、いてらしゃいまてー!」

「菜穂ちゃん、いってらっしゃい、ね」


 手を振る菜穂と一緒に、僕に向けて手を振ってくれる向井先生が一瞬だけ江菜子に見えてしまって。

 まだまだなんだなって胸の痛みに気付きながら、会社に向けて自転車のペダルへと力を込めた。 

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