第8話(完結)
コンビニから出て、20分ほど時間が経った。前の信号を曲がる前に視界の端にパトカーの赤ランプが見え、思わず視線をそらした。スピードが出過ぎていなければ、ライトが切れていなければ呼び止められることはない。ゆっくりと呼吸をした。またひとつため息をついた。
わたしを走らせているのはストレスだった。人の目を盗んでトイレへ行くのも、酒を飲むのも、そして今の状況もおそらくストレスの産物だった。毎日不特定多数から受け取る暴力的なかたまりを、わたしはその身にとどめてはおけなかった。けれどだからといって、日常で誰かにぶつけることもしなかった。
――もしかしたら車で、最悪の形で誰かにぶつけていたかもしれない――
脳裏に浮かぶその言葉を、何度も思い出して嫌になっては、どこかそれを仕方無く思う気持ちが勝って日々を生きていた。
夏には水気があった。それが心地よかった。夜の蒸し暑さは心地よさを加速させる。汗をかけば、夜に溶けていられた。ストレスは水溶性なのかもしれない。わたしは夜に溶けていることで、この形をギリギリ保っていられる気がした。
目的地のスーパー銭湯が見える。夜な夜な車を走らせて最後に行く場所は、いつも決まっていた。
扇風機の風を感じながら、ロッカーの扉を締めた。無機質な音が響いて、空になってきた胃が揺れた感じがした。駐車場から建物に入るとき、入り口でたむろしていた数人に声をかけられた。派手なスウェットを着た男女だった。何か言われているのは分かるが、内容がよくわからない。笑顔で適当な返答をすると、男が少し怒ったような調子でまた何か言葉を返してきた。仕方がないので「さっさと家帰りな!」と怒鳴って、足早に通り抜けた。鼓動がまだ早い。大げさな行動を取ってしまったあとの妙な高揚感が続いていた。鍵を腕につける。タオルで身体を覆う。ここは一日の終わりに訪れる、最後の水槽だった。
シャワーを浴びて、屋内サウナで数分テレビを見る。芸人が理不尽なロケにただ耐える番組をやっていた。コンビのうち身体の大きな方が憂き目にあっては笑顔で場を持たせている。この人は何を対価に状況に向き合っているのだろう。もう先輩やめてくださいよー、ハハ、と流れてくる声を聞いて表情を見ると、少しだけ口元が歪んでいるように見えた。そうだよな、とひとりで呟いて席を立ち、水風呂へ向かった。18.7℃の水風呂は、ほてりを冷ますには少し水温が足りなかった。
天井のオレンジの灯りが見える。少し眠っていたようだ。床が硬いので肩周りが凝ったらしい。周りを見渡しながら上体を起こしてストレッチをした。骨の音が鈍く「ゴッ」と鳴り、んんっ、と声が出た。暑い。ここには屋外にもサウナがあり、この時間帯はほとんど人が入ってこない。いつものようにその中でくつろいでいるうちに、うたた寝をした。そろそろかな。汗の光る身体をまだ半分程度乾いているタオルで拭く。いつもタオルは少し長めのものを持ってきていた。布と胸元が擦れて、すこし吐息が漏れた。ほどよく暑い。
何分くらい経っただろうか。足元から頭の先までが湯に浸かるよりも熱い。今日一日の、ここ数日の出来事がシャッフルされて頭の中を駆け巡る。毎日来るクレームの電話、上司に媚びて責任をなすりつける同僚、脱衣場の扇風機の気持ちの良い風、コンビニでの騒ぎ、トイレで自分の身体に耽る間清掃員に気づかれそうになったこと、暑い空間、滴る脂汗、指が乳首を擦った。「あ」。擦る。声を我慢する。ここには誰もいない。また少し眠ってしまった後、小さな空間で心を湿らせはじめていた。集中するために顔にもタオルがかかるようにおいていた。温まった胸の先の水分を拭ってはくすぐり、右足が攣りそうになるくらいまで我慢していた。トイレよりも後にできた習慣だった。明日になればまた会社へ行く。クレームが来る。周りはクズばかりだ。少しでもここにいる時間を長く感じたい。左手の指でわたしは、いま夜を延ばしている。一番好きな箇所を触る。まぶたがゆらりと痺れている。あ。わ。う。
「わ。」
ここには誰もいない。誰もいないはずだった。空間自体が冷や汗に震えるような瞬間だった。わたしの左手を誰かが握り、身体から離した。少し冷えたなめらかな指が、わたしの大好きなところをおさえている。顔は見えない。気が付かなかった。あ、
「……。――。」
その誰かの言葉は何も聞き取ることができなかったし、その後のことはあまり覚えていない。やっぱりあの日はレモンサワーを飲みすぎたのだと思う。二週間後同じように酒を飲み、国道を走ると、あのコンビニはすでに潰れて次のお店の開店準備が始まっていた。(了)
水槽と眼 ミナベシオリ @minabe3
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