エピローグ
誤解を恐れずに言うならば、愛とは、徳や風習、神や世間体しか気にしない者には、その本質がわからないものだと思う。
山月は、何カ月ぶりかに戻ってきた東京メトロのラッシュを味わいながらも、空虚でいた。
もはや、生きる意味すら無いのかと思うほど、生き続ける意味を考えあぐねている。昨晩書いた辞表は、ポケットに入れていると落としてしまいそうで、ギュッと右手で握りしめている。
ナインが死んだ日、メールで相田に報告すると、任務終了だという簡潔な返事が返ってきた。
迎えの船は三日後に来た。
それに相田は乗っておらず、帰還の途にある間、山月は、ずっとメランコリーという湖の淵にいるような気分だった。
有楽町線の桜田門駅を出て、警視庁本庁舎の前を通り過ぎる。
かつて、通っていたマンションに入り、エレベータのボタンを押した。
特務警官の事務所には、相変わらず、向かい合わせにデスクが並べてあった。どちらの上にも、ほこりが被っている。
山月は、素手でほこりを払い落し、綺麗になった机の上の中心に、辞表を置いた。
強く握っていたせいで、辞表は、しわくちゃだった。
「久しぶりだな、山月」
山月が振り返ると、いつのまにか、部屋の入口に相田が立っていた。
「島での傷は癒えたのか?」
「あ、それは……はい」
相田は、机の上の辞表に手を伸ばした。
「なんだ、辞めるのか?」
「あ、す……すいません……。いろいろ考えたのですが……」
「それは、こまるなぁ。九にも辞められてしまったし、特務警官が誰もいなくなってしまう。まだまだ、特刑を執行してほしい犯罪者がいるんだが」
「すみません、でも、もう決めてしまったんです」
「特務警官の給料が足りないのか? いくら欲しいんだ?」
「お金の問題じゃないんです。気持ちです……。もう、気持ちが続かないんです。いろいろありすぎて……」
「コードネーム・ナインのことか?」
山月は、視線を落とした。眼光の鋭い相田の目を凝視できなかった。
ナインのことを話題にしたくない。
思い出したくも無いし、他人に語られるのも気に喰わない。
「まあいい。決めたのなら、しょうがない。諦めるしかないか……」
相田は、察したのか、それ以上、ナインのことに触れなかった。
山月は、玄関で靴を履くと、部屋を出る前に、相田の方を向いた。
「横須賀港で起きた、レジャーボートが炎上した事故。あれ、甲賀衆が、孤島に向かおうとして準備したボートだったらしいですね」
「な、なんだ、急に? まぁ、そうらしいな……」
「あのボートに、火を点けたのは、相田さんですか?」
相田は、肯定も否定もせず、黙っている。
「甲賀衆が、警戒する中、火を放つなんて、普通の人間の仕業じゃないです」
山月は、わずかな変化も見逃すまいと、相田を凝視した。しかし、相田は、相変わらず、表情を変えないでいた。
「警視総監……あなたも忍者ですか?」
「ははは。だとしたら?」
「いえ、だから、どうとかは、ないです。私には、もう、関係無いことですし。ただ、色々考えてみたら、そうだったのかなって、思っただけです。興味があっただけです。すみません」
相田は、背筋をピンと伸ばし、一歩二歩と、山月の方に近寄ってくる。
「忍術を極めれば、警視総監にだって、総理大臣にだって、なれる。がんばれよ、山月」
相田は、白い歯を見せて、山月の背中を押した。
山月が桜田門駅に向かう途中、ビルの前の茂みがゆれた。
その奥に、大型犬のように垂れた耳が見えた。
ヘッドギアをしたそれは、ガサガサと奥の方に入っていく。
山月は、茂みをかき分けて中を覗きこんだ。が、すでに、気配を感じなくなっていた。
いつの間にか、茂みの揺れも止んでいた。
END
コードネーム・ナインの正体 おふとあさひ @ytype
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