3

 二人で飲む時は、個室を用意する。事故の加害者と被害者家族の会話だ。聞こえてきたら、興味を持つなという方が無理だろう。建前は聞き耳をたてられるのも落ち着かないからで、本音は、静かに先崎さんの顔を見たいから。

 世間から見たら薄情だろうけど、僕にとって姉の事故は過去のことで、とっくに過ぎ去ったことだ。事故にまつわるごたごたがあらかた片付いた後、僕はすぐに日常に戻った。過去にとらわれているのは先崎さんただ一人。あれからもう、四年が経ったのだ。

 先崎さんは酒に弱い。出会いたての頃は姉のことを思い出すから、と手を付けなかったけれど、やっと最近は少し手をつけてくれるようになった。

 ビール一杯でもほんのりと染まる。その様子を見るのが僕は好きだ。

 それを艶っぽいと思うのは僕がこの人を好きなせいだろうか。元々肌の色が白いので、酒がまわると内側から血の色が透けて見える。どこかぼんやりと生きている先崎さんの内側に、きちんとあたたかな血が流れているのを感じられる。

 話題がいつも死者のせいだから、そんなことすら嬉しいのだ。

 きちんと食べているのかどうかも怪しいので、唐揚げや串焼きなんかをタッチパネルで注文しながら静かにコップに口をつける先崎さんを盗み見る。

 コップの縁に遠慮がちに口を付けている、いつもより血色の良い唇に触れたいという感情が湧いてくる。

 ―― キスをしたい。

 男なんだからそういう感情が湧いてくるのは当たり前、という考えと、こんなことを考えてると知ったら先崎さんは気持ちが悪いと思うだろうかという不安をない交ぜにしながら視線を外せない。

「久瀬君は……」

 アルコールで少しぼんやりした視線でこちらを見ながら、先崎さんが少し微笑む。自分に向けられた笑顔に心が緩むのを感じながら、僕もコップをとってビールを口に含む。

「顔ももちろん似ているんだけど、見ていると時々あぁ、やっぱり姉弟なんだなって思うよね」

 先崎さんの言葉に、今、浮き上がった気持ちがすぅっと冷えていった。

 なんだ、そうか。さっきのは僕を見て笑ってくれたんじゃないのか。

 勘違い……か。

 コップを持つ指先が震えた。同じ遺伝子を持つ僕の顔を見て、先崎さんは姉を見ている。

「似てますか?」

「うん。どことなく」

 だったら、死んだ人間じゃなくて僕でもいいじゃないですか、という言葉を酒と一緒に飲み込む。

 普段なら、僕が姉のことを良く思っていないことを知っている先崎さんはこんなことは言わない。酔っているのだろう。空きっ腹に酒を入れたのかも知れない。口調はいつも道理丁寧で穏やかだけれど、呂律が怪しい感じもする。まだビール一杯しか飲んでいないのに。

「久瀬さんと、話の間の取り方とか、そういうのが似てる」

 僕は姉と会話した記憶がほとんどない。

 そういうのは親のクセみたいなものが、うつるのだろうか。こう、似ていると何度も言われると自分を見てもらえない、ということが胸にぐさりとくる。

「なんか、わかりにくいですね」

「何がかな?」

「姉弟だから当たり前ですけど、名字同じなんで」

「あぁ……そうだね」

 ふっと息をついてから意を決してずっと言いたかったことを言ってみる。姉によく似た人間ではなくて、僕を僕として診て貰えるように。

「名前で呼んでもらって良いですか?」

 アルコールで少し濁った目をこちらに先崎さんが向ける。

「伸久君」

 確認するように、丁寧に先崎さんの唇が僕の名前を紡いだ。酔ってはいても、穏やかで落ち着いた声音。名前を覚えていてくれた、それで気持ちが解けていく。張り合ってもどうしようもないのに、姉はずっと名字で呼ばれていたことに思い至って少し嬉しくなる。ここまで、四年もかかった。

 姉の先崎さんはどれくらいの時間を一緒に過ごしたのだろう。僕はそれを越えることができるだろうか。

「久瀬さんの名前は、本人の前では一度も口にすることはなかったな。俺の名前を呼んでくれることも一度も無かった」

 同じ事を考えていたようで、先崎さんはそう言うと、また目を伏せてしまう。視線の先にあるのは先ほどから少しずつ減っているビールだ。まだたくさんコップに残っているけれど、つぎ足すと、申し訳なさそうにお辞儀をした。

「触れたことも」

 小さな声で口にして。

「一度だけでした」

 良い思い出というわけではなさそうな、辛そうな声だった。後悔が詰まったようなうめき声のような。

「あの、事故の日です」

 先崎さんが縮こまるように俯く。その様子から、まだあの日のことで聞いていないことがあったのか、と少し居住まいを正す。握り締めているのは居酒屋のコップなのに、その姿はまるで教会で懺悔をして祈りを捧げる人のようだった。

「車から飛び出した姉を助けようとしたことは聞いてます」

 割れたフロントガラスから飛び出した姉が、崖を転がり落ちて川に転落したことは聞いている。頭を強く打ち、意識を失ったまま全身を強く岩肌に打ち付けたことも。誰かに助けられるような状態ではなかった。先崎さんは、シートベルトをしていたこともあり、開いたエアバッグと潰れた車体の間に挟まって骨を折り、あちこちに打撲を負ったものの一命を取り留めた。彼が重傷の身体を引きずりながら、姉を川から引き上げてくれたから、遺体がまだまともな状態だった、と警察も言っていた。両親はむしろ感謝をしているだろう。少なくても棺から見える顔は綺麗だったのだから。雨で川は水かさを増していた。流されていたら遺体が見つかったかどうかさえわからなかったそうだ。

 崖から落ちたせいで事故の目撃者が通報してから、警察が姉と彼を見つけるまでに四時間以上かかっている。

「違います。そうじゃない」

 力なく、先崎さんが首を振る。

「車が崖に落ちた瞬間、気を失ってしまって目が覚めた時は、俺はまだ車の中にいて、なんとか這い出して久瀬さんを見つけた時、これはもうダメなんだとすぐにわかりました」

 姉のスマホが無事だったことで、電話をかけてその音を頼りに先崎さんはすぐに遺体までたどり着いた。遺体がすぐ近くにあったということは、先崎さんが気絶していた時間はごくわずかだろう。

「彼女が俺に興味がないことは分かってました。それでも一度で良いから名前を呼んで欲しかった」

 現実とは思えない光景に、先崎さんが思い浮かべたのは幼い頃に読んだ童話だった。誰でも小さな時に、読み聞かせなどで聞いた話――白雪姫。意地悪な継母によって毒リンゴで眠りについたお姫様は王子様のキスで目を覚ます。

「どうして、それで生き返ると思ったのか」

 そうあって欲しいと思ったから。事故で混乱していたから。

 理由はいろいろあるだろう。

「命が助かるような行為、人工呼吸とかだったら許されたかもしれませんが、俺にそんな心得はないし、たぶん、あの時にはもう無駄だったと思います。首も手もおかしな方向に曲がってました。スマホの灯りだけが頼りでしたから、顔色までは見えなかったけどとても生き返るとは思えなかった。川に浸かったせいでもう冷たくなっていましたし。ただ、俺がそうしたかっただけです。触れたかった。会う度に、そういうことができる関係になりたいと思っていました。いつもそうしたいって考えてました。だけど、思って居ただけです。俺は男としては見られていなかった。それなのに、名前すら呼んだことの無い男に最後にそんなことをされたら彼女にとって屈辱でしょう。だから、きっと俺を地獄で恨んでるんじゃないかって」

 話を聞きながら、僕の腹の中が妙に熱くなっていくのを感じる。ぐるぐると内臓が混ぜられるような不快な感覚。叫びたくなるような気持ち悪さ。

「地獄で久瀬さんに会えたなら、謝りたいと思っています。許しては貰えないと思いますが」

 これは、嫉妬だ。

 同じ思いを、彼に会う度に抱いていた。

 呼んで欲しい。触れたい。キスをしたい。

 全部同じ。先崎さんが姉に向けていた気持ちの強さがわかる。

「わかりますよ、男ですから」

 俯いていた先崎さんが顔を上げる。

「それが好きってことでしょう?」

 はい、と先崎さんが頷く。

「伸久君にもそういう人がいるんですね」

 あなたですよ、と心の中で答える。今、そんな優しい言い方をしてしまったらこの人は二度と会ってはくれないだろう。死んだ人間の罪を被ろうとする人だ。そんな素直なやり方はしない。

「こんな話を遺族の方にしてしまって、申し訳ありません」

「いえ……姉によく似ている僕に話して、謝って少しすっきりしました?」

 ギクリと先崎さんの肩が震える。

 腹の内がぐらぐらと煮えるようで、熱を感じるのは嫉妬による姉への憎悪なのか、酒による酔いのせいなのかわからない。酒は理性を鈍らせる。事故から四年、ずっと苦しんできたんだろう。人は悩みを口にするだけで気が楽になる。ずっとずっと先崎さんは僕を通して姉を見ていた。僕に姉の面影を重ねて懺悔をする誘惑に勝てなかった。姉を見ていたその視線がいつか僕に向くのでは無いかと、期待していたのだ。知っていた。わかっていた。彼は僕を見ていない。

 こちらもそろそろ我慢の限界だったのかもしれない。意地の悪い言い方をしながら、僕は先崎さんの瞳を覗き込んだ。

 俺には、やっぱり、あの傍若無人な女と同じ血が流れている。

「もう、目を覚ました方が良い」

 失態を犯したと思ったのか、呆然とする先崎さんの唇に僕は自分の唇を押し当てた。

 薄い唇はそれでも柔らかく、温かくて、酒の香りがした。

 あなたの想い人は死人だけど、僕の想い人は生きている。

「先崎さんはよく自分は罪人だって言いますけど、姉に断りなくキスをしたのが罪なら、これで僕も同じ罪人です」

 酒に濁った瞳の中で、僕は僕として見られているのか、それとも姉に見えているのだろうか。この人が地獄へ行って姉に遭うというのなら、僕も一緒に行ってやる。やっと買ったパソコンを売り払われたあの時から、二度と自分の物を取られまいと決めた。

 もう一度、顔を近づけて、逃げられないように腕を掴んで、今度はもっと深く、口の中に舌を差し入れる。戸惑いのまま先崎さんは身動きも取れず小さな声をあげただけだった。温かくて、その息使いを感じて嫉妬で荒れた心の内のままに貪る。

 四年前の事故の時、姉とはどんなキスをしたのだろう。

 相手は死体だ。

 姉は彼の中の味は知らない。

「僕の名前、呼んでください」

 息が乱れたまま、追い込むように先崎さんを押し倒してのしかかりながらお願いする。

 呼んで欲しいともう一度頼む。

「……伸久君?」

 理解が追いついていないようで、どこか自信のなさそうな声だがそれでも名前を呼ばれるのは嬉しい。

「罪を償いたいっていうなら、あなたが姉にして欲しかったことを全部僕に返してください」

 先崎さんが姉への想いを語る度に、それはそのまま僕が抱く気持ちとなのだという気持ちに苛まれた。死者となった姉は先崎さんの中で神聖なものへとなりつつある。だけど、アイツはそんなものじゃない。

「あなたが四年前の事故で口にしたのは毒リンゴで、姉は悪い魔女だった。そう思えばいい」

「何を言って……」

 反論をキスでもみ消すと先崎さんが小さく震えた。

 キスで目を覚まさなければいけないのは、先崎さん、あなただ。

「呼んで欲しかった、触れたかった、僕はすっとこうしたかった」

 さきほど先崎さんが言った台詞をそっくりそのまま繰り返す。

 繊細そうな頬に触れ、抱きしめながら耳元に唇を押し当てる。

 大丈夫、彼には姉や僕ら家族に対する罪悪感を抱えている。そしてまだ姉に未練がある。それをほのめかしながら、側に居て欲しいと言えば逃げ出したりはしない。彼は真面目だ。

 僕は物心ついてから初めて姉に似ていることに感謝をした。相手の利より自分の欲を優先させることができるその我の強さの部分を。嫌いだったこの顔も充分な利用価値がある。

「あなたを、幸せにするのは姉じゃありません。僕だったんですよ。わからないなら、何度だって目覚めのキスをしてあげます」

 想いを込めて、彼の耳元で囁いた。

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裏返しの想いと反転のキス うたこ @utako0426

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