そして、6月21日

 香苗さんと一週間暮らしていて、分かったことがある。

 香苗さんは好きなものを後で食べるタイプ、香苗さんはテレビに返事をしてしまう、香苗さんのお風呂は長い。

 一緒に暮らしてみると、彼女のことがだんだん見えてきた。

 話せばやはり変な人で、しかも今は修司さんを失って錯乱気味だから、いつも異常に変だ。でも、私生活が妙に人間くさい。ミステリアスな彼女の性格と、やけに現実感のある生活が、アンバランスなところでバランスを取って固定されているような、奇妙な感覚に陥った。

 香苗さんと一週間暮らしていて分かったことは、もうひとつある。

 ホルムアルデヒドの刺激臭は、慣れてしまえば案外馴染んでしまうということだ。

 いや、本来は平気なわけがない。きっと私が異常なのだろう。

「早紀ちゃん……?」

 金魚鉢に囲まれた部屋に、美しい顔をした香苗さんが座り込んでいる。なんて幻想的な光景だろう。

 ぽかんとする顔もきれいで、私は少し、笑ってしまった。

「嘘をついてごめんなさい。今日は本当は、授業はなくて。でもちょっとだけ研究室が開く時間があったから、そのタイミングを狙って学校へ行ってきたんです」

 話す私を見上げて、香苗さんが口を半開きにしている。私はその彫刻みたいな顔を見下ろしていた。

「修司さんは、金魚になってしまったのではありません」

 日差しが、カーテンの隙間から金魚鉢を煌めかせる。

「あなたが殺して、ばらばらにしてしまったんです」


 無数の金魚鉢の中には、白い影が浮かんでいた。ホルマリン漬けにされた人の皮膚は、少し黄ばんだ、白になる。

 十倍に希釈されたホルムアルデヒドが満たされた金魚鉢に、金魚ほどの大きさまで細かく切断された修司さんの体の一部が、ひとつずつ、閉じ込められている。細かくなっている分、それだけたくさんの金魚鉢が部屋を埋め尽くしている。


「なにを、言ってるの?」

 香苗さんが、花びらのような唇を開いた。

「私が修司さんを殺すわけ……」

「殺してるじゃないですか。目を覚ましてくださいよ」

 香苗さんと暮らす前から、分かっていたことがある。

 香苗さんは、思いどおりにならないことがあると怒り狂う。だから、私はなにも不自然には思わなかった。

 香苗さんが修司さんの浮気に気づいたら、きっと彼を殺してしまうだろう。修司さんの生前から、私にはそんな予想ができていた。

 まあ、まさかこんなに丁寧に小さくして、金魚鉢でホルマリン漬けにするとまでは思わなかったけれど。

「ねえ香苗さん。私が香苗さんと一緒にここで暮らすと決めた日、覚えてますか」

 私は彼女の前にしゃがみ、青白い香苗さんの顔を覗き込んだ。香苗さんが大きな目で私を見つめ返す。

「ええ。修司さんの件、一緒に解決しようって言ってくれたわね」

「言いましたね。でもそれ、建前なんですよ」

 金魚になった修司さんを元に戻すなんて、もちろん嘘だ。半狂乱になっていた香苗さんに合わせた、その場の建前にすぎない。

 香苗さんが細い喉を震わせる。

「……私を、独りにしないとも、言ってくれたわね」

「そうですね。独りにしたら、なにをするか分かりませんから」

 おかしくなってしまった彼女を見守るために、傍にいる必要があった。といっても、「心配だから」というのは、やはりこれも建前である。

 私の嫌いな香苗さんとの同居を決めた、本当の目的は。

「あなたを、楽に死なせないためですよ」

 警察が修司さんの一件でこの部屋を訪れて、そして部屋の中を見れば、香苗さんは捕まる。その前に、香苗さんが自殺するかもしれない。

 そうさせないため、私には香苗さんを見張る必要があった。

「香苗さんさえいなければ、修司さんは私を選んでたんです」

 実際、彼の心はとっくに私に傾いていた。香苗さんの目を盗んでメールや電話をしてきていた。「香苗さんと別れたい」と話していた日だってあった。

 あと少しで、修司さんは私のものになるはずだった。

 それなのに、香苗さんは、修司さんをばらばらの「金魚」にしてしまったのだから。

「でね、やっと手に入れたんですよ。これ」

 私は手に持った瓶を、香苗さんの顔の前に突きつけた。

「ホルムアルデヒド。ここのところずっと研究室に教授がいてなかなか上手く持ち出せなかったんですけどね。一週間ねばって、ようやく手に入れました」

 蓋を開けると、目が痛くなる程の刺激が空気の中に溶けだした。でも、蓋のないホルマリン漬けだらけの部屋で過ごし続けていれば、こんなのは慣れたものである。

「あなたのそのきれいな顔のせいで、私と修司さんは結ばれなかったんです」

 だからずっと、その花のかんばせが気に食わなかった。

「早紀ちゃ……っ!」

 私の名前を呼んだ唇は、あっという間に塞がれた。

 私がひっくり返した瓶の口から、劇薬が流れ出し、彼女の顔に垂れていく。美しい白い皮膚はみるみるうちに焼け爛れ、喉まで溶けだし、悲鳴さえも奪った。

 人の皮膚が焼けるにおいというものには、身体じゅうが拒否反応を起こした。加えて、薬品の刺激臭だ。僅かに跳ねたホルムアルデヒドが私の腕にまで飛び、その水滴に皮膚が焼かれる。

 それでも、私の心は満たされて陶酔していた。

 香苗さんを楽に死なせないため。それさえも、口実に過ぎない。

 私の本当の、本当に本当の、この家で暮らす理由は。

 私は瓶を床に捨て、金魚鉢の中で浸される白い手に微笑みかけた。

「やっとふたりきりになれそうですね、修司さん」

 たとえ、ばらばらになってホルマリン漬けになっていても、私の愛しいあなたに変わりない。

「これからは、ずっと一緒に暮らしましょうね」

 晴れた初夏の光が、部屋を淡く、白く、包んでいる。この部屋の中の美しい愛は、永遠に腐敗しないだろう。

 金魚鉢に顔を寄せ、私は小さな吐息を漏らした。ガラスが僅かに曇る。そこにそっと、口づけを落とした。

「愛してる」

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白い金魚とあなたと私 植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売& @sui-uehara

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