6月13日、夜

「香苗……!? なにをしてるんだ!?」

 仕事から帰ってきた修司さんが、大きな声を出した。

「なにって……」

「俺の金魚になにをするんだ!」

 修司さんが私の手首を掴み、握っていた瓶を奪い取った。

「ホルムアルデヒド!? これを金魚鉢に入れようとしたのか」

 取られてしまった。折角、早紀ちゃんに持ってきてもらったのに……。

「だってあなた、金魚を買ってから、金魚に餌をやるようになったんだもの……」

「なにを言ってるんだ。当たり前だろう、生き物なんだから餌をやる」

「魚なんかより、私の話を聞いてよ!」

 私が声を大きくすると、修司さんも怒鳴り返した。

「魚『なんか』とはなんだよ!」

「私は金魚以下なの!?」

「そうは言ってないだろ!」

「金魚がいなかった頃は、あなたが餌やりをしている数秒間だって、私のものだった!」

 こんな小さな魚なんかに、私の修司さんを一秒でも奪われることが、悔しくてならない。

「でも、この金魚が美しいのは分かる。だから、ホルマリン漬けにしたらいいと思ったの。そうしたら腐らずにずっと美しいままで、餌をやる手間もないでしょう?」

 だから早紀ちゃんに頼んで、ホルマリンの原液、ホルムアルデヒドを持ってきてもらったのだ。

 私の名案を聞いて、修司さんは唖然としていた。

「なにを言ってるんだ……? 元々変わった女だったが……」

「私、知ってるんだから」

 私は、ぐっと奥歯を噛んだ。

「知ってるのよ、修司さんが私以外の女と連絡取り合ってるの!」

「なっ!?」

 修司さんの顔色が、目に見えて変わった。

「眠っているふりをしていたときに、聞いたの。あなた誰か、別の人と電話してたわよね」

「それは……」

「修司さんの愛は冷めていたのね。金魚を飼いはじめたのも、もう私と過ごす時間に意義を感じてないからなんだわ!」

「香苗! 話を聞け!」

 修司さんが金魚鉢の横に瓶を置いた。

「香苗がそんなだから、俺も疲れるんだよ。もう限界なんだ」

 口から零れ出すように吐かれたその言葉で、私は確信した。

「やっぱり、もう私を、愛してないのね」

 修司さんが口篭る。

 なんとなく、分かっていた。私は他の人と、少し違う。会話が上手くできなかったり、ズレているところがあるのは、自覚していた。それでも修司さんが私を愛してくれたのは、ただ、私の顔が好きだっただけ。私の顔に飽きたら、あとは面倒な女でしかない。

「それでも私は、修司さんを愛してるの」

 声とともに、涙が零れ落ちた。

「修司さんとの愛も、ホルマリン漬けにしてずっと美しく、ずっと腐らなかったら、よかった、のに」

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