6月13日、そして、14日
香苗さんから私のところにメールが来たのは、雨が何日も続いていた水曜日だった。
『早紀ちゃんへ。急ぎでホルムアルデヒドが欲しいの。大学の研究室にあるものを、持ってきてもらえるかしら?』
正直言って、私は香苗さんが苦手だ。
話してみればいい人ではあるのだが、どこか変わっていて、ちょっと噛み合わないことが多い。ふわふわしていてなにを考えているのかよく分からないのに、美人だから男にモテる。ただの変人でも、外見がきれいならミステリアスに映る……それがなんだか、癪に障るのだ。
大学を卒業した香苗さんは、修司さんと同棲している。私が呼び出されたのは、そのふたりの愛の巣だった。
在学中である私なら、薬品をこっそり持ち出せる。なぜホルムアルデヒドが必要なのかまでは聞かなかったが、なんとなく察しがついた。
修司さんは、魚の研究をしていた。大学では観賞魚の標本を作っていた。標本に使用するホルマリンは、ホルムアルデヒドを希釈した水溶液だ。だから香苗さんが私にホルムアルデヒドを持ち出させたのは、多分、修司さんの指示だ。卒業した今でも、新たに標本を作ろうとしているのだろう。
学校の備品の持ち出しは違反とされていたが、よくしてくれた先輩が急いでいるのである。私はそっと、研究室にあったホルムアルデヒドの瓶を持って、ふたりの住むアパートに向かった。
インターホンを鳴らすと、香苗さんが私を出迎えてくれた。
「ありがとう早紀ちゃん。助かったわ」
「新しく標本作るんですか? 珍しい魚でも手に入れたんですか」
玄関先で、世間話程度に尋ねてみる。香苗さんは瓶を受け取りながら微笑んだ。
「珍しいものではないと思うんだけどね。修司さんが、白い金魚を買ったのよ」
「へえ……」
金魚はペットではなく、標本用なのか。なんだか違和感を覚えたが、私はそれ以上は突っ込まなかった。香苗さんと話すのはあまり得意ではないし、香苗さんと修司さんのふたりの家という場に、長居したくない。
「それじゃあ早紀ちゃん、気をつけてね。今度お礼にご飯に行きましょう」
「あ、はい。ありがとうございます」
玄関先なのに、居心地が悪い。
私はぺこっと会釈して、その場を後にした。
その夜、私は修司さんにメールをした。白い金魚の話を振った。写真でも送ってくれないかと、そんな内容である。
しかし、彼からの返事はなかった。
「修司さん……?」
今までこんなことはなかった。まめな性格の修司さんは、すぐに返事をくれるのが常なのだ。思わず修司さんに電話をかけた。でも、応答はない。ただ忙しいだけなのかもしれない。しかしなんだか妙に胸騒ぎがする。
香苗さんにも電話をしてみたが、彼女も出なかった。
香苗さんも出ないとなると、ふたりで過ごしている大事な時間だったのだろうか。私はざわつく胸を一旦抑え、その夜はもう連絡するのはやめた。
その翌日だった。久々に雨が止んで、やけに蒸し暑い日だった。
朝になっても連絡がない修司さんが心配で、朝早くから修司さんのアパートに向かう。
「修司さん! いますか!?」
「あら早紀ちゃん! ちょうどよかった、助けて!」
香苗さんの声が応答する。心臓がばくばくする。なんだろう、この胸騒ぎは。
香苗さんが玄関のドアを開けた。
「困ってたの。助けて。あのね、修司さんが――」
リビングに入るなり最初に襲ってきたのは、喉が焼けるような刺激だった。そして次の瞬間、その強い刺激さえも無にかえるような、圧倒的な景色に、絶句した。
それは無数の金魚鉢と、その中に浮かぶ白い影。
白いカーテンの向こうから、初夏の日差しが差し込んでくる。久しぶりの晴れた空が、部屋の中の金魚鉢にきらきらと光の粒を落とす。
「どうしよう早紀ちゃん。修司さんが、修司さんが金魚になっちゃったの」
香苗さんは混乱していた。その場で膝から崩れ落ち、顔を覆って泣き叫んだ。
「私のせいかしら。私が、彼の大事な金魚に嫉妬なんかしたから。でも違うのよ、私だって金魚はきれいだと思っていたの。貶したつもりはなかったの」
「香苗さん、落ち着いてください……!」
修司さんが金魚に? 意味が分からない。私は子供みたいに泣き喚く香苗さんと、部屋を異様に圧迫するガラスの鉢の両方に狼狽した。
「どうして……!? なんでですか、香苗さん」
「分からない。でも、これが修司さんなのは間違いないわ」
香苗さんは興奮して、話ができない。私は咄嗟に、しゃがんで彼女の肩を抱いた。
「香苗さん、このことは私と香苗さんと修司さんだけの秘密にしましょう」
「えっ……!?」
「だって、こんなの誰にも言えないじゃないですか!」
朝の日差しに満ちた部屋で、ダイヤのような星を宿す、たくさんの金魚鉢。それは私が今までに見たどんな景色より、美しくて、恐ろしかった。
その後、私は香苗さんとゆっくり話をした。お茶を飲んで落ち着かせ、少しずつ彼女の話を聞いた。
分かったのは、昨晩、香苗さんは修司さんと喧嘩をしてしまったということ。そしてその翌朝、修司さんが金魚になってしまったということ。それだけだった。
彼女は何度も何度も、それだけを繰り返す。焦点の合わない目をして、時々涙を流して、嗚咽を洩らして話していた。
彼女の様子を見ていた私は悟った。
「香苗さん、これからしばらく、私もここに住んでもいいですか?」
「一緒に暮らすの……?」
香苗さんが濡れた瞳でまばたきをする。私は小さく頷いた。
「修司さんを元に戻す方法、ふたりで考えましょう」
これは建前だ。不安定になった香苗さんを、ひとりにしておきたくなかった。だから私も、一緒にこの金魚鉢に囲まれた部屋で暮らすことにしたのだ。
香苗さんのことは、苦手だ。
掴みどころのない変わり者で、宇宙と交信しているみたいに不思議な人で、そのくせ美人だから、周りが甘い。欲しいものはあっさりと手に入れる。そんな彼女が、嫌いだ。
でも、いくら元から変わっていたとはいえ、修司さんが金魚になってしまったなんて、ここまでおかしな発言を始めた例はない。よほどショックで、精神が撹乱してしまったのだろう。
「大丈夫ですよ。私がついてます。力を合わせて解決方法を考えましょう。香苗さんを独りになんてさせません」
香苗さんと修司さんがふたりで暮らしていた、この部屋。そこに私が住むというのは、どうにも奇妙だった。香苗さんは少し戸惑っていたが、彼女も縋るように頷いた。
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