白い金魚とあなたと私

植原翠/『浅倉さん、怪異です!』発売

6月21日

 早紀ちゃんは近くの科学大学に通う学生であり、私と恋人の修司さんの後輩にあたる。

「香苗さん、行ってきます」

「ええ、気をつけてね」

 午後から授業だという早紀ちゃんが、玄関で私を振り向く。

「夕飯、私が作りますから。香苗さんは修司さんの様子を見ていてください」

 そうして彼女は、出かけていった。

 部屋に取り残された私は、虚空に向かって呟く。

「早紀ちゃん、ごめんね。気をつかってくれて、ありがとう」

 ぷく、と、金魚鉢の中で小さな気泡が浮かぶ。その中を泳ぐ白く透き通るあなたを振り向いて、私はもう一度、言の葉を投げた。

「本当にいい子よね」

 だけれど、彼はなにもこたえない。ただ微かな泡粒をぷくりぷくりと浮かべて、水の中を漂うだけ。

「ああ、どうして」

 午後の日差しに、水面がきらきら反射する。

「どうしてなの、修司さん」

 どうして、修司さんは金魚になってしまったのだろう。

 事の発端は、一週間前。雨が何日も続いていた、じめじめした水曜日だった。

 その晩、私は修司さんと口喧嘩をした。修司さんが、買ってきた白い金魚に夢中になって私に冷たくしたこと始まりだった。

「魚なんかより、私の話を聞いてよ!」

 思えば、あれは私の子供じみた我が儘だった。私よりも金魚の方が大事にされているような感じがして、私は魚相手に嫉妬していたのだ。

 普段は穏やかで物腰の柔らかい修司さんが、初めて私に対して声を荒らげた。

「魚『なんか』とはなんだよ!」

「私は金魚以下なの!?」

「そうは言ってないだろ!」

 私と修司さんは、同じ大学の同じ生物学部で学んでいた学友だった。三年の終わりに付き合いはじめて、大学卒業以降は彼のアパートで同棲している。

 大学では、修司さんは魚を中心に研究していた。彼は観賞用の熱帯魚や鯉、とりわけ金魚が好きだった。

 あの日買ってきた金魚は、白ワキンという品種のものだった。透き通るような白い鱗に、ほんのり桃色や黄色がかった色味が透けた、それはそれは美しい金魚だった。修司さんはこの美しさに魅了され、私を蔑ろにするほど取り憑かれてしまったのだ。


 そんな喧嘩をした、翌日。

 目を覚ましたら、修司さんはいなかった。代わりに、金魚鉢に白い金魚が増えていて。

「修司さん……? 修司さんなの?」

 私にはすぐに分かった。

 修司さんは、金魚になってしまったのだ。


 早紀ちゃんがやってきたのは、その一時間後だった。

 学部の後輩で、修司さんによく懐いていた早紀ちゃんは、修司さんと連絡が取れないことに気づいて直接訪ねてきたのである。

 そして修司さんが金魚になったと知り、愕然としていた。

「どうして……!? なんでですか、香苗さん」

「分からない。でも、これが修司さんなのは間違いないわ」

 ただそれしか言えなかった私に、早紀ちゃんは戸惑いながらも、強い意志を見せた。

「香苗さん、このことは私と香苗さんと修司さんだけの秘密にしましょう」

「えっ……!?」

「だって、こんなの誰にも言えないじゃないですか!」

 当然修司さんの勤め先から連絡があった。だが早紀ちゃんの言うとおり、彼が金魚になったのは言わなかった。会社には、修司さんは行方不明、私が警察に届けを出していることにしている。もちろん実際は、警察には届けていない。

 早紀ちゃんがここに住み込むようになったのは、精神が不安定になった私を見守るためだ。金魚になってしまった修司さんのことも、誰にも言わずにいてくれている。

 私は、早紀ちゃんのお陰でなんとか生きている。

 金魚鉢の中で、白い影が揺らめく。私は小さくなった修司さんに、小さな声で問いかけた。

「どうしてかしら。どうして金魚になんて……」

 もちろん、返事なんてしてくれない。私の問いかけは、独り言になった。

 きっと修司さんは、私に伝えようとしているのだ。言葉を持たない生き物を、愛おしく扱うこと。自分が金魚になることで、それを愛することを教えてくれている。

 そうならどうして、人間の姿で教えてくれなかったの?

 どうして自らが、金魚になってしまうの?

「そんなことしなくても、よかったのに。ごめんなさい、修司さん」

 金魚鉢に顔を寄せ、私は小さな吐息を漏らした。ガラスが僅かに曇る。そこにそっと、口づけを落とした。

「愛してる」

 お願い、元のあなたに戻って。

 カチャリと、ドアノブの音がした。

「あら、早紀ちゃん? 帰ってきたの?」

 玄関の方から、早紀ちゃんが戻ってくる。無表情の彼女に、私は重ねて問いかけた。

「授業は?」

「ごめんなさい、嘘をつきました」

 早紀ちゃんは顔を上げ、肩にかけていた鞄を開けた。

「ようやく手に入ったので……今日こそ、香苗さんに本当のこと言います」

 金魚鉢が、初夏の日差しできらめいている。その揺らめく光が、床に反射して、不規則な模様を描く。

「あのね、香苗さん」

 早紀ちゃんは、意を決したように左手の拳を握った。

「目を覚ましてください。修司さんは、金魚になってしまったんじゃないんです」

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