第32話 雪解け
しばらくして、館内に火葬が終わったことを告げるアナウンスが響いた。
灰慈は水川さんと共に火葬炉の前まで戻る。
白州さんに真鍮の鍵を返し、遺骨の説明を聞いているあいだ、水川さんはずっと唇を強く噛んだままだった。火葬を始めた時ほど取り乱してはいないが、大切な人の骨と灰だけになった姿を直視するのはやはり勇気がいることだ。
佳苗さんの骨は病気で弱ってはいたが、それでもしっかりと形を残していた。「平均よりも細くはありますが、それは体型によるものであり、全体的にはどこか生きる強さを感じさせる美しい形をしています」という白州さんのコメントが佳苗さんらしいな、と灰慈は思った。
「それで、本当に花葬りをするってことで良いのかい?」
黒古さんは灰慈と水川さんの顔を交互に見てくる。
灰慈はすでに花咲師の衣装に身を包んでいた。
水川さんはこくりと頷くと、灰慈に向かって頭を下げて言った。「お願いします」と。
その言葉を確かに受け取り、灰慈は遺骨の傍らに立つ。
「それでは、花葬りを執り行います」
遺灰の前で一礼。
故人の姿と想いを汲み取るように、その上に手をかざす。
瞼を閉じれば静寂が訪れる。
あの世とこの世の境目がなくなったような奇妙な感覚。
白くぼんやりした光が脳裏に浮かぶ。
灰慈はそれを吸い込むかのように、すっと胸いっぱいに息を吸った。
さて、ただ今咲かせまするは、
桜に霧島、百日紅に山茶花と、
四季折々に十人十色、
灰とは思えぬ形にて
皆の御目にかけましょう
灰慈の掌が灰に触れる。
ほのかな温もりとともに、彼女の記憶が指先から流れ込んできた――
***
水川佳苗は夢を見ていた。
さわさわと風になびく、一面のヒガンバナ。
どこか物悲しげな風景の真ん中に、見知らぬ女性が立っていた。巫女装束に身を包み、丸眼鏡に三つ編みおさげ姿の彼女は、佳苗に気づいてこちらに近づいてくる。
「あなたは……?」
佳苗がきょとんと首を傾げていると、彼女は佳苗の手に何かを握らせて微笑んだ。
「ほんの少し、お裾分けです」
手の中に温かい感触を覚え、確認するとそこにあったのは一輪のヒガンバナだった。
「あの――」
声を掛けようと手を伸ばしたその瞬間。
ヒガンバナの花畑は消え、視界に入ったのは病室の白い天井。
「先生! 先生っ! 水川さんが、目を覚まされました……!」
側にいた看護師が担当の医師に慌てて連絡を入れている。
麻酔のせいかまだ頭はぼんやりとしていたが、彼女はなんとなく悟った。
生かされたのだ、と。
それが医療技術のおかげか、はたまた別の何かによるものかは分からないが、再び目が覚めたことはきっと奇跡なのだろう。
ありがたいと思うと同時に、本当にすぐ後ろまで死が迫っていることを実感した。
あとどれくらい生きられるか分からない。やり残すことが無いようにしなければ。
彼女の頭に真っ先に浮かんだのは娘のことだった。自分がいなくなったらあの子は一人ぼっちになってしまう。実家の両親はすでに他界していて、他に頼れる親戚もいない。学校の話もほとんどしないから、ちゃんと友だちがいるのか不安だ。
(そもそも……もう長く生きられないかもしれないなんて、どう伝えよう……)
ベッドの上半身部分を起こし、佳苗はスマホのメッセンジャーアプリを開く。手術前のやりとりで止まったままの娘とのメッセージ。
がんが胸以外にもすでに転移していること、彼女にはまだ伝えられていなかった。
手術を受ける前までは、完全に回復することは難しくても治療を続ければすぐに死ぬことはないだろうと漠然とした期待があったのだ。だから今すぐ伝えなくても、もう少し悪化した時に伝えれば良いと思っていた。そうでなければ、彼女は少しでも母に良い治療を受けさせようと学校を辞めて就職するだなんて言い出しかねないからだ。
だが、こうして死を間近に感じてしまっては、あまり躊躇していられない。
(ひとまず、手術終わったって報告しなくちゃ)
徐々に麻酔が切れ始めている。
痛みで震える手で、なんとか通話ボタンを押した。
「雪乃ちゃん? 手術、無事終わったよ」
スピーカー越しに聞こえる娘の声は、安堵の中に疲れが混じっていた。予定よりずいぶん連絡が遅れてしまったので要らぬ心配をかけたのだろう。
『身体、痛む? ご飯は食べれそう? 入院は予定通りの日程で済みそうなの?』
畳み掛けるように気遣ってくる娘に、とても今日死にかけただなんて話をする気にはなれず、次に顔を合わせる時――退院の時に改めて話そうと決意するのであった。
***
我がお役目は花葬り
花と飾りてお送りいたす
ただし一点お約束、
灰とは故人の落としもの
思いのままには咲かせませぬ
ゆめゆめお忘れなさらぬよう
続きの口上を唄いながら、灰慈は遺灰の上で手をぐるりと回す。羽織の袖がふわりと弧を描くその仕草は、傍目から見れば舞のようにも見えるだろう。
集中すれば、どこからか鼓のような音が聞こえてくる。
トン、トンと最初はゆっくり脈打っていた音が、儀式が進むにつれてだんだんと大きくなる。
まるで、命の鼓動を取り戻していくかのように。
***
退院の日。
初歩的な間違いを犯した。
かつての父親と顔を合わせるなり、逃げるように病室を去ってしまった娘。彼女の遠ざかっていく背中を目で追いながら、佳苗は激しく後悔した。
自分がいなくなった後のことを早く決めておきたいと焦るばかり、一番大事なことへの配慮が欠けていた。普段しっかりしているから忘れてしまっていたが、あの子の傷は思っていたよりも深い。
「……佳苗さんらしくないな。てっきり事前に話をしていたのかと思っていたよ」
気まずそうな顔を浮かべながらも娘がまとめた荷物を運び出してくれる、かつて夫だった人。
「そんなことないですよ。私は昔から鈍臭くて、大事なことに気づくのもいつだって遅すぎるくらい」
苦笑しながら、彼の後をよろよろと追う。昔は大股で歩き、佳苗がついてこれるペースかどうかなど気に留めない人だったが、今は術後の彼女の歩みに合わせてずいぶんとゆっくり歩いている。この人は本当に変わったのだ、と感心すると同時に急に自分のことが惨めに思えてきた。
「佳苗さん?」
足を止めた佳苗に気づき、元夫が振り返る。
佳苗は「なんでもない」と首を振って彼の後に続いた。
次に彼と会ったのは五月の第二日曜日。母の日だった。
退院の日はゆっくり話せなかったので、改めて今後の話――雪乃にどう伝えるかも含めて――を決める必要があった。
本当は家の中ではなくカフェか何かで打ち合わせるつもりだったのだが、その日は佳苗の調子があまり良くなく、ちょうど雪乃が一日バイトで家を空けるということもあり、やむなく家まで来てもらったのである。
雪乃が帰ってくる前に解散するはずが、途中で佳苗が発作を起こしたことで予定が狂った。痛みで動けなくなってしまった佳苗のために、元夫が彼女に鎮痛剤を飲ませたり、やりかけていた家事を代わりに片付けたりしていたらいつの間にか十八時を回っていた。
帰ってくるなり、父親の気配に気づいてすぐさま出て行ってしまった雪乃。
痛みのせいで佳苗は身動きが取れず、口の中で苦味が広まるのを布団の上で噛み締めることしかできなかった。
翌朝になっても娘は帰ってこなかった。
たった一日の家出であれば良いのだが。心配で胸をかきむしりながら、警察や学校、それから娘のバイト先と、あらゆる場所に連絡を入れた。
この日も彼女は全身の痛みが酷く、スマホを持ち上げることすら億劫に感じるほどであった。娘を探しに行かなければと思うのに、結局昼まで布団の上から動くことができなかった。
昼頃、学校から連絡があり彼女はなんとか立ち上がる。
クラスメートの子たちのおかげで雪乃は一度見つかったが、再び見失ってしまったという。
薬を飲んで外に出ようとマグカップを準備していたら、手が震えて割れてしまった。
なんとなく、娘にはもう会えない予感がした。
(だとしたら、私がすべきことは……)
よろめきながら、アパートの外に出る。
空を見上げると、灰色の分厚い雲からぽつぽつと雨が降り始めていた。
***
どこからか鳴り響く鼓動が最高潮に達した。
さぁ晴れやかな
どうかとくとご覧あれ!
遺灰を握る拳に力を込め、灰慈は
それからあの日とは違う、憎々しいくらいに晴れた空を睨み上げて。
いざ――花となり
灰が空へと解き放つ。
陽光を浴びてきらきらと煌めく様はまるで昼間の星のよう。
その場にいた人たちは皆つられるように空を仰いだ。
「……あ」
水川さんは自然と呟きを漏らす。
その濡れた黒い瞳に映るのは、白い光。
優しく包み込むようなヒダを幾重にも織り成す、純白のカーネーションだった。
無数に咲いたカーネーションは揺蕩うように宙を舞い、ゆっくりと落ちてくる。
水川さんはおぼつかない足取りで一歩二歩前に進み、その花に手を伸ばした。
柔らかい花びらが彼女の指にそっと触れる。
その瞬間、水川さんの瞳からは再び大粒の涙がこぼれた。
きっと彼女にも聞こえただろう。
優しく響くお母さんの声が。
――大丈夫よ、雪乃。あなたは一人じゃない。
――あなたへの愛はずっと生きている。昔も、今も、これからもずっと。
水川さんはカーネーションを大事に抱きながら、力が抜けたようにその場に膝をついた。
「お母さん、あのね……。私、ずっと謝りたかったよ。私がいなきゃお母さんはもっと幸せだったんじゃないかって何度も思った……! 苦労させてごめん……! こんな娘でごめん……! それなのに、愛してくれるの……?」
その問いに応えるように、一陣の風が吹いた。
水川さんのさらさらの黒い髪がなびき、カーネーションの花吹雪に包まれる。
――ねえ、雪乃ちゃん。
――二人暮らし、大変だったけど……楽しかったね。
「おかあ、さん……」
――お母さんこそ、長生きできなくてごめんね。
――最期にお母さんのお願い、一つ聞いてくれる?
水川さんは顔を上げて言う。「うん、聞くよ」と。
すると少しの間があった後で、佳苗さんの声が静かに響いた。
――自分の人生を大事にしてね。ずっと、見守ってるから……。
水川さんの瞳からこぼれ落ちた涙が、雨のようにカーネーションの花弁を濡らす。
でも、折れることはない。
花弁の中で受け止めながら、しかと咲いている。
母は、娘が思っているより何倍も強いのだ。
周囲に落ちたカーネーションが順番に粒子状になって消えていったが、水川さんの手の中にある一輪だけはしばらく残っていた。彼女が存分に泣き終わるのを待っていてくれるみたいだった。
「恨んでなんか、いなかったでしょ」
灰慈の言葉に彼女はこくりと頷き、それから。
「……かなわないや」
そう言って、ずずっと鼻をすすった。
涙で赤らんだ顔。
ただ、憑き物が落ちたかのような優しい顔つき。
「本当にね」
灰慈も思わずもらい泣きしながら、彼女に気づかれないよう紙の束をそっと懐の奥にしまい込む。
これは、佳苗さんが灰慈に託したもの。
毎年娘の誕生日に花が届くようにする、特別注文の注文用紙だ。
でも、きっと今は必要ない。
水川さんの顔には今、安堵によって自然とこぼれ出た笑顔が浮かんでいる。
出会って一ヶ月半、実を言うと彼女の笑顔を見るのは初めてだった。
見渡せば周りの人たちも和んだ表情を浮かべている。
雪解けのような温かさ。
穏やかで、優しい雰囲気。
まるで佳苗さんがまとっていた空気そのもの。
灰慈はもう一度空を仰いだ。
あれだけ憎々しかった青空が、今は染み渡ってくるように心地良かった。
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