第30話 一人ぼっち


 ***



 突然の激しい雨。

 傘を持っていなかった雪乃は、近くにあったファーストフード店に駆け込んだ。

 頼んだのは百円のコーヒー。


(お金、あまり使いたくなかったのに)


 席につき、財布の中身を確認して溜息を吐く。

 家を出たのは突然のことだったので、通帳を持ってきていなかった。

 元々財布にあったのは一万円。そのほとんどを昨日のホテル代に使ってしまい、今は数千円しか持ち合わせがない。


(こんなはずじゃ、なかったのに)


 バイト先のカフェのコーヒーと違い、苦味が舌の奥に残って思わず顔をしかめる。

 昨晩のことは誤算だった。

 家を出て一人で生きていくには汚いことにも手を染めなければいけないと、覚悟して向かった夜の街。誰かを待っている風に壁に寄りかかってスマホを見ていたら、あっさりとサラリーマンらしき男に声を掛けられた。四十歳と言っていたが、そうは見えないくらい清潔感のある男だった。


「お金に困ってるんでしょ? ひと晩十万でどうかな」


 きっと遊び慣れているのだろう。それからテキパキとホテルに入り、さっさとシャワーを浴びに行った。雪乃はなるべく何も考えないようにしようと、ベッドの上で動画を見て時間を潰していた。やがて男が浴室から出てきて、バスタオルで身体を拭きながらこう言ったのだ。


「しっかし世も末だよねぇ。君みたいな綺麗で若い子がこんなおじさんに媚売らなきゃいけないなんてさ。こういうの、なんていうんだっけ。……ああそうそうあれだ、だ」


 その言葉を聞いた途端、急に全身に悪寒が走った。

 ベッドに乗ってこようとする男を、両手で拒絶して。


「……ごめんなさい。私、未成年なの」

「ええ!? そんな話、聞いてな――」

「お願い、帰ってください。ほんの気の迷いでした。私が間違っていました。お金は要らないから、お願い……!」


 いくら遊び慣れた男でも、未成年に手を出す気はなかったらしい。大きく舌打ちして、お金を置かずに出て行った。……もしこれが未成年でも構わないという相手だったら? そう思うと急に自分がしようとしていたことが恐ろしくなって、全身が震えた。薄い布団を頭まで被り、身を隠すようにしてそのまま一晩を過ごしたのであった。


(桜庭くんには、嫌なところ見られちゃった)


 雨粒が流れ落ちるガラス窓。そこに映る自分を見てげんなりする。

 ボサボサの髪。よれたシャツ。虚ろな瞳に、今にも泣き出しそうな顔。

 でも、帰れない。

 誰も頼れない。

 自分一人で生きて行くしかない。


(とりあえず寝る場所……それからお金のこと、なんとかしなくちゃ)


 夜中に帰れば気づかれずに荷物を取りに行けるだろうか。

 そんなことを考えていた時、スマホの着信に気づく。

 画面に浮かぶ「病院」の二文字に、頭が真っ白になった。




「……ご臨終です」


 その晩、母は静かに息を引き取った。

 担当の医師が詳しい死因を説明してくれた。

 母のがんは胸だけでなく骨や肺まで転移が進んでおり、手術をしても完全に回復する可能性は低かったこと。それでも少しの可能性に賭けて治療を頑張ってきたこと。


「手術直後に一瞬容体が悪くなったことがありました。それでもなんとか持ち堪えられたので、治療を続ければ長く生きられるだろうと私たちも全力を尽くしていたのですが……」


 力及ばず悔しいです、と医師が頭を下げる。

 同席している看護師が涙を浮かべている。

 だが、雪乃はというと涙腺が枯れてしまったのではないかと思うくらい瞳は乾き切っていて、「お世話になりました」と感情のこもらない声で礼を言うだけだった。

 そんな彼女をショックを受けて放心しているととったのか、医師と看護師は気を利かせて一度席を外した。

 病室で母と二人きり。

 穏やかに眠る母の顔を見ると、そのうち目を覚ましそうな気さえする。

 母の薄くなった胸に耳を当てる。

 静かだった。


「お母さん……」


 雪乃は瞼を閉じる。

 肌にはまだ温もりが残っていた。

 頬でそれを感じながら、雪乃は呟く。


「ねえ。どうして言ってくれなかったの? 私、そんなに頼りなかったかな……」


 返事は当然返ってはこない。

 だが分かっている。母が頼りたかったのは夫であって、娘ではない。

 だったらせめて、見せつけなければ。

 あんな男を頼らなくてもなんとかなったということを。

 雪乃は母の手をそっと握り締めた。


「大丈夫。大丈夫だよ。私は一人でやっていけるから……」


 その後のことは忙しくて記憶が曖昧だ。

 看護師がエンゼルケアをしてくれるのを見守った後、母がいつの間にか書き残していたというエンディングノートをもとに黒古葬祭という葬儀社に連絡。母の亡骸を家まで搬送してもらい、一日ぶりに帰った自宅でそのまま今後の段取りについて葬儀屋と話し合った。

 黒古という人は以前バイト先で見かけた時はうさんくさい雰囲気の人だと思っていたが、話してみると意外にしっかりした人だった。彼は他人の葬式にも出たことのない雪乃のためにやるべきことをリストアップし、一つずつ手順を説明してくれた。

 親族や関係者への連絡、葬儀の準備に、役所への死亡届の提出や金融機関での手続き。

 人が死ぬとこんなにやることがあるのかと驚きはしたが、おかげで悲しみに打ちひしがれている暇はなかった。

 母のエンディングノートにも情報がまとまっていたのでそこまで手間取ることはなかった。

 気づけば朝がやってきて、遺体の様子を見にきた黒古と再び打ち合わせをする。


「うちはオプションで花葬りってのをやっていてね。君のクラスメートに桜庭灰慈くんってのがいるだろう。彼の能力で遺灰を花に変えるんだが……」

「要らないです」

「え? でも花葬りは」

「必要ありません。お母さんが倒れた時に側にいてくれたことは感謝しているけど……桜庭くんには、来てほしくない」


 他のことは黒古の勧めや母のエンディングノート通りに進めていた雪乃だったが、そこに関してだけは頑なだった。

 やがて黒古も折れ、花葬りはしないということで葬儀の段取りが決まった。

 参列するのは雪乃と、母の職場でお世話になった人だけの小規模なお葬式。装飾やセレモニーは最小限で、火葬場での見送りは身内の雪乃だけが行う。


「……本当に良いんだね? 困ったことがあればお父さんに頼るようにとノートに書いてあるけど……」

「あの人に頼ることなんて、一つもありません」


 きっぱりと言う彼女の瞳に、揺らぎはなかった。


 葬儀は粛々と行われた。

 喪主としてやることが多く、感傷に浸る間はなかった。

 棺の中で眠る母は相変わらず穏やかな表情で、やはりまだ亡くなったという実感が湧かない。

 いよいよ葬儀を終えて火葬場に移動する時、母の職場の人たちに「気を確かに持ってね」「何かあったら私たちを頼っても良いんだよ」と励ましをもらった。優しい人たちだと思う反面、彼女自身の心にはあまり響く言葉ではなかった。何を言っているんだろうという疑問しかなかった。

 気を確かに? こんなにも意識がはっきりしているのに。落ち込むどころか妙な高揚感さえあるくらい。

 他人を頼る気だってない。自分の面倒くらい自分で見れる。母の面倒だって見るつもりだったのだから。

 母に父と別れてほしいと伝えたあの日から、二人で生きていくために自分も頑張ると決めた。

 その一人が欠けてしまったら、一人で頑張るしかない。

 ただそれだけのこと。


 葬儀会館から火葬場へ、移動している間に車の中で少しうたた寝をしていたらしい。やることに追われてあまり眠れていなかったせいだろう。

 窓の外を見やれば、もう目の前に巨大な敷地を持つ藤色の建物が見えてきた。柳田斎場だ。ここで先導の霊柩車に乗った母の遺体が火葬される。

 車が正面玄関の前で停まろうとした時、ふと視界の端に「桜色」が映り込んだ気がした。桜……ではない。季節はとうに過ぎている。誰かの服の色というわけでもない。火葬場は黒と白で統一された空間だ。

 雪乃はハッとして車窓に張り付くように外を見る。


(なんで……?)


 そこには彼が――桜庭灰慈が、彼女を出迎えるようにして正面玄関の前で立っていた。




 ***


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