第29話 罪悪感の正体



 ぽた、ぽたと花屋の軒先の日除け屋根に雨粒が落ちる音。

 レジカウンターに突っ伏していた灰慈が顔を上げると、すぐにざーっと降り出した。

 店の外に並んでいたプランターは母さんがあらかじめ店の中にしまっておいたので、雨が降ってきたからといって特にやることはない。元々天気予報でも午後から雨と言われていたので外を出歩く人も少なく、客がやってくる気配はなかった。


(……暇だな)


 再びカウンターに突っ伏す。

 あの後、灰慈は彼女を追いかけることなく家に帰ってきた。

 早退と聞いた母さんは初め仮病を疑っていたが、気落ちしている灰慈を見て何かを悟ったらしい。特に事情は聞かず、部屋で休んだらと言ってくれた。だが、一人でじっとしていたら考え込んでしまいそうで、店番を買って出ることにしたのだ。

 こういう時、普段なら時間潰しにレジ裏でこっそり動画でも見て過ごすところだが、今はスマホを見る気力すらなかった。どちらかというと作業していた方が気が紛れて良い。

 ギフト用のリボンでも作っておくか、とごそごそレジ裏の事務用品棚を漁っていると、店のウインドウが開く音がした。来客だ。灰慈は手を止め振り返る。


「いらっしゃいませー……って、あれ?」


 びしょ濡れの傘を畳む客の姿に見覚えがあった。


「水川さんのお母さん、ですよね」


 彼女がはにかむように微笑むと、目尻に笑いじわが刻まれた。

 やっぱりそうだ。水川佳苗さんだ。

 ただ、前回施設で会った時とずいぶん印象が違った。長い黒髪ではなく、季節外れのニット帽に、その下からまばらに顔を出す細い髪。

 乳がん。水川さんから聞いていたお母さんの病名。治療のために抗がん剤を使うと髪が抜け落ちてしまうと聞いたことがある。

 灰慈の視線に気づいたのか、佳苗さんは眉をハの字に曲げてニット帽を深めに被り直す。


「お恥ずかしい。今日はバタバタしていてウィッグを被るのすら忘れてしまって」

「いえ、まじまじと見てしまってすみません……。ここにいらっしゃったのは、水川さんのことですか?」

「ええ。灰慈くんが雪乃を捜してくれたと、担任の先生から聞きまして」


 灰慈の口の中に苦いものが広がる。

 おおまかなことの顛末は灰慈に同行していたスズメからツヅラへ、ツヅラから担任の先生へ、そして担任の先生から佳苗さんへすでに伝わっているようだ。


「ごめんなさい。僕、水川さんを説得するどころか余計に刺激して、そのうえ行き先も見失ってしまって……」

「気にしないでください。私はあなたを責めるためにここに来たわけじゃないんですよ」


 しゅんと肩を落とす灰慈に、佳苗さんの声は優しく響く。


「雪乃ちゃんとどんな話をしたか、教えてもらってもいいですか?」


 灰慈は頷き、ホテルの前での会話の内容を包み隠さず話した。お母さんに対する想いが罪悪感によるものだと言っていたこと、つい熱が入って大きな声を出したら明らかに様子がおかしくなってしまったこと。

 佳苗さんは灰慈の話を遮ることなく、うんうんと頷きながら最後までじっと聞いてくれた。


「ありがとうございます。薄々分かっていましたが、あの子が出ていった理由はよく分かりました」


 話が終わると佳苗さんは胸を押さえて少しだけ悲しそうな顔をした。笑顔が消えると一気にやつれた表情が垣間見えて、思わず目を背けたくなる。


(……そうか、「罪悪感」だ)


 灰慈はふと気づく。今自分が佳苗さんの辛そうな顔を見ていられないと思ったのは、娘を連れ戻せず彼女に心労をかけていることへの罪悪感ゆえだ。

 水川さんも「罪悪感」があるというなら、きっとしんどかったんじゃないだろうか。だから、お母さんに少しでも楽させてあげたかった。


「あの」


 灰慈はおずおずと口にする。


「僕に聞く資格は無いかもしれないですが……水川さんの言うお母さんへの罪悪感って何ですか? それに、家には『あいつ』がいるって、どういうことですか?」


 逡巡する佳苗さん。伏せられたまつ毛が、水川さんのものと形がよく似ていると思った。


「灰慈くんには、お話ししておくべきかもしれないですね」


 そう言って、側に置かれているバケツに浸かった花を撫でながら、佳苗さんは静かに語りだした。




 水川さんたちは、元々は都心のマンションで親子三人暮らしていた。

 高学歴で誰もが名前を知る銀行に勤めるお父さん。

 美人で料理上手な専業主婦のお母さん。

 周囲が羨ましがるほど理想的な家庭で、水川さんが小学校に上がる頃までは何一つ問題が無いように見えていた。


 ……いや、実際にはズレや綻びがあったのかもしれない。


 お父さんはいわゆる「モラルハラスメント」気質の人だった。佳苗さんが病弱な体質であることは結婚前から知っていたはずだが、体調を崩して娘の世話をするのが辛い時でも「育児は専業主婦の仕事」「自己管理ができていない責任を俺に押し付けるな」と一切手伝ってくれなかったり、そのくせ自分が風邪で倒れた時は「夫の体調管理は妻の仕事」「お前が働いていないせいでプレッシャーが大きい」と文句をつけてきたり。

 ただ、それでも初めのうちは「たまたま今日は機嫌が悪いだけ」で片づく頻度だった。普段は紳士的で甲斐性のある人だったので、彼のことが嫌になるという発想はなかった。佳苗さんは極力彼の機嫌を損ねない所作を心がけ、違和感を感じるようなことがあっても自分を騙し騙し生活を続けてきたという。


 お父さんのモラハラが顕在化しだしたのは水川さんの小学校受験が失敗したあたりからだった。

 小学校受験は運要素も大きく事前準備だけではなんともならないことも多いそうだが、自分が受験に落ちた経験がないというお父さんにはかなりショックな出来事だったらしい。

 不合格の責任は佳苗さんにあると言い、ことあるごとに彼女を責めた。そして次の中学受験では絶対に失敗はできないと、まだ小学生に上がったばかりの娘に厳しく勉強を教え始めたのだ。

 ちょうどその頃、お父さんはこれまでと違う部署に異動になったこともあり、仕事でもストレスが溜まっていたのだろう。

 毎晩、帰ってくるなり娘の宿題と通信教材の状況を確認し、少しでもやっていないところや間違っているところがあれば「どうしてこんなこともできないんだ!」「俺が帰ってくるまで佳苗は何をしていたんだ!?」と怒鳴られ、くどくどと説教される日々。

 幼少期快活な子だった水川さんもだんだんとお父さんの影に怯えるようになり、調子が悪い時は男性の大声に身動きが取れなくなってしまうほど生活に支障が出始めた。

 このままではいけないと、佳苗さんは危機感を覚え始める。

 だが、彼女の気弱な性分ではなかなか夫を説得できなかった。せめて娘を怒鳴るのはやめてくれと何度も話そうとしたが、のらりくらり論点をすり替えられていつの間にか言いくるめられてしまう。

 日々夫のご機嫌とりに精一杯で、第三者に頼る時間も心の余裕も無かった。

 自分と娘、そしてハラスメントを起こしている本人。家族三人が互いに精神を削りながら生きているのを自覚しながら、何もできずなあなあに年月が過ぎていってしまった。


 一つ目の転機は突然訪れる。

 水川さんが小学四年生の夏。中学受験のためにお父さんの選んだ塾に通わされていた彼女が、模擬テストの最中に嘔吐して早退したことがあった。身の丈以上の授業速度に、過度に熱血な講師たちのテンション、純粋な向上心でテストの点を競い合う生徒たち。その全てが無理やり勉強させられている彼女と噛み合わず、限界が来てしまったのである。

 佳苗さんと帰宅途中、水川さんは「もう塾には行きたくない」と言った。

 それは何年ぶりかに聞いた、彼女自身の意思だった。

 子どもが自分のやりたいことを言えなくなるほどのプレッシャーをかけていたことに愕然とし、佳苗さんもその場で吐き気を催した。

 その後、佳苗さんは夫には内緒で水川さんを塾に行かせるのをやめた。塾講師に根回しして、定期テストの時にはわざわざ嘘の解答用紙を準備し、通っているふりを続けた。

 いつかバレてしまうかもしれないという恐怖で気が気ではなかったが、塾に通わなくなって娘の症状が回復し始めたのだけが、佳苗さんにとって唯一の希望だった。


 二つ目の転機は、それからすぐのことだった。

 珍しくお父さんが出張することになり、一晩家を空けることになった。

 娘と二人、束の間の平穏。今日くらいは彼女をうんと甘やかして、好きなものを食べさせてあげよう。張り切って夕食の準備をしていると、宿題をしていたはずの娘がすすすとすり寄ってきた。

 素直に甘えてきた娘に愛おしさを感じて。

 「どうしたの雪乃ちゃん」なんて背を撫でようとしたその時。

 娘の口から出たのは、衝撃の言葉だった。


 ――お父さんと別れて。このままだとお母さんのことまで嫌いになる。


 青天の霹靂へきれき

 だが、おかげで目が覚める。

 のんびり夕飯の支度をしている場合ではなかった。

 今日しかチャンスはないのだ。

 この生活から逃げる。

 娘のために、自分のために、……そして、かつて愛した夫のためにも。

 そうと決めたら佳苗さんは自分でも驚くぐらい早く行動に移したらしい。最低限の荷物をまとめ、エプロンをつけたまま娘を連れて家を飛び出した。ひとまず役所に駆け込んで、それから専門の相談所を紹介してもらって、夫からは身を隠しながら離婚の手続きを進めた。

 出張から帰り、誰もいない家を見てお父さんはさぞ驚いたことだろう。

 彼はなかなか離婚を認めたがらなかったそうだが、相談所の人の仲介のおかげで一年かけてようやく離婚が成立。

 その後、水川母娘は何の縁もないこの土地に引っ越してきて、今に至る。




 佳苗さんは静かに淡々と語ってくれたが、灰慈は思わず瞳を潤ませていた。水川さんとお母さんの壮絶な過去。彼女たちが耐え忍んできた苦しみを想うと堪えきれなくなったのだ。

 ごしごしと瞳を拭う灰慈を見て、佳苗さんはくすりと微笑む。


「やっぱり優しい人ですね、灰慈くんは」

「すみません、自分のことでもないのに……」

「私たちの昔話に共感してくれたってことでしょう? 私は嬉しいですよ。雪乃ちゃんも、本当は灰慈くんが探しに来てくれて嬉しかったんじゃないかな」

「いや、そんな風には……。僕の言葉は届いていなかったみたいですし」


 自嘲気味にそう言うと、佳苗さんは首を横に振った。


「人の心に響くのは『言葉』だけじゃないわ」


 胸元に手を当てて、自らにも言い聞かせるように。


「『行動』だって、響くものですよ」


 そう言って、佳苗さんは再び顔を上げた。


「話は戻りますが……雪乃ちゃんの言う『罪悪感』はたぶん、私たちの離婚に対してのことでしょうね」

「それってつまり、自分のせいで両親が離婚したと思っている……?」

「ええ。確かにきっかけは雪乃ちゃんの言葉だったけど、私自身の意思で離婚を選んだというのは何度も話をしてきました。それでも、やっぱりあの子の胸の内で引っかかるところがあるのだと思います。最近に会わせてしまったせいもあるかもしれません。時期尚早かは悩んだんですが……」

「あの、っていうのは……?」

「元夫です」


 さらりと言う佳苗さんに、灰慈は唖然として目を見開いた。


「え、なんでですか!? 旦那さんとはあんなことがあったのに……?」


 灰慈の言葉に佳苗さんはしゅんと眉をハの字に曲げた。


「そうですよね。普通はそう思いますよね。私ったらそんな当たり前のことも忘れて、ちゃんと説明しないまま雪乃ちゃんを引き合わせてしまって……」

「佳苗さんはもう平気なんですか……?」


 恐る恐る尋ねると、これまたさらりと「平気じゃなかったですよ」と言う。


「じゃあどうして……?」

「一年前くらいに、離婚の時にお世話になった相談所経由であの人からの手紙が届いたんです。離婚してから一切連絡は取っていなかったので、そんなことは初めてでした。相談所の人曰く、「相談所で中身を確認した上で問題ないと判断したら佳苗さんに届けてほしい」 と添え文があったそうで。そこまで言われるとなんだか読まずに捨てるわけにはいかなくて、雪乃ちゃんには内緒で中身を確認したんです」


 そこには、彼女が知っている人と同じ人が書いたとは到底思えないような、誠意のこもった謝罪が書き連ねられていたらしい。


「驚きましたよ。離婚調停の時は自分の非なんて死んでも認めなさそうな勢いでしたから。手紙には謝罪をしたいと思ったきっかけも書かれていました」


 それによると、離婚が成立して以来職場でも上手くいかないことが増えていった彼は、ついに職場でもハラスメントをしてしまったらしい。そうして懲戒処分の末に自主退職。不眠症をきっかけに心療内科に通い始め、そこでのカウンセリングを経てようやく自分の攻撃性を自覚するに至ったのだそうだ。それからは地元に帰って畑仕事を継ぎつつ、治療を続けて快方に向かっているという 。


「手紙の末尾には『返事はいらない、でも何か困ったことがあったら言ってほしい。せめてもの償いがしたい』と書かれていました。そうは言っても手紙ですから、本心ではない可能性もあると思って、その時は返事をしなかったんです。だけど、先日私が倒れて入院することになって、これはまずいぞと。万が一このまま私がいなくなったら、雪乃ちゃんが一人ぼっちになってしまう。そうなったらせめてお金の面だけでも助けてあげてくれないかと、相談所を介してあの人とやりとりするようになったのです」


 そうしてやりとりを続けるうち、彼が本当に変わろうとしていることが分かってきた。やり直す気にはならないが、許す気持ちは芽生え始めていた。だから気が緩んで、というか学業より家庭優先にしようとする娘に対して気が逸って、一度彼と引き合わせてしまったらしい。

 水川さんからしたら唐突な元お父さんの登場。ひと目見ただけで全身で拒絶してしまい、詳しい事情を説明することもできない状態が続いているようだ。


「そうだったんですか……。それなら早く水川さんを見つけて、話をしないとですね」


 佳苗さんは頷く。


「そろそろあの子を探しに行きます。この雨だし、きっといる場所も限られると思うので」


 佳苗さんはにっこりと微笑み、会釈してから店の外へ。灰慈も見送ろうと彼女の後に続いた。

 外は相変わらずざあざあと降っていて、もわっとした雨の匂いにもうすぐ梅雨の季節がやってくることを思い出す。


「まだ本調子じゃないでしょうし、あまり濡れないようにしてくださいね。駅方向に行く場合は、パン屋さんの角で店の裏に回れば背の高い木が多くて雨除けになるので」

「ありがとう、灰慈くん」


 そう言いながら、佳苗さんはなかなか傘をささずその場に立ち尽くしている。


「あの、どうかされました……?」


 彼女の手元を見ると、がくがくと震えていて傘を持つ手に力が入っていない。施設の時で見た時と同じ震え方だ。だが、今は寒いわけでも、精神的に恐ろしいものがあるわけでもない。

 気づけば佳苗さんの唇から血の気を失われている。

 一度気のせいだと胸の奥に押し込めていた違和感が、再びぞわぞわと膨れ上がってきた。


「もしかして……水川さんに言えていないことって、他にもあるんじゃないですか……?」


 灰慈は祈る。

 そんなの無いですよ、とさらりと答えてほしかった。

 だが、佳苗さんは何も言わない。

 言わないまま、がくりとその場に膝をつく。

 灰慈は慌てて彼女の身体を支えた。

 元々白い肌が、一層白い。

 その色が棺の中で見る人々の色と重なる。


「母さん! ばあちゃん! 誰でもいい! 早く、救急車を……!」


 灰慈の叫びに反応するかのように雨足が強くなる。

 佳苗さんの身体が濡れないようになんとか店の中に運ぶと、焦点を失いかけていた彼女の瞳にわずかに光が灯った。 


「灰慈くん……あの……。一つだけ、お願いを……」


 囁くようなか細い声。

 灰慈は彼女の口元に耳を寄せ、こくこくと何度も頷いた。

 唇を噛み、パニックでどうにかなりそうな頭を必死に落ち着かせて。

 彼女の言葉を、聞き届けた……。


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