第4章 愛は生きている
第23話 母のために
***
「荷物、これで全部だよね?」
ぱんぱんになったスーツケースのファスナーをなんとか閉めた雪乃は、ベッドに腰掛ける母の方を見ずに尋ねる。
母の、久々の私服姿。こうして入院着を脱ぐと無事手術が終わったのだという実感が湧くが、片方だけ薄くなった胸を見るとやはりいたたまれない気分になってしまい、直視することができなかった。
「ありがとう、雪乃ちゃん。何から何まで」
「気にしないでってば。まだ手術の痕が痛むんでしょ。お母さんは身体を休めることだけ考えてて。家事はしばらく私がやるから。仕事も体調が落ち着くまで休んでね。お金は、私がバイトとか内職増やすし。あ、保険の手続きだけやってもらいたいかな。分かる範囲で書類準備したから間違ってないかだけ確認してもらって、それから」
「雪乃ちゃん」
静かな声が、雪乃の言葉を遮った。
母の柳の葉のような眉がハの字に曲がる。
「ねえ、学校は? 心配してくれるのは嬉しいけど、それじゃあ雪乃ちゃんが学校に行けなくなっちゃうでしょう」
「……別にいいよ」
雪乃は母の方を見ないまま呟く。
「ほら、受験の前から話してたじゃん。中学卒業したら就職するって。お母さんに猛反対されたから受験したけど……私、やっぱり学校に通うより働く方が性に合ってる気がするよ」
「嘘。学校の先生から聞いたよ。雪乃ちゃん、課題も小テストも完璧だって。高校の授業に最初からついていける子は大学受験も期待できるって」
「買い被りすぎ。別に大学に行ってまで勉強したいことなんかないし、それに」
意を決して、母と向き合う。
元々色白だったが、入院生活でさらに白くなった肌。
こけた頬に、色濃く刻まれた目の下の
艶のある黒髪は抗がん薬の副作用でほとんど抜け落ち、今はニット帽で頭を覆っている。
外見だけで言えば、初めに職場で倒れた時よりもはるかに弱っているように見えた。
「もうお母さんに無理はさせられないよ。たった一人の、家族だもん」
再び母から視線を逸らす。
母の姿を見ていられないと思うのは、それが自分の罪の証でもあるからだ。
強く噛みしめた唇からうっすらと血の味がする。
雪乃は立ち上がり、病室の扉に向かう。
「タクシー呼んでくるね」
「待って、雪乃ちゃん」
母の言葉と同時、廊下からこちらに向かって響いてくる足音を聞き、全身が固まった。
「帰る前に、あなたに会わせたい人がいるの」
だんだんと大きくなる、規則的に鳴らす革靴の音。
嫌だ。
会いたくない。
だが、無慈悲にも足音は扉を隔てた向こう側で止まり。
コンコンとノックをした後、聞き覚えのある男の声がした。
「入るよ」
雪乃は動かない。
目の前で立ち尽くす彼女に面食らったような表情を浮かべている男。
その白々さに余計に腹が立って、彼女の瞳は一瞬のうちに憎悪の黒に染まった。
「ふざけるな……ッ! なんであんたがここに……!」
***
「ふっざけんじゃないよ!!」
平和だった昼時のリビングに母さんの怒号が響き、ばんと食卓を叩いた衝撃で並んでいた皿たちがわずかに跳ね上がる。
昼食中に母さんにかかってきた電話。相手は県外出張中の父さんである。
売れっ子フラワーアーティストである父さんはこうして出張で家を留守にすることが多いのだが、どうやら今度の「母の日」にも出張の予定が入ってしまったらしく、それが母さんの
ちなみに、その理由はというと「母の日」に家族仲良く過ごしたいからというものではなく。
「『母の日』は
『ごめん! ほんとごめんよ、咲恵ちゃん! 駆け出しの頃からお世話になってるお客さんの依頼で断れなくって……! 今度埋め合わせはするから! ね、ね?』
電話の向こうでただただ平謝りする父さん。
顔は見えていないのにスマホに向かってペコペコ頭を下げているのが目に浮かぶようだ。
「埋め合わせったって、それで根本の問題を解決することにはならないじゃないか!」
『そ、そしたらこうしよう! 僕の月のお小遣い削っていいから、そのぶんアルバイトを雇うってのはどうかな。その方が作業とかお願いしやすいかもしれないし』
「アルバイト、か。ま、確かに悪くはない案だけどねぇ」
母さんがちらりと壁にかけてあるカレンダーを見やる。
母の日まであと二週間。
今から募集をかけて研修すれば間に合わなくはない、が。
『じゃあそういうことで! 僕そろそろ仕事に戻るよ! また連絡する!』
父さんは逃げるように通話を切ってしまった。
眉間を揉みながら母さんは深いため息を吐いて食事に戻る。
「勢いに乗せられちゃったけど、バイトなんて募集しても来てくれるかねぇ。この辺、昔ながらの商店街だし。若い子はみんな駅前のチェーン店とかでバイトするもんだろ」
「確かに。春日向商店街のお店に立ってるの、みんなおじいちゃんおばあちゃんばっかだよね。お母さんが一番若いくらいじゃない?」
炭蓮がうんうんとご飯を頬張りながら相槌を打つ。
「わしかてまだ現役じゃぞ! そんなに人手が足らんなら、久々に店に立ってやろうかの!」
「はいはい、お母さんにも簡単なお手伝いはお願いしますね。まずは受話器とバナナを間違えないところからリハビリしてもらいたいけど」
ふんすと意気込むばあちゃんを母さんは適当になだめつつ、「そういえば」と灰慈の方を向いて言った。
「灰慈、あんたお友だちにバイト探してる子がいたら紹介してよ。母の日シーズンの短期でもいいからさ」
「んー、けっこうみんな部活とか入ってるみたいだけど……」
そう言いながら、「バイト」というキーワードで一人だけすぐに思い浮かんだ人がいた。水川さんだ。すでにいくつかバイトをやっているみたいだが、聞くだけ聞いてみてもいいかもしれない。
そして、翌日。
「ふうん、花屋のバイトか。時給は?」
「ベース千円。でも繁忙期に入ってくれるならもう少し上げられるかもだって」
「うん、わかった。面接候補日教えて」
休み時間に水川さんに声をかけてみたら、意外にも即答だった。
そんなにすぐ決まるとは思わなくて、灰慈の方があたふたと母さんからもらっていたスケジュールのメモを確認する。
いくつか候補日を伝えると、彼女はスマホでスケジューラーアプリを開いた。チラッと見えたのはおびただしいシフト予定の数である。カフェバイト、コンビニバイト、新聞配達、エトセトラ。学校の時間以外のほとんどがバイトで埋まっている。
「や、やっぱやめよう。水川さん、すでに忙しそうだからこれ以上無理させられないよ」
灰慈がそう言うと、彼女はすっと顔を上げた。
黒い眼差し。熱の冷めた目。
どきりと心臓が跳ねる。そんなに彼女を怒らせるようなことを言ったつもりはなかった。というか、むしろ心配したつもりだったのだが。
「いいから、早く決めて。この話がなかったことになるなら、他のバイト探すだけだし」
彼女は腕を組んでトントンと指を動かす。
明らかに苛立っている。
一体どうしたというのだろう。
先日の美化活動の一件で少し距離が縮まったように感じたのは勘違いだったのだろうか。
もやもやしながらも、翌日の放課後には彼女を面接することが決まったのだった。
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