第22話 生きるために必要な力



 その晩、夕食を終えて灰慈は台所の皿洗いに立った。

 「明日雪でも降るのかしら」なんて母さんは大袈裟に驚く。普段なら家の手伝いから逃げるようにして二階の自分の部屋に直行するからだろう。


「あんた、足捻ったって言ってなかったっけ」

「別に、立ってるくらいなら大丈夫。それに、たまには僕だって親孝行するよ」


 口を尖らせる灰慈の背中を母さんが強めに叩いた。


「たまにじゃなくたっていいのにねえ!」


 そう言ってゲラゲラ笑いながら隣に立つ。

 まったく元気な母さんだ。ここ数年風邪のひとつも引いていないんじゃないだろうか。


「そういやあんた、あのノートはどうしたんだい」

「ノート?」

「ほら、じいちゃんのこと書き留めておくんだって意気込んでただろ」

「ああ、あれ……」


 忘れていたわけじゃない。

 今朝家を出るまでは書こうとしていた。

 だけど今は通学カバンにしまったまま、まだ取り出していない。


「なんか、もういいかなって。じいちゃんも書かれたら恥ずかしいことだってあるかもしれないし」

「ははっ、確かにねえ。あんた、グラビアアイドルの趣味まで書いてただろ」

「え、ちょ、見たのかよ!」

「そりゃ見るわね。ずいぶん必死になって書こうとしていたみたいだから。じいちゃんのこと忘れるのがそんなに怖いかい?」


 そう言われて灰慈は手を止める。

 時間が経つごとに泡立てていた洗剤の泡がぷつぷつと消えていく。


「そりゃ怖いよ。じいちゃんは僕にとって唯一のお手本だ」


 花咲師はこの世に二人といない。

 特異な能力を持って生まれた人間がどう生きていくべきか、じいちゃんの生き様は貴重な道標だった。

 だが、今日のことで分かったことがある。

 じいちゃんと自分はあまりに違う。

 生まれた時代も、境遇も、そしてたぶん性格も。

 だから、参考にはなったとしても、なぞることはできない。

 そのことに少し諦めがついたのだ。


「忘れるってのは悪いことばかりじゃないよ」


 母さんはそう言いながら明日の弁当の仕込みを始める。

 台所に並べられた二つの弁当箱。灰慈と炭蓮のものだ。


「灰慈。前にも言ったかもしれないけどね、あんたを産むときは大変な難産だったんだ」


 今じゃ笑って話せるけど、と母さんは言う。

 平均十二時間。初産の陣痛から出産までにかかると言われる時間だが、灰慈が生まれる時はその四倍の四十八時間もかかったのだという。

 痛みでほとんど寝られず、食事を取っても吐いてしまい、終わりの見えない戦いに何度も泣きべそをかき、陣痛室に一人でいるのが辛くてナースコールを鳴らしては助産師に迷惑をかけたと。自分はここで死ぬかもしれないと絶望して、出張で側にいなかった父さんに遺言みたいなメールまで送ったらしい。


「母さんがそんな風になるなんて信じられないよ」

「だろ。あんたが生まれた後も、時々痛みを思い出して寝られないなんて日が続いた。二度と子どもなんか産むかって、恨めしい気持ちすらあったね」


 だが、不思議なことに生後半年もすると当時の痛みを思い出せなくなっていった。

 それまではただ寝ているだけだった灰慈もだんだんと身体を動かせるようになり、表情が豊かになってきて、急に愛おしさが増したのだという。


「そっからだね。お父さんとやっぱり二人目も欲しいって話になって、しばらくして炭蓮を授かった。だからね、母さんは思うんだよ。忘れるのって、もしかしたら生きるために必要な力なんじゃないかって」

「生きるために必要な力……」


 母さんは頷く。


「亡くなった人のこと、覚えておくってのは大事なことだ。けど、そればっかりじゃ残された人は前に進めなくなるだろ。亡くなった人のぶんだけ生きていくためにはさ、忘れることだって時には必要なんだよ」


 亡くなった人のぶんだけ生きていく。

 その言葉が灰慈の胸に心地よく響いた。

 じいちゃんのこと、できるだけ覚えておきたい。だけど、そればかりに夢中になって自分のことを疎かにする孫の姿をきっとじいちゃんは望んでいない。今ならそう思える気がした。


「うん。そうかもしれない」


 灰慈はそう言って再び手を動かし始める。

 洗った食器を水ですすぎ、流れていく洗剤の泡。

 隣で母さんが準備しだした生姜焼きの匂いが、夕食を食べたばかりのはずなのに妙に食欲をそそった。




〈第3章 了〉

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