第21話 永遠に咲くヒガンバナ



「あれ、なんだ、知り合いなの?」


 水川さんの顔からほっと緊張が解ける。これで助けを呼べると思ったのだろう。

 だが、残念ながらその期待には沿えない。

 灰慈は小声で言った。


「たぶん、僕の知り合いじゃない」

「え、じゃあ誰の」


 じいちゃんだ。

 灰慈はここへ来たことがないし、目の前の巫女さんのことも知らない。

 だとしたら他の花咲師、つまりじいちゃんくらいしか思い当たる人がいない。灰慈の見た目は若い頃のじいちゃんに良く似ていると言われることが多いし、きっと見間違えたのだろう。

 巫女さんの見た目がどう見ても二十代くらいの若い女性にしか見えないのがやや引っかかりはするが……。

 灰慈は何気なく水川さんから離れ、前に立った。

 ヒガンバナの花畑といい、この巫女さんといい、どうもただならぬ気配がする。こちらに敵意がある様子はないし、水川さんは何も感じていないようだが。


「すみません、もしかしたら人違いじゃないでしょうか。僕は桜庭灰慈。十代目の花咲師です」


 とりあえず会話を試みる。

 巫女さんは気を悪くすることなく、「まあ」と口元に手を当てた。


「失礼しました。もしかしてお孫さんですか?」

「はい。灰ノ助の娘、咲恵の息子です」

「まあまあ、そうでしたか。本当に先代によく似ていらっしゃる」


 会話に違和感を覚えたのか、水川さんが「どういうこと」と後ろからつついてくる。説明したいのはやまやまだが、灰慈だって説明できるほど状況を呑みこめているわけではない。


「それで、お若い花咲師さん。今日はどうしてここに?」

「僕たち道に迷ってしまって……」

「あら、そうでしたか。山を下られるなら、この花畑の先に山道につながる細い道がありますよ」

「あ、ありがとうございます」


 案外あっさりと道を教えてくれた。

 水川さんが後ろから灰慈のジャージを引っ張ってくる。早く行こう、と。

 ただ、灰慈はすぐには動けなかった。巫女さんの表情が、微笑んでいるのに、どこか寂しそうに見えて。


「あの……祖父は以前、ここへ来たことがあるんでしょうか」


 つい、尋ねてしまった。

 憂いを帯びていた巫女さんの顔がわずかにほころぶ。


「はい、何度もいらしてますよ。ただ最近はあまりお見かけしていなくて……次にお会いしたらお願いしたいことがあったのですが」

「何でしょう? 僕にできることなら、代わりにやりますよ」


 「ちょっと」と水川さんが口を尖らせる。

 分かってる。自分でも何者かよく分からない相手に対して安請け合いしすぎた気はする。ただ、巫女さんの言う「次」はない。だったら今、自分にできることをしてあげたい。そんな気に駆られたのだ。


「ありがとうございます。実は、これを花に変えていただきたいのです」


 彼女はそっと懐から小さな巾着袋を取り出した。

 花に変えるということは、中に入っているのは灰だ。

 灰慈はごくりと唾を飲み込む。


「あの、これは誰の……?」

「分かりません」


 巫女さんは首を横に振った。


「ここにあるものがどなたのものかだなんて、もう誰も覚えていないのです。だからこそ花咲師さんに花葬りをお願いしてきました。これが、最後の一つです」


 おそるおそる巾着袋を受け取る。


「ねえ、大丈夫なの?」


 尋ねてくる水川さんの顔は若干青い。


「うん。たぶん、大丈夫だよ」


 灰慈は頷いた。

 事情はよく分からない。巫女さんやこのヒガンバナの花畑のことも気になることが多すぎる。が、じいちゃんにやり残したことがあるのなら力になりたいという気持ちがまさった。


「それでは、花葬りを執り行います」


 巾着袋を開き、灰に触れる。

 その場の静けさとは裏腹に、けつくような激しい熱が伝わってきた。




 ***




 蝉の大合唱が響き渡る中、黙々と山を登る老人と、その後を追う幼い子どもが一人。サイズが大きいのか、自然と目深に被ってしまう小学校の帽子の端からはみ出る髪は桜色。彼はきょろきょろと周囲を見渡しながら老人に尋ねた。


「ねえ、じいちゃん。どこまで登るん? カブトムシ探しに行ってもええ?」


 老人は首を横に振った。そして何も言わないまま目的地に向けて歩みを進める。

 彼の両腕には指先から肩にかけて酷い火傷の痕がある。ただの飾りのようにだらりとぶら下がっていて、腕を上げることすらできないらしい。

 よくよく見れば、彼の髪の色もまた子どもと同じ桜色。だが、だいぶ白髪に覆われていて、ソメイヨシノのようにうっすらと色が見えるくらいであった。

 やがて山中の神社にたどり着く。ここが目的地かと子どもはほっとして境内の石に腰をかけようとしたが、老人はまだ歩みを止めなかった。寂れた本堂の裏を目指して行く。


「もう、なんだよう」


 渋々ついて行こうとして、子どもはハッと鼻を押さえた。

 老人が向かう方から、酷い臭いが漂ってくる。

 生ゴミが腐った時よりもはるかに濃い腐敗臭。それだけじゃない。血の臭い、肉が焦げた臭い、そして土と汗と油が混ざったような臭い。


「じいちゃん、変だよ。ヤなニオイがするよ……」


 鼻を押さえてもすでに入り込んだ臭気が粘膜に染みついて離れない。

 足がすくみ、その場に立ち尽くす子ども。

 老人が気づいて戻ってきた。

 彼は口を一文字に結んでじっと子どもを見下ろす。

 子どもは怒られると思ったのか、身体をこわばらせて身構えている。

 やがて老人はしゃがみ込み、子どもの額にコツンと自分の額を当てて言った。


「恨むなら時代を恨みや、灰ノ助。亡くなった人らに罪はない」

「なくなった人って……?」

「お前も聞いたことあるじゃろ。お前が生まれたばかりの頃にな、空襲でたくさんの人が亡くなった。あまりに死にすぎて火葬場がパンクしてな、仮埋葬するしかなかったんじゃ」

「カリマイソウ……?」

「そうじゃ。亡くなった人たちが埋まっとる」

「ここに?」


 老人は頷く。


「戦争が終わってようやく火葬してやれる時が来た。だが、日が経ちすぎてな、腐敗が進んだせいでこの人らのほとんどは身元が分からん。遺族も呼べん。一人一人の墓や骨壷を用意する金も今のお国には無い。じゃからせめて灰だけでも弔ってやってほしいと、街の人らに頼まれてな」


 そう言って、老人は不意に頭を下げた。地面に額がつくくらいまで、低く。


「すまん。できることならお前に背負わせとうなかった。だが、知っての通りわしの腕はもう使いもんにならん。ここの人らを送ってやれるのは、お前しかおらんのじゃ」


 幼い子どもは面食らってまばたきを繰り返す。寡黙でどこか威圧的な祖父が他人に頭を下げるところなど初めて見た。それもまさか自分に対してとは。


「ハナハブリ、するってこと?」

「そうじゃ。手順は覚えておるな」

「うん。コウジョウを言って、灰にさわるだけでしょ。それならできるよ」


 子どもは無邪気だった。

 その行為にどんな意味があるかなど、考えもしなかった。

 ただ、困った様子の祖父の力になりたいだけだったのだ。

 老人も老人で、年を重ねたせいか子どもというのがどういう性質であるかを失念していたのだろう。彼の言葉をそのまま受け取って、ほっと安堵する表情を浮かべるのであった。


 本堂の裏の、崖の下。

 そこは元は竹林であった。

 だが、仮埋葬をするために伐採し、今はぽっかりと大穴の空いた広場になっている。

 その大穴の中に折り重なる、臭いの正体。目玉がないもの、うじ虫の餌食になっているもの、皮膚を失い黒ずんでいるもの。かろうじて表情が残っているものもいるが、誰一人として安らかな顔はなく、さながら地獄の入り口のようであった。

 そこから一人ずつ掘り出して、設置された簡易なレンガ作りの火葬炉の中に入れていく。

 若い男たちが必死に働いている横で、子どもはうずくまって胃の中のもの全て吐き出した。


「大丈夫か」


 祖父は声をかけてくれるが、彼の腕では背中をさすることはできない。

 今すぐ逃げ出したくなったが、先ほどの祖父の安堵した表情がよぎり、裏切る気にはなれなかった。

 子どもにできたのは、恐怖心をごまかすためにひたすら自分に言い聞かせることだけだ。

 あれは動物。動物の死骸。道端でかれた猫や、地に落ちて蟻に運ばれる蝶や、逆さになって浮いた魚と同じだと。

 焼き終わった火葬炉から灰が出てきてそれを花に変える。

 ただひたすらそれの繰り返し。

 強烈な臭いも、炉のそばの熱気も、耳を裂くような蝉の鳴き声も、だんだんと慣れて、というか麻痺して気にならなくなっていった。

 ただ、いくらやっても慣れなかったのはどの遺体も同じ花を咲かせることだ。

 老若男女、皆ヒガンバナ。

 一人一人違う人生があったはずなのに。

 それぞれに個性があったはずなのに。

 同じ穴の中で長いあいだ過ごしたせいか、あるいは同じものに殺されたせいか、皆一様に悲しげなヒガンバナを咲かせた。

 赤い花が咲くたびに幼い花咲師の胸は抉られるような痛みを感じ、次こそ、次こそはと願いながら儀式を続けた。だが、それでも結局最後までヒガンバナ以外の花が咲くことはなかった。


 最後の花葬りが終わったのは陽が落ち始めた頃であった。

 ひぐらしの鳴き声が切なげに響き渡る中、子どもは一人、虚ろな眼をして神社の手水場でずっと手をこすっている。


「落ちん……落ちんなあ……」


 火傷で赤く膨れた小さな手。洗いすぎて皮膚の表面がひび割れ、薄く血が滲んでいる。それでも彼は手を洗い続けた。どれだけ洗っても落ちないのだ。染みついた煤の汚れが。炉にくべられた油と死体の臭いが。

 やがて老人が神社の神主と共に境内まで戻ってきた。難しい顔をして何か話している。おおかた、あのヒガンバナたちについてだろう。花葬りで咲いた花は本来すぐに消えるものだ。だが、ヒガンバナたちは消える様子がない。堂々と穴のあった場所に根を張り、いきいきと咲いている。まるで本来生きられたはずの時間を取り戻そうとしているようだ、と子どもは思った。

 神主と別れ、老人が手を洗い続ける子どもの傍らに立つ。


「ようやったな、灰ノ助。お前はもう、立派な九代目花咲師じゃ」

「ありがとう、ございます」


 褒められているはずなのに、なぜだか心はちっとも動かない。

 子どもは老人の方を見ないまま手を洗い続ける。

 老人は呆れたようにため息を吐き、帰路につこうとしていた作業者の若者の一人に声をかける。若者に担がれる形で、子どもは老人と共に山を下った。そのあいだもずっと、子どもは「落ちん」と呟きながら手をこすり合わせていた……。




 ***




「じいちゃん……」


 瞳の端からつうと涙が伝っていく。

 灰慈は瞼を開け、灰を握っていた指を解いた。

 掌の上で咲いていたのは、稲穂のような形をした薄黄緑色の地味な花。


「ヒガンバナじゃ……ない?」


 巫女さんが目を丸くして呟く。

 横にいる水川さんも怪訝な顔で首を傾げた。


「これって、花なの?」


 彼女の言いたいことはなんとなく分かる。パッと見小さな芋虫のように見えなくもない。


「花だよ。たぶん、竹の花だ」

「え、竹って花咲くの?」

「うん。六十年に一度、あるいは百二十年の一度しか咲かないって言われてて、滅多に見られないんだけどね」


 灰慈も家にある図鑑で見たことがあるだけで実物を見るのは初めてだった。

 もっとよく見たいと言う巫女さんに手渡そうとした時、花はきらきらと粒子状に光り、砂のように灰慈の指の隙間から零れ落ちていった。

 巫女さんはそれを残念がるどころか、どこかホッとしたような様子で手を引いて胸を撫でる。


「そうですよね。これが普通でしたよね。花葬りで咲いた花は本来すぐに消えてしまうものだと、先代もよくおっしゃっていました」


 灰慈は頷き、周囲を見渡す。

 一面に咲くヒガンバナの花畑の周りに竹はもう生えていない。

 先ほど花葬りの時に見た記憶によれば、仮埋葬をするときに伐採してしまったという。ではその切った竹はどうしたのだろう。

 なんとなく、予想はつく。


「たぶんですけど、この灰って……火葬の時に使われた薪の灰なんじゃないでしょうか」


 花葬りで咲く花は灰になったものの元の性質に左右される。

 灰慈のこれまでの経験上、植物の灰はそのままその植物の花が咲くことが多い。たとえばバーベキューとかで残った灰を花に変えても、炭に使われていたナラとかクヌギの地味な花が咲くだけだ。

 灰慈の推測に、巫女さんはハッとしたように息を呑んだ。


「薪……確かにそうかもしれません。よくよく考えたら、先代が誰かの灰を送り忘れるなんてこと、ありえませんもの。お恥ずかしいです。私ったらそんなものを花葬りしていただいたなんて……」

「いえ、おかげで大切なことを知れました。むしろお礼を言いたいくらいです」


 灰慈は涙の跡を拭う。

 火葬の薪に焼き付けられた、哀しき記憶。

 じいちゃんの初めての花葬り。

 あんなことがあったなんて、本人の口からは聞いたことがなかった。

 たぶん忘れたんじゃない、語らなかったのだ。

 花咲師として誇るべき仕事だとしても、幼かった彼の心から大事な何かを削り取ってしまうくらいには強烈な「死」との対面。

 怖くてもいい――初めてじいちゃんの花葬りに立ち会った時、そう言われたのを思い出す。

 あの言葉はじいちゃんの願いだった。

 孫にはいつまでもその怖さを忘れないでほしいと。

 ……たぶん、じいちゃんは幼い頃にその感覚を失ってしまったから。

 拭っても拭ってもぼろぼろと涙がこぼれ落ちてくる。


「すみません。花葬りの時に、じいちゃんの姿が見えて……」


 すっと頬に柔らかい布が触れた。


「使って」


 水川さんが困惑した表情ながらハンカチを差し出してくれていた。

 礼を言って受け取り、火照る瞳に押し当てる。

 その灰慈の頭を撫でる手があった。巫女さんだ。


「改めてありがとうございました。おかげでもう、思い残すことはありません」


 顔を上げる。

 いつの間にか彼女は一輪のヒガンバナを手に取っていた。

 それを水川さんの手に握らせる。


「これはお礼です。どうぞ持っていってください」

「なんで私に……?」

「きっとあなたの役に立ってくれますから」


 巫女さんは微笑むだけでそれ以上は語らなかった。

 灰慈たちに背を向け、風にたなびくヒガンバナたちを見つめる。


「こう見えて、ヒガンバナは少しずつ数が減っているのですよ。彼らの生きたいという強い想いも、時が経てば満たされるのかもしれないと先代はおっしゃっていました。いつか皆が還れる日が来ることを、私は祈っています」


 そうして再び向き直ると、彼女は灰慈と水川さんの背をぐいと押した。


「さあ、もうお行きなさい。お友だちが心配しているようですよ」


 遠くから自分たちの名前を呼ぶ声がした。

 太田と鈴木さんの声だ。

 灰慈は水川さんと共に巫女さんに会釈して、ヒガンバナの花畑を通り過ぎ、細い道を抜けて山道に出る。


「あれ? ヒガンバナが……」


 いつの間にか水川さんが持っていたはずのヒガンバナが消えていた。

 後ろを振り返ってみると、さっき通ってきた道が草木に埋もれて見えなくなっている。


「夢、じゃないよね……?」

「う、うん……」


 木立を揺らす風がやけに涼しく感じたのは、気のせいだろうか。

 呆然としていた二人を現実に戻したのは、水川さんのスマホの着信の音だった。

 彼女は慌ててポケットにしまい込んでいたスマホを取り出す。

 電波の良い場所に出たみたいだ。

 彼女が恐る恐る通話ボタンを押すと、温厚そうな女性の声が聞こえてきた。


『雪乃ちゃん?』


 水川さんの瞳が潤む。


『手術、無事終わったよ』


 水川さんの身体から力が抜けて、へにゃりと座り込む。

 肩を支えてもらっていた灰慈は姿勢を崩して尻餅をつくことになった。

 彼女はハッとして「ごめん」と言うが、灰慈は気にしなくていいと首を横に振る。


(ヒガンバナの想いが、届いたのかな)


 水川さんがお母さんと話すのを横で聞きながら、灰慈はふとそんなことを思った。




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