第20話 家族だからこそ



 洗面所の鏡に、黒い髪の自分が映っている。

 脇に転がる市販の黒染め剤。

 初めてやった時はそれはひどいものだった。色むらはできるし、洗面所のあちこち汚したし、それでいて一週間で元の桜髪に戻ってしまったし。

 何度か繰り返してだいぶ慣れてきた。今回こそは完璧な仕上がりだ。

 だが、そう思うわりに鏡に映る自分の表情は明るくない。


(これは誰だ)


 しょぼくれた顔の鏡の自分に触れる。


灰慈じゃない、どこかの誰かになったみたいだ)


 苦笑いして洗面所を出ようとすると、一番顔を合わせたくない人と鉢合わせた。


「お、おう。また染めたんか」


 じいちゃんだった。

 もう黒染めするようになって二年近く経つのに、未だに顔を合わせるたびに戸惑った表情になる。「うん、黒いのも似合っとる」なんてお世辞を言ってくるけれど、本心では良く思っていないのは明白だった。だから気まずくて、灰慈はじいちゃんのことを避けるようになっていた。


「……別に良いでしょ。今の僕は花咲師でもなんでもないし」


 つい、棘のある言い方を選んでしまう。

 中学に通い始めたばかりの頃、髪色のせいで不良グループに絡まれたことがあった。灰慈が花咲師は生まれつき桜色の髪で生まれてくるのだと説明すると、じゃあここでその能力を見せてみろよと言われた。グループの一人が自宅から勝手に自分の祖父の骨壷を持ってきて、遺灰を突きつけてきた。灰慈は恐ろしくなり、首を横に振って言った。できない。高校生になるまで禁じられているからと。そうしたら女々しいやつだ、能力のこともどうせ嘘なんだろと、不良たちにボコボコに殴られた。

 それからだ。灰慈が髪を黒く染め、できるだけ目立たないように過ごすようになったのは。


「灰慈、その話なんじゃがな……」

「いいよ。どうせ高校生まではダメだって、じいちゃんの考えは変わらないんでしょ」


 灰慈はそう言って、じいちゃんの横を通り過ぎる。

 すれ違いざま、じいちゃんが小さく呟くのが聞こえた気がした。


「わしはただ、わしと同じ想いをさせたくなかっただけなんじゃ……」




 その後、たいして仲良くない同級生とゲーセンで遊んでいた時に、母さんからじいちゃんが倒れたって連絡があって。急いで帰った時にはもう、じいちゃんは息を引き取った後で。

 たった一年前と言っても、あの時はパニックで頭が真っ白だったから意外と忘れてしまっているものだ。

 なんで今急に思い出したのだろう。

 そういえばさっきから頭がズキズキ痛いような……。


「……くん、桜庭くん……桜庭くんッ!」


 強く揺さぶられ、灰慈はハッと目を覚ました。

 全身から土の匂い。

 頭に響く鈍痛と、全身どこか擦ったのかヒリヒリとした痛み。

 そうか、さっき水川さんを追いかけて崖から落ちたんだっけ。

 その水川さんは、目の前にいる。倒れている灰慈の傍らで、糸が切れたようにへにゃりと脱力した。


「良かった、意識が戻らなかったらどうしようかと……」

「大丈夫。そんな大したことないと思う。水川さんは?」

「私は平気。桜庭くんが庇ってくれたおかげで」

「それなら良かったよ……いたた」


 立ちあがろうとして、足に力が入らず再びその場にしゃがみ込んでしまった。


「待って、肩貸すから」

「うう、ごめん」

「謝らないで。謝らなきゃいけないのは、私の方だし」


 水川さんがスッと脇に入ってきて、肩から支えてくれた。花のような甘い香りが鼻を掠める。シャンプーの匂いだろうか。思えば女子とこんなに密着したのなんていつ以来だろう。もしかして保育園のお遊戯以来?


(って、こんな時に何を考えているんだ、僕は)


 静かだと余計なことを考えてしまう。気を紛らわそうと彼女に話しかけようとした時、彼女の方が先に口を開いた。


「ごめんなさい。私の不注意に巻き込んでしまって」


 その横顔は普段の彼女らしくなく、どこかしおらしい。


「気にしなくて良いよ。二人とも大した怪我をしたわけでもないし」


 と言いつつ、歩くたび右足首がズキズキ痛む。たぶん捻ったのだろう。


「そういえば水川さん、スマホは?」

「あるけど……」


 彼女はおずおずとポケットからスマホを出した。どうやら電波は良くなるどころか圏外に入ってしまったようだ。これでは助けを呼べない。ちなみに灰慈のスマホは神社の境内に置いていたバッグの中にしまったままなので手元にはない。

 灰慈は落ちてきた崖を振り返って見上げてみた。

 高さは三メートルもないくらいだが、土が剥き出しになっていてほとんど足をかける岩場がない。ここを登って戻るのは厳しそうだ。

 声を上げれば神社の方に届きそうだが、人の気配がしない。太田と鈴木さんは先にゴミを捨てに行ってしまったらしい。


「ひとまず崖に沿ってぐるっと回ってみようか。神社の表まで出られるかもしれない」


 水川さんは頷いた。幸い、足場はさほど悪くない。整備はされていないが獣道のように踏みならされているので、草をかき分けていく必要はなさそうである。

 彼女の細い肩を借りながら、なるべく足に負担をかけないようにゆっくりと歩みを進める。さすがにこの体勢だし電波も入らないので水川さんはスマホを見るのを諦めたようだ。だが、やはり気掛かりなのか心ここに在らずといった顔をしている。


「あのさ、巻き込まれたついでに聞いてもいい?」


 灰慈は意を決して沈黙を破る。


「どうしてあんなにスマホ気にしてたの? 何か事情があるんだよね」

「それは……」


 何か言いかけて、彼女は言葉を呑み込んだ。

 たぶん、普段なら「桜庭くんには関係ない」と言うところだったのだろう。だが、ここまで来たら「関係ない」では済ませられない。

 水川さんは観念したように息を吐いた。


「私、本当は今日欠席する予定だったんだ。お母さんが手術を受けるから」

「手術って……お母さん、病気なの?」

「うん。乳がんだって。初めは職場で倒れて、過労の疑いで入院したんだけど、よくよく検査したらがんが見つかって」


 水川さんはぽつりぽつりと話しだす。

 がんは思ったよりも進行していて、切除することになった。手術の日程は前々から決まっていたので、その日は欠席する予定だと事前に担任に伝えて了承を得ていた。それなのに、直前になってお母さんの方から学校に電話があったらしい。娘は手術に立ち合わせないから、学校行事に参加させてやってほしいと。それをこの前の班発表の時に知った。だからあんなに驚いていたのだ。


「手術のあいだ何かできるわけじゃないんだから、せっかくの行事を楽しみなさいって、お母さん勝手に決めちゃったみたい。分かってないよね。手術の結果が気になって、楽しめるわけないのに……」


 はあ、と水川さんは俯いた。

 確かにいつもと様子が違うなとは思っていたが、そこまで大変な状況になっていたとは。

 灰慈は改めて思う。水川さんは強い、と。

 自分が同じような状況だったらどうしているだろうか。

 去年、じいちゃんが亡くなった時のことを思い出す。

 突然のことにまず混乱した。嘘だ、夢だと思い込もうとして、でも現実は変わらなくて、次に襲って来たのは激しい後悔だった。最期の最期まで自分の学校生活が上手くいかない苛立ちをじいちゃんにぶつけて、まともに目を見られないまま別れることになってしまったことへの後悔。あの時こうしていれば、ああしていればと考えているうちにも粛々と葬儀が進み、いよいよ火葬が終わった時に感じた無力感。そして、絶望。

 頭が考えることを放棄して、それから一週間学校を休んでしまった。

 この調子じゃ受験に落ちる、高校生になれなければ花葬りもさせられない――そんなばあちゃんの脅しにも似た叱咤がなければ、なかなか立ち直れなかっただろう。

 だから、水川さんはすごい。


「僕だったら、母さんにそんなこと言ってもらえないよ」

「え?」

「たぶん、病気の当事者以上にパニックになっていつも通りの生活なんて送れないから。母さんも放っておけないから学校には行かせず側に置こうとするかも。だから、うん、上手く言えるか分からないけど、水川さんがお母さんに信頼されてるってことなのかなって」

「信頼……。そう、なのかな」


 そう呟く彼女の声は、いつもより一回り小さい。


「早く手術の結果、聞きたいね」


 灰慈がそう言うと、彼女は素直にこくりと頷いた。

 しばし無言。

 思ったよりも道は蛇行していた。神社に沿うように続いているかと思いきや、うねうねと緩やかに山を下り、いつの間にか神社から遠ざかる方向へと歩いている。だんだん不安になってきた。このまま進んで無事山道に出られるのだろうか。二人で遭難するくらいなら、彼女だけでも引き返して落ちてきた崖を登った方がいいんじゃないか。

 周囲を見渡しながらそんなことを考えていた時、水川さんがふと歩みを止めた。

 どうしたの、と尋ねる前に彼女が前方を指す。


「きれい……」


 一筋の風が強く吹く。

 視界を遮っていた長く伸びた草が横になびき、前方に見えたのは少し開けた広場だった。

 中央には赤。赤、赤、赤。

 一面に咲くヒガンバナ。


「嘘、だろ……?」


 灰慈は目をこすり、目の前の光景を疑った。

 だが、そこには変わらずヒガンバナの花畑がある。

 細く糸で編んだような繊細な花たち。それが不規則にゆらゆらと揺れる様は確かに幻想的で美しい。

 ただ、水川さんは気づいていないかもしれないが、ヒガンバナというのはその名の通り秋のお彼岸の時期に咲く花だ。


 つまり今――春に咲く花ではないのである。

 

「あら。お客さんがいらっしゃるなんて、一体いつ以来かしら」


 背後から突然声がして、全身が粟立つ。

 おかしい。さっきまで自分たち以外に人の気配はなかったはずなのに。

 おそるおそる振り返る。

 するとそこには一人、白い着物に赤い袴を着た巫女さんがいた。

 丸眼鏡に三つ編みおさげとどこか古めかしい装いの彼女は、灰慈に向けて親しげな笑みを浮かべて言った。


「お久しぶりです、花咲師さん」



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