第2話 孤独死の老小説家



 孤独死。

 誰にも看取られることなく亡くなること。


 高齢化が進むにつれて年々その数は増加しており、都市部では年間五千件を超えるというデータもある。


 黒古さんの車に乗ること十五分。前方の道路標識に隣町の夏木立町なつこだちちょうの名前が見えた。灰慈たちが暮らす柳田市内の中心部から北に離れたこの辺りには、町内の大学に通う学生が多く住んでいる。単身者向けの安いアパートや、コスパ重視の飲食店が多いのが特徴だ。活気はあるが、市の中心部から離れているせいであまり開発の手が入ることなく、大学の周囲には昔からの田園風景が広がっていて緑が多い。


 やがて車は住宅街の中にある古いアパートの前で停まった。

 築四十年はゆうに超えていそうなアパートだ。壁の黄ばみや錆びた手すりから年季を感じさせる、木造二階建て。アパートの側面に書かれた物件の名前は一部が剥がれていて、本来「緑風荘」なのだろうが、ぱっと見「緑虫荘」に読めてしまう。


「さっきは本当にすみません……」


 灰慈は助手席で頭を抱えて俯いている。

 出発する前、黒古さんから孤独死の現場に向かうと聞いて、つい動揺してしまったのだ。

 孤独死と言うと、どうしても凄惨な現場のイメージがある。

 いきなりそんなご遺体に直面する覚悟ができていなかった、というのが正直なところだった。


「でも、逃げる気はないんだろ?」


 黒古さんが尋ねると、灰慈は頷いて顔を上げた。

 若干青ざめてはいるが、意思のこもった瞳は揺るがない。


「それでいい。さっきは心の準備なんて言ったけどな、そんなの俺だってできてねぇよ。どれだけ回数を重ねてもご遺体に対面する時は緊張する。死ってのはだいたい突然やってくるからな。準備して臨めるようなものじゃない」


 黒古さんは励ますように灰慈の肩を叩くと、ルームミラーを見ながら襟元を正す。緩んでいたネクタイを結び直し、ワックスで髪を撫でつければ、先ほどまでのうさんくささはどこへやら、清潔感のある葬儀屋の姿へと早変わりした。


「ま、あんまり心配すんなよ。今回はもう納棺まで済ませてあるから、故人様の状態をの当たりにすることはないぜ」

「な、なんだ。先に言ってくださいよ」

「ただは着けときな」


 渡されたのはマスク。

 その理由は故人が眠る部屋の扉を開けてすぐ痛感することとなった。




「うぐっ、ぐぉぇぇぇぇっ」

「おーい灰慈くん、あんま汚すなよー?」


 部屋の扉を開けてすぐ、鼻をついたのはこれまでに嗅いだことのない強烈な腐臭だった。


「これでも、最初の半分くらいにはなったんだけどな」

「そ、そうなんですね……」


 黒古さん曰く、遺体を処置しても家具や部屋に染み付いた臭いはなかなかすぐには無くならないらしい。

 ひとしきり胃の中のものを吐いた後、灰慈はようやく部屋の中に入ることができた。だんだん鼻が慣れてきたのか、扉を開けた時ほどは死臭を感じない。靴を脱ぐ前に玄関で手を合わせて一礼すると、すでに部屋の中に入っている黒古さんの後を追う。


 部屋の中は昼間であるのにも関わらず、ほとんど光が入らないのか薄暗い。だが、思っていたより綺麗だった。フィクションで描かれるようなゴミの散らかった汚部屋ではなく、むしろ生活感を感じさせないワンルームだ。

 日用品はほとんど置かれておらず、唯一あるとすれば一口コンロの周りに積まれたカップ酒の空き瓶くらいだろうか。

 部屋の大半を占めるのは「本」だ。壁や窓を覆い尽くす本棚と蔵書の数々。ほとんどが歴史小説や純文学といったジャンルのもの。本棚には収まりきらず、部屋の中央に鎮座する白木の棺の周りにもいくつか本の山が並んでいて、一階でなければ床が抜けてもおかしくないほどの数だ。


「すごい量ですね。読書家だったのかな」

「読書家というか、小説家だったらしいぜ」


 黒古さんは棺の傍らの本の山から、一冊の古いハードカバーを手に取った。表紙に書かれている著者名は「時ノ森金雄ときのもりかなお」。

 正直言って、全く聞いたことのないペンネームである。


「すみません、僕こういう難しそうな本はあんまり読まなくて」

「俺もだよ。大家さんに聞くまで知らなかった。なんでも四十年くらい前に純文学の賞を獲ったこともあるらしい。ただ、その後はなかなかヒット作が出なくて、バイトしながら細々と書き続けていたそうだ」

「そうだったんですね……」


 本名・金森時雄かなもりときお

 享年、七十五歳。

 死因は心臓発作による突然死。


 発見したのは大家だった。

 普段は彼女が経営しているスナックに入り浸っていたそうだが、数日顔を見せなかったので不審に思って部屋を訪ねたところ、すでに亡くなっていたらしい。


 故人に家族はなく、親戚にも先立たれている。

 身柄を引き取ってくれるほど親しい知人もいなかったため、今回はご遺族なしで火葬だけ行う「直葬」となった。


 灰慈は棺の側に積まれた彼の著作を何冊か手に取ってみた。

 最初の本が出たのが四十年前。それから徐々に刊行年の間隔が空いていき、本になったのは三十年前が最後。以降は文芸誌に何度か短編を掲載しているみたいだが、それも五年前で途切れていた。

 薄暗い部屋の中を見渡せば、隅の方に丸まった紙が押し込められたゴミ袋がある。原稿用紙のようだ。世に出ることのなかった彼の作品だろうか。そう思うとやるせない気持ちになる。


 だが、黒古さんの言った通りほとんどの死は突然訪れるものだ。


 栄光の最中さなかに亡くなる人もいれば、鬱屈した日々の中で息を引き取る人もいる。

 どちらがいいかなんてあらかじめ決められることではないし、のこされた人々が決められることでもない。


(金森さん本人は、どう思ったんだろう……)


 棺の中で眠る故人に思いを馳せる。


 しばらくして、黒古さんが「さて」と立ち上がった。


「これから火葬場に移動する前に副葬品を選ぼうと思うんだが、灰慈くんも手伝ってくれないか」


 灰慈は「もちろんです」と頷く。

 副葬品とは、棺の中に入れて一緒に火葬するもののことだ。

 故人が好きだったものを入れることが多いが、何でも入れていいわけではない。燃えやすいものにしないと、火葬の時に支障が出るのだ。例えば本は意外と分厚いものだと燃えにくかったり、水分の多いスイカみたいな果物は燃焼を妨げる原因になったりするという。


 灰慈は部屋の中を見て回り、故人の思い入れがありそうなものを探す。


 小説家だ、当然本人の書いた本は入れるだろうが、一冊が限度だろう。他に何か入れられそうなものはないか。お酒が好きな人だったようだが、酒瓶は火葬中に割れてしまうので入れてはいけないらしい。しかしそれ以外となると……


 もう一度狭い室内を見回す。

 部屋中全体、本の山。

 中央に置かれた棺が肩身狭そうに見えるくらい、足の踏み場がない。と、思ったそばから灰慈は積んであった本の角に足をぶつけて悲鳴を上げた。


「ちょっと暗くて見づらいよな」


 黒古さんがそう言って部屋の電気を点けた。

 むしろなぜ最初からそうしていなかったか疑問に思ったが、次の瞬間にはそれが彼なりの配慮だったと分かる。


 部屋の奥にある小さなちゃぶ台机。

 亡くなった老小説家が原稿を執筆するのに使っていただろうそこには。


 机と座布団の上に、人の影をそのまま落としたような黒いシミがあった。


「こ、これって、もしかして……」

「ああ。金森さんはここに突っ伏すような姿勢で亡くなっていたんだ」


 鮮烈に人の死を見せつける痕跡。

 慣れない光景に再び込み上げてくる吐き気を抑えながら、灰慈はおそるおそる机に近づいた。そこに彼の大事なものがあるのではないかと思ったのだ。

 机の上には紙のようなものが見える。書きかけの原稿だろうか。


 だが、手に取ってみるとそれは灰慈の思っていたものとは違っていた。

 ……それどころか。


「どうした、灰慈くん。何か見つけたのか?」


 唖然とする灰慈の側に黒古さんがやってくる。

 灰慈は手に取ったものを黒古さんにも見せた。


便箋びんせん?」

「はい。書きかけの手紙みたいなんですけど、宛名が」

「うお、確かに。どういうことだ、これ……」


 亡くなった老小説家は天涯孤独の人。そのはずなのだが。


 手紙の書き出しはこう始まっていた。




 〈お母さんへ〉と――。



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