第4話 神の降臨

 午前九時、例年通り、事務所の前で尾崎町会長が挨拶した。

 今年は征志が大太鼓の撥を握っている。泰芳は下から見上げ、山車を押す係だ。

 五人囃子が笛を吹き、征志が真剣な眼差しで、気合を入れて、どんどんと太鼓を叩く山車が発進した。子供神輿、女神輿、男神輿と、いつもの順で町会神輿が次々と立ち上がる。

 三騎の神輿は小学校の前の路地を通り、やがて馬道通りに出て行った。

 五月はいつもの通り、女神輿の調整役だ。先頭で神輿の進み具合を調整し、発破を掛けた。甲高い掛け声が響き、姐さんたちの粋な神輿が進む。

 濁声(だみごえ)とか、勇ましい声とか、いろいろ言われるが、男のような声だと我ながら思う。気合は十分、青年部の幹部になって、いよいよ貫禄がついた気もする。

 男神輿を見やると、早くも匠が照人を肩車しながら神輿の先頭を担いでいた。

 照人は二歳半、すくすく育って体重も重くなり、昨年と比べると、軽々と担ぐわけには行かない様子だ。しかし、初めての経験で緊張していた去年と比べると、大分心の余裕を持てるようになったらしく、落ち着いた表情で担いでいる。去年より力が抜けているせいか、花川戸の路地から馬道通りへ出ても、照人を肩車したまま、神輿を担ぎ続けた。

 朝のうちはまだ肌寒いが、午後は西日の照り返しがきつかった去年よりも楽に担げるだろう。神輿は馬道通り、浅草駅の交差点、浅草通りに入って雷門へと練り進み、昼前に休憩に入った。

 朝は雲一つない晴天だったが、その頃から空模様が怪しくなってきた。焼きとうもろこしを食べていると、雨粒が、一つ、また一つと落ちてきて、頭に、頬に感じた。

 照人が「雨、雨だ」と上を見上げて叫んでいる。

 葉月は雨しずくに濡れないように、茜をかき抱いた。

「降って来たね」

「予報通りね。雨合羽、持ってきたから大丈夫」

 この時節の天気は、比較的不安定だ。からっと五月晴れになる日もあれば、急に雨になることもしばしばで、一日の内で天気がころころ変わるときもある。

 祭一色の群衆も、屋台の周りで腹ごしらえをしながら、時々空を見上げている。

 腹ごしらえが済み、いよいよ午後の渡御が始まった。

 五月は、茜の顔を覗き込んだ。

「じゃあ、おばちゃん、行って来るぞ。また後でな」

 茜の小さな手に太い自分の指を添えて、指切りげんまんをした。

「あたしが呼んだら、来いよ」

 葉月に声をかけると、ずんずんと神輿に向かって歩いた。

 女神輿が再び担ぎ上げられ、女衆は浅草寺参道を目指して雷門の一つ東の観音通りを入って行った。甲高い掛け声が、観音通りのアーケードに反響する。次第に大粒の雨が落ちてきているらしく、雨粒がアーケードの屋根を叩く音との合奏だ。

 姐さんたちの高い声、群衆の男たちの太い声が、混然と入り混じっている。まるで掛け声と雨音の洪水の中に身を浸しているかのようだ。

 五月は音頭を取りながら、恍惚とした気分になってきた。神が天上の世界から降りてきて、何事かを語り掛けてくるかのようだ。五月の気持ちを迎えてくれるかのように、頭の高さに担ぎ上げられていた神輿が足元に降りてきた。

 皆が五月を神輿の上に担ぎ上げた。

 五月は両足を踏ん張って、中央の二本の担ぎ棒の上に乗った。揺れる神輿の上でバランスを取るのは、至難の業だ。男同然に育って、学校時代から運動は何でも得意だったけれど、そうでなければ務まらない役かもしれない。

 浅草娘たちが担ぐ神輿の上で、五月は仁王立ちで立ち続けた。

 揺れる神輿の上で、自由に身をこなす五月を、皆が「さすがは五月」といった表情で、見つめているのが分る。

 腰に差した扇子を抜き、両手に取って一杯に広げた。扇子を高く挙げ、大きく交互に振り翳した。太い威勢のいい声で、担ぎ手の女衆を鼓舞しながら、波がうねるように大きく左右に扇子を打ち振った。

 家族に、花川戸の仲間たちに、見物客の全てに見つめられているのを感じた。

「いなせじゃねえか」「伊達だねえ」

 人々が口々に賞賛する声が聞こえてくる気がした。

 神輿の横に、葉月が近寄ってくる姿が見えた。葉月に抱かれた茜の表情も輝いて見える。心配していたような、喧騒の中でパニックになる事態は全くなさそうだ。

 葉月と目が合った。五月は二本の扇子を畳んで腰帯の両側に差すと、葉月に向かって右手を伸ばし、掌を上に向けて手招きした。

 こっちへ来い! もっと寄って来い!

 ためらっている葉月に頷きながら、再び手招きをする。

 葉月は茜を抱いたまま、否応なく引き寄せられるかのように、近づいてきた。

 両手を差し出す五月に呼応するように、葉月は神輿に向かって身を乗り出した。ひたむきさと不安とが混じりあった表情で、茜を差し出す。

 女衆たちの手から手へと、茜は手渡され、最後に五月に向かって差し出された。

 五月は茜を胸の前で確かめるようにしっかりと捧げ持った。群衆へ向けて、茜を両手で高く神輿の上に差し上げた。

 掛け声は最高潮に達している。アーケードに響き渡る、阿鼻叫喚とも言えるような声に、観客も恍惚とするばかりだ。

 茜は浅草の神々に祝福されている。辛い出生だったが、この子はこんなにも神に、  人々に、愛されている。だからこそ生き延びたのだ。

 匠が男神輿のほうから、人々をかき分けて近づいてくるのが見えた。葉月は夫の腕を取り、寄り添って我が子を見つめている。二人とも胸が一杯だろう。

 神輿の上に掲げられた茜は、どんな表情をしているだろう。

 喜んでいる? はたまた恐怖に顔を引きつらせているのか?

 そのとき、五月は喧騒の中で茜が笑う声を聞いた。

 きゃっきゃっ、と笑いながら、何か喋っている。

 これまで、片言さえ口にしたことはなく、ほとんど笑ったこともなかったのに。

 いつもの激しいひきつけるような泣き声は、今のこの子には無縁だ。五月には、茜を神輿の上で掲げていたわずかな時が、延々と続く永い時間のように思えた。

 茜を女衆に渡し返すと、葉月が受け取り、胸にかき抱いた。

 匠と葉月に手を振られ、群衆に見送られ、五月は神輿に乗ったままアーケードから出た。

 外は結構な雨脚になりつつあった。神輿が参道の仲見世通りへ向かう頃には、担ぎ棒が濡れて滑りやすくなっていた。

 五月が皆に向かって掌を下に向けて合図すると、神輿がゆっくりと下された。

 五月は地面に降り立ち、「よくやった」とばかり、担ぎ棒をぱんぱんと叩いた。自分を支えてくれた担ぎ棒を、いとおしく感じた。

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