第3話 姉妹の仲直り

 土曜日の各町氏子神輿連合渡御の当日、五月は早々に起きて、祭支度に勤しんでいた。

 ベランダに出ようとすると、隣の鵜飼家のベランダで匠と葉月が話している声が聞こえた。耳を澄ますと、会話が聞こえてくる。

「心配するのはもっともだけれど、まずは連れて行ってみようよ」

「分ったわ。あなたがそこまで言うんじゃ仕方ない。今年も皆で、祭に出かけましょ。でもこの子は私がずっと抱いているわ。あたしが守る」

 五月がゆっくりとベランダに出ると、音を聞きつけて、話し声が途切れた。

 匠が「おはよう、五月」と声をかけてきた。

 挨拶を返すと、匠にせっつかれたか、葉月も「お姉ちゃん、おはよ」と挨拶した。

 五月は少し度肝を抜かれた。葉月にお姉ちゃんと呼ばれたのは、高校生の時以来か。

「気合い入ってる?」

「あたぼうよ」

 葉月が「この間はごめんね」と謝るので、「何が?」ととぼけると、お風呂の菖蒲の鉢巻の件だと答えた。

「茜はあんな子だから、つい、言いすぎちゃって」

「いいんだよ。母親だもの、当然さ。あたしこそ、ごめんよ。後で後悔したよ」

 意地の張り合いをやめて素直に謝れたので、気持ちがすっと晴れた。葉月も同様なようで、ベランダの境の向こう側から、安心の笑顔が見えるような気がした。

「いよいよ今日ね。うちの旦那から聞いたわ。茜をよろしくね」

「勿論さ。茜ちゃん、元気にしてる?」

「まだ寝てるわ。でも今日は一日中曇りだって。降水確率六〇%。午後からは雨らしいわよ」

今のところ晴れているが、天気予報通りなら、五月晴れとは行かなそうだ。

「雨も一興さ。祭は天気によらねえんだ」

「青年部の幹部だもんね。頑張って」

 五月は茜の顔を見たくなり、祭り支度を済ませると、鵜飼家に行った。

 葉月が布団にくるまっている娘を起こし、抱き上げて呼び掛けると、茜が目を開けた。

 この頃は体幹部や手足の皮膚が割れたり、落屑が出ることはあっても、顔の皮が浮くことはほとんどなくなった。それでもアトピー性皮膚炎のように顔の肌は赤々としており、毎日、軟膏を塗っている。

 五月が手を伸ばすと、葉月があやしながら茜を手渡した。すると茜は五月の胸にぺとんと抱きついた。これには驚いたし、嬉しくもあった。ぎゅっと抱きしめてから、「茜ちゃん、今日は皆でお祭りに行こうね」と声をかけ、歩行補助器に座らせた。

 そのとき、嘉彦が篠笛を持って入ってきた。おはようの挨拶を交わし、鵜飼家のソファに腰を下ろすと、唇に笛を当て、『仕丁舞』を奏し始めた。茜の目を見つめ、目を見開いて、おどけながら楽しそうに吹いている。

 茜は祖父が笛を吹く姿を見つめていたが、歩行補助器に座ったまま、そろそろと近づいた。皆、その様子を驚きの表情で見つめた。普段は歩行補助器に座らせても、ただじっとしているだけで、まず自分から体を動かそうとはしないのに。

 祭囃子の音に、お腹の中にいたときを思い出したのだろうか。祭囃子の笛の音を聞いて蹴るとは、五月みたいなやんちゃな女の子になるだろう、と思ったものだ。

「茜が、憧れの目でお父っつあんを見てるよ」

 五月の言葉に嘉彦は目で頷き、なおも篠笛を奏し続けた。

 葉月は安心した表情で、照に子供用の祭服を着せてから、自分も祭支度を始めた。紺色の作務衣に、「花二」と染め抜かれた薄茶色の印半纏を羽織り、額に女物の細い鉢巻をきりきりと締め付ける。整った顔立ちの葉月には、よく似合った。

 葉月の祭り支度は五月とは別の意味で、格好いい。決まっている。

「いよっ、いい女!」と声をかけたくなる。

 匠は去年と同じく、上下の濃紺の作務衣に薄い青緑色の半纏(はんてん)、頭に捻り鉢巻きを締めた。

 照人も去年と同じく、幼児サイズの紺色の上下の前掛けと股引に赤の半纏姿だ。

 茜には、照人よりさらに小さな赤い法被を着せられた。葉月に抱かれてあやされると、赤い法被に身を包んだ茜は珍しく顔をほころばせた。

「葉月、匠さん、後でね」

「いい日になるといいわね」

 五月は「いい日になるさ、勿論」と答え、自宅に戻り、最近購入した扇子を二本、腰に差して家を出た。

 町会事務所に着くと、町会長はじめ、お歴々に挨拶し、青年部にも一通り挨拶して回った。

 やがて母と鵜飼一家がやってきた。

 照人は赤い法被に身を包み、きゃっきゃっとはしゃぎながら、大きく足を開いて鉢巻きをぶんぶんと振り回す。去年は緊張気味だったが、今年はすっかり慣れてリラックスしているようだ。

「照坊主、法被、よく似合うぞ」

 五月が声をかけても、照人は聞こえたのかどうか、相変わらず笑顔で鉢巻きを振り回している。祭り囃子の笛の音に調子を合わせて踊っているつもりらしい。

普段は目の焦点が合わず、ぼーっとした表情のことが多い茜が、今日はきょろきょろと周囲を見回している。茜がこんなに興味津々にしている様子を見るのは初めてだ。『お腹の中にいるときに聞いた音は、これだったのか』と思ってでもいるかのようだ。

 今年は一日中快晴だった去年よりも涼しく、冷え込むくらいだ。

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