第2話 菖蒲湯

 今年もまた、三社の季節が近づいてきた。

 祭を来週に控えた五月五日、街路には、鯉のぼりが風にたなびいている。

 西堀の家でも玄関の表に小さな鯉のぼりを飾り、夜は、子供たちの端午の節句を祝った。男の子の節句だから祝われるのは照人だが、茜も一緒に祝うことになった。出生時の困難を切り抜けてから、茜は何事につけても祝われていた。

 五月は菖蒲を数本買ってきた。子供たちを風呂に入れながら、菖蒲鉢巻をさせようという目論見だ。匠は、日本の男の子の伝統儀式に諸手で賛成したが、葉月は五月の提案に気が進まない様子だった。

 その理由については想像がついた。照人も、茜も、祝い事で儀式ばったことをされるのが好きでないらしい。現代っ子の特徴だろうか。

「うちの子供たち、いつもと違う状況って苦手なのよ。照ちゃんはまじめな性格のせいか、怖がりなのか。茜はああいう子だから、なおのことね」

 母は冬至には毎年、体が芯から温まる柚子湯にしており、そうして育てられた葉月も、昨年の冬至の日、バスタブに柚子を数個入れた。すると、その光景を見た茜はひきつけたような金切り声で泣き出し、照人も「みかん、みかん」と抗議の声を上げながら、柚子の実を一つ一つ、湯船から洗い場へ抛り出したものである。照人は、湯船につけてあるべきでない食べ物が湯船に浮いている状況が許せないようだった。

「柚子はだめだったから、菖蒲もだめじゃないかなあ」

「大丈夫。子供は健康に育つために、昔から菖蒲の湯に入れるもんだ」

「茜は女の子よ」

「端午の節句にゃ、女の子だって男のやり方を真似するものさ。五月だってそうだった」

 五日の夜、五月は「今夜は面白いお風呂だよ」と話しかけながら、茜を抱っこした。

 二人の子供は元々風呂好きで、普段から五月が入浴させてやることがしばしばだ。

照人は燥ぎながら手を引かれてついてきた。茜は機嫌よさげに抱かれている。

 町会青年部の幹部になってからというもの、仲間と酒を飲んで帰って来ることが多い。この頃、酔って帰ってくると遊び心も手伝って、子供たちの襟口を片手で掴んで運んだりするので、葉月に叱られることもあった。

 しかし今夜の二人は落ち着いており、葉月も安心した表情だ。

 バスタブにはあらかじめつけておいた数本の菖蒲が湯船に浮かんでいる。いつものように子供たちの体を洗ってやってから、子供たちと一緒にバスタブにつかった。

 照人のおでこに菖蒲を巻こうとするが、果たして、嫌がって外そうとする。

「照坊主、それは男の子の大事な決まり事なの。立派な男の子に育つために、必要なんだよ。おとなしく巻いてな」

 五月が外さないように、おでこを抑えたところ、照人は嫌そうに顔をゆがめて後ろを向いてしまい、バスタブの洗い場側の壁にしがみついた。

 さて、次は茜ちゃんだと言いながら、抱っこして頭に菖蒲を巻こうとした。すると、兄がなされる様子をまじまじと見ていた茜は、菖蒲に恐怖の目を見張り、ギャーッと叫ぶような声で泣き出した。それでも巻き付けると、何とか端午の節句に相応しい子供たちの図が出来上がった。泣き声を聞きつけて佐保子がやってきた。佐保子でよかったと思いつつ、「早く、早く」とせかした。

「早くって何を?」

「写真だよ、菖蒲鉢巻の写真」

 佐保子は早速デジカメを持ってきて、菖蒲鉢巻を巻かされている子供たちと、子供たちを抱いている五月を写真に撮った。

 子供たちをあやし、宥めていると、バスルームのドアが開いて葉月が入ってきた。

「何の騒ぎ? すごい泣き声」

 葉月はバスタブで五月が子供たちと格闘している姿を見ると、唖然とした表情で目を見開いた。

 照人は後ろを向いてバスタブの仕切にしがみつき、顔を歪めている。

 茜は頭に菖蒲鉢巻を巻いたまま大泣きして、自分で自分の頭を、何度もぶっている。これは自傷行為に当たり、自閉症の特徴の一つだった。茜は繰り返し自分の頭を打ち、自分を痛めつけることで、心の中の絶望を表現しているのか。

「何事かと思えば…。五月、何やってるのよ!」

 葉月は怒りを露わにしている。

「それに、お母さんまで。何で写真なんか、撮ってるの!」

 すっかり決まりが悪くなってしまった。

「昔から菖蒲鉢巻は、頭痛や神経痛によく効くし、頭がさえるって言われてるんだよ。この子にも、いいんじゃないかと思ってさ」

 ばつが悪く、笑顔で誤魔化しながら茜の頭を撫でた。しかし、茜の知能にいいだろうという言葉は却って葉月の神経を逆撫でする結果となった。

 葉月は五月の子供の扱い方への不満を爆発させた。

「何、馬鹿言ってんのよ! この子の絶望が分らないの? 菖蒲鉢巻なんか、この子の頭にいいわけないじゃないの」

「昔の人の知恵は大切さ。でもいいよ。それならもうやめだ」

 葉月は、つけつけと五月の顔を見て、皮肉たっぷりに言った。

「可哀そうね、五月。子供を産んで育てたことがない人は、抱き方も分からなくて困るよ。そんなに菖蒲鉢巻なんかやりたきゃ、自分の子供にやりな!」

 葉月は茜を湯船から引き揚げ、頭に巻いた菖蒲の葉を外してタオルにくるんだ。

 五月は妹の顔をじっと見たが、下を向いて呟いた。

「分ったよ。もう二度とやらねえよ」

 腕組みをして湯船に浸かり、目を瞑ると、そっぽを向いた。

 その日から、五月は葉月と口をきかなくなった。あえて謝りもせず、口をきかないままでいた。玄関の前で会っても、お互いに目を逸らせた。

 五月たちの頑なな態度は、三社祭の週に入っても変わらなかった。

 明日はいよいよ町会神輿渡御の、金曜日の夜、町会での打ち合わせを終えて家に帰ると、匠が西堀の家にやってきた。匠がこんな顔をしているときは、決まって相談事だ。

 匠はソファに座ると改まった口調で話し出した。

「茜に三社祭を見せてやりたいと思うんだ」

 五月は両手を広げ、大いにいい考えだと思うよ、という素振りで、おどけてみせた。

「あたしは賛成だよ、勿論。お祭り娘だからね。でも葉月が承知しないだろう?」

娘というには、少しとうが立ってしまったが、五月の気持ちはいつでも若い。

「そうなんだ。この数日、説得しているんだけどね。逆に、茜が三社の騒がしさをどれほど怖がるか真面目に考えてるのかって、叱られちゃうんだよね」

「匠さん、この間はあたしが悪かったよ。日本古来の儀式だからって、ああいう子供に無理強いしたのはまずかったな」

 五月の反省の弁に対し、匠は、そうかな、と疑問を返した。

「五月の気持ちはありがたかったと思ってるよ」

 上辺で言っているのではなさそうだった。

「あの子に良かれと思ってしたことだ。三社は三社で、また別さ。去年の三社、覚えてるだろ? 照はあんなに燥いでいた。神輿に乗せられ、両手を上に突き上げて喜んでいた。俺にとっても、すごく嬉しかったよ。五月のおかげだ」

 そう言われて悪い気はしない。あのときは、家族全員が照人の三社デビューを喜んだ。だが茜の場合は話が別だろう。

「難しい子だからね。またこの間みたいなことになるかもしれないし」

匠は首を横に振った。

「菖蒲はあの子にとって直接肌に触れる異物だった。確かに失敗だったよ。でも祭りは違う。ああいう子だからこそ、神様に守ってもらいたいんだ。連れて行ってみなければ、騒ぎに耐えられないかどうかなんて分らない。お腹にいるときから、祭囃子を聞いて葉月のお腹を蹴った子だ。きっと何かあると思う」

「可哀そうな生まれの茜だからこそ、浅草の神様に祝福してもらいたいってことだね?」

 匠は頷いた。

「茜はどんな反応をするか、祭りを見せて、見てみたい。五月に感化されたのか、俺も浅草っ子の感性になりつつあるのかな」

「匠さんが下町に馴染めるかなあって、正直、不思議だったけどね」

「『浅草じゃあ、赤ん坊は首が据わったら神輿に乗っける』って五月が言ったんだぞ」

 そう言われたら、自分の言葉だけに、後には引けない。

 子供の日の葉月との喧嘩など忘れよう。もっとも葉月がどう出るかだけれど。

「あいよ、引き受けた」と快く返事した。

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