第3章 祭は巡る

第1話 茜の回復

 新しい年が明け、季節は巡り、桃の節句が過ぎた。

 茜が生まれてから、半年あまりが経っていた。

 予定より一か月早く生まれたためか小柄だが、食欲旺盛で、成長自体は順調だった。運動の発育は遅めだが、はいはいを始めるようになっていた。運動の発育が遅いことについては、皮膚が痛いせいだろうと家族は考えていた。肘や膝などの関節部や、踵などの皮膚の突っ張るところはなお赤く割れて痛々しかったが、魚鱗癬の皮膚症状を除いては、特に大きな病気もせず、元気な赤ん坊だ。

 通常と極めて異なる出産をし、涙にくれた産褥期を過ごし、命の危機に曝された新生児期を見守ったせいか、葉月の茜に対する溺愛は尋常ではなかった。

 一日中ベビーベッドの横に座り、授乳し、おむつを替え、魚鱗癬の治療薬の高価な内服薬のシロップを注意深く飲ませた。元看護師だけあって、匠が買ってきた皮膚科の専門書を首っ引きで読み、この疾患の患者の症状、治療、予後について、懸命に勉強している。

 佐保子は鵜飼宅に日参して、何くれとなく茜の世話を焼いた。元々大のつく子供好きで、特に赤ん坊の世話を焼くのが好きな上、葉月の娘への愛に引きずられているせいか、一日の多くを鵜飼宅で過ごした。

 それまで母の愛を独占していた照人は煽りを受けて、とかく放っておかれがちになり、五月や嘉彦に構ってもらっていた。五月の目から見ると少し気の毒に見えた。

 ある日、鵜飼の家へ行ってみると、ギャーッという金切り声のような泣き声が聞こえる。

 茜がぐずっているようだ。「恐竜ちゃん」と小児病院で呼ばれていたくらいで、泣き声は元から大きいが、気になることにひきつけを起こしたような声のときが多い。

一度泣き出すとその金切り声がいつまでも治まらないので、葉月でさえ持てあますことがしばしばだ。喜怒哀楽のうち、怒と哀の表現が強く、喜と楽の表現がないように思えた。子供好きの母が、根気よくいつまでもあやし続けて、漸く治まるという具合だ。

 中へ入ってみると、葉月が茜を抱っこしながら、「よしよし」とあやしていた。母が両手にガラガラを持って、赤ん坊の顔を覗き込みながら、宥めようとしている。

「どうした?」

「わかんないわ。さっきから、こうなのよ。どこか調子が悪いのかしら」

 葉月は途方に暮れた表情で、それでも笑顔を作ってあやし続けている。

 そうだ、と思いつき、西堀の家へ飛んで帰った。嘉彦に「馬鹿囃子のお面はどこか」と訊いて、納戸の奥からおかめとひょっとこの面を取り出した。仲見世のほうの町会の山車で使っている馬鹿囃子のお面を、以前、友人から貰ったものだ。

 再び隣へ取って返し、満面の笑みで、泣いている茜に近づくと、おかめの面をつけ、「ほっ、ほっ、ほっ」と声を上げながら踊ってみせた。

 茜は何だろうと思ったらしく、泣くのをやめて五月を見ている。

「ほら、面白いわね。五月のおばちゃん、おかしいね」

 葉月が、五月の踊りと茜の顔を見比べながら語り掛ける。赤ん坊なら笑いそうなものだが、茜は五月が踊り回っているのを見ても、じっと見ているだけで反応しない。

むしろ横で見ている佐保子と葉月のほうが、けらけらと笑っている。

 そこで今度はひょっとこの面をつけて同じようにやってみるが、茜は興味深そうに見詰めてはいるものの、相変わらず笑わなかった。

 五月はお面を外して、腰に手を当てた。

「面白がらせようとしたのに、難しいな」

「大泣きするのはやめたから、上出来よ。ありがとう」

「赤ん坊とは、こういうもんかね」

 茜を見詰めながら、葉月は溜息交じりに呟いた。

「この子、難しいわ」

 単純な表現だが、茜を育てる葉月の苦労が偲ばれた。

 茜の顔を覗き込むと、どこを見ているのか分らないが、横目でこちらを窺っているようでもある。

「お肌、随分良くなってきたよね」

 葉月は茜のベビー服をはだけ、胸や足を示してみせた。

 まだ全身がかさかさしており、碁盤目様の細い皺と特有の光沢が見られ、膝や足首や指の股などの関節では、皮膚が割れてなお痛々しい。しかし時間の経過と共に、全身の皮膚が乾いてきつつあった。

「肌が痒いんで、ぐずるんじゃないのかな」

「そうかもね。魚鱗癬様紅皮症のほかに、アトピーもあるみたいなのよね」

「小児病院には、定期的に通ってるんだよね?」

「うん。小児科の先生の診察でも、感染の心配はもうないだろうって」

 それはよかった。葉月の苦労を分け合いながら、何とかこの子を皆で育てよう。

 五月は赤ん坊の横顔を見詰めた。


 桜の季節が過ぎたある日、五月と匠が照人と遊んでいると、匠がぼそっと呟いた。

「茜について、とても気に懸かっていることがある。泣き叫ぶ以外、いつも無表情なんだ。どうしてだろうか?」

 匠は腕を組んで考えている。五月は下手なことは言うまいと黙っていた。

「こちらを見ているけれど、真直ぐ見詰めるんじゃなくて、ぼんやりと顔を向けているだけだ。俺が笑い掛けても、あやしても、笑顔を見せないし、目が合っているのかどうかもよく分らない。目を合わそうとしないようにも見える。斜視のわけではないけれど、相手を見ないようにしながら、少し視線を外して見ている」

 実は五月も内心同様に感じていたので、そう思うことがあると同意を伝えた。

「匠さんが恐いのかもしれないよ」

 冗談めかして言ったが、匠は首を捻っている。

「なかなか寝返りをしないし、首が据わっても自分から動こうとしない。個性なのか、異常なのかって、小児の発育障害を評価するときによく言われるけどね。男の子の照人との違いなのかなあ」

「いつか照坊のように、朗らかに心を開くようになるよ」

 匠は頷いたが、「葉月が、なかなか俺の意見を聞こうとしない」と愚痴を言った。ちょっと変わった子だが、それはそれでこの子の個性であって、この子なりに順調に育って行くのだろう、と自らを納得させているようだった。

 匠から相談されて以来、五月も看護師の目で茜の日常生活を観察するようになった。確かに茜は何を見ているのか定かではないような、ぼんやりとした目をしている。そんな茜の様子は可愛いようでもあり、少し物足りないような気もした。

 赤ちゃんて、あやすと笑うものだし、歌や踊りにはよく反応するものだが、この子はにこりともしない。何故なんだろう?

 葉月があやしたり、話し掛けたりすると、母親の顔だけはじっと直視する。葉月の次に反応するのは、佐保子に対してだった。また、おすわりや、掴まり立ちをするようになってから気がついたことに、茜は窓ガラスや壁に頬をつけ、そこから斜に眺めるのを好んだ。遊んでいるようにも見えるが、変わった遊び方をする子だなと思っていた。

 一番気になるのは、いつまでも言葉を喋らない現状だった。生後二か月で退院し、もうかれこれ半年以上になるのに、片言も話さない。

 あるとき、葉月に話を向けてみた。

「匠さんが心配してるようなんだけどさ、茜ちゃんは、どうしていつまでもほとんど喋らないんだろう?」

 葉月は下を向いて、むくれた顔をした。「その話はしてほしくない」といった雰囲気を葉月の態度から感じた。

「赤ん坊だって、その子の特徴があるから。この子は無口な性質なんだと思うわ」

「照坊のときと違うから、心配だってさ」

 葉月は、きっとした表情になった。

「もういいわ、その話は。『いろんな点で発達が遅い。皮膚疾患に、知的障害を合併してるんじゃないか』って言うんでしょ。もうたくさん」

 葉月ははっきりした口調で意見を述べた。

「知的障害なんてこと、ないわ。この子はなかなかの別嬪だし、生まれたとき、大変な苦難を乗り切ったんだから、とても強い頑張り屋の子なのよ。あんな状態だったんだもの」

 葉月は、茜の出生時を思い出したのか、目に涙をためた。涙を拭う葉月の姿に、どんなに辛かったろうと思うと、それ以上、赤ん坊の発達についての意見は言えなかった。

 非常に繊細な内容の話題だから、親でもない五月が口出しすべきことではない。

「そりゃそうだね。よく生き延びてくれたものね」

 しかしその後しばらくして、匠が抱いていた疑問に答えが出る日がやってきた。

 それは定期的に診察を受けている小児科担当医に相談した日の夜だった。

 佐保子が鵜飼家に呼ばれ、葉月が泣きながら強い口調で何事か主張し、匠と佐保子が宥めているらしい様子が隣から聞こえてきた。

 佐保子が帰ってくると、葉月と一緒に泣いたらしく、目の周りを赤くしている。

「どうしたの?」と尋ねると、佐保子は話し始めた。

 その日、匠と葉月が、茜を連れて小児病院へ定期の診察を受けに行き、匠が主治医の中川純雄と一対一で、茜の知的発育について折り入った話を聞いた。その結果、匠の疑問について、純雄も同じ意見を持っていることが分ったという。

「知的発達には個人差があり、中には正常なのに一年以上、全く話さない子もいる、あくまで生後八か月の現時点で窺われる可能性の話」と前置きした上で、純雄は、茜の現時点での特徴を数点取り上げた。壁や窓ガラスに自分の顔をつけて横を眺めるなど、茜には自閉症児の典型的特徴があり、皮膚疾患に加えて知的障害を合併している可能性が高い、と語ったそうだ。

 確かに皮膚科学の本には、知的発育遅延の合併の率が三割程度と書かれている。三割は高い率と言えるだろう。茜だけは違うと思いたいが、知的発育遅延だとしたら、それは運命と諦めるよりほかはない。

 診断を聞いた葉月は大泣きし、泣きじゃくりながら、「あの医者は二週間で死ぬ、といったけれど、全然、当たっていなかったわ。信用しない」と言い切った。

 佐保子も葉月に引きずられてか、家へ帰ってきてもなお、「そんなこと、あるもんですか」と繰り返している。

 しかし五月は、ずっと抱いていた疑問について、そういうことだったのかと納得が行った気がしていた。匠も同じ気持ちでいるだろう。でも、たとえ現時点で知能の発達が遅れていたとしてもこれからの育て方次第だ。努力次第で知能が劇的に改善することだってあり得る、いや、きっとそうなる、と強く祈った。

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