第7話 はきだおれ市
師走の浅草と言えば羽子板市が有名だが、花川戸はきだおれ市も長い伝統がある。
はきだおれ市は、せわしげな年の暮れに、花川戸から馬道にかけて軒を並べる履き物問屋が花川戸公園で開く市である。昔ながらの下駄屋、鼻緒屋もあり、大体が安売り市だが、それなりのブランド品を並べた靴屋もある。
織島征志の家も毎年、はきだおれ市に露店を出している。
五月は土曜日の昼下がり、征志との約束を守るため、照人に子供用の運動靴、茜に赤ん坊用の靴を買ってやろうと思い、ぶらりと市に出かけた。
隅田川の川風に吹かれながら、花川戸公園へ向かって歩いていくと、曲がり角の向こうから吹奏楽器の音色と鉦(かね)と太鼓の音が聞こえてきた。楽隊が近づいてきているらしい。
角を曲がって姿を現したのは、チンドン屋だった。演奏しながらこちらへ向かってくる。三人一組で、前に鉦と太鼓を組み合わせたチンドン太鼓、真ん中にトランペットを持った笛吹き楽師、しんがりに大太鼓と続く。
演奏している曲は、トルコの行進曲「ジェッディン・デデン」だ。行進曲は軍隊的かつ明るい曲が多いが、この曲は勇壮な一方でどこか哀調に満ちていて、一度聴くと忘れられない。五月の好きな曲だ。
チンドン屋とは、店舗の商品の宣伝を請け負う広告業者である。チンと鉦を鳴らし、ドンと太鼓を叩いて、チンチンドンドン、チンドンドンと、街を練り回るので、チンドン屋と呼ばれるようになった。日本の時代劇風の派手な衣装に、幟(のぼり)を立て、市や店や商品の宣伝文句が書かれ垂れ幕などを体に纏(まと)っている。嘉彦から聞いた話では、昔は四季を通して東京中の商店街にチンドン屋がいて、町を練り歩いていたという。
しかしテレビの普及とともに紙芝居屋が消えてなくなったように、あまりにも旧態依然なチンドン屋は、宣伝広告業としては、いつしか、全国でも、限られた土地の、限られた機会にしか見られなくなった。今では下町の風物詩として親しまれている。花川戸はきだおれ市は、その珍しい場所、機会の一つだ。
前を行くチンドン太鼓は男で、猿烏帽子を被り、水色の衣装を纏う。真ん中の笛吹きの楽師は、誰の目にも桃太郎と一目で分るいでたちだ。顔立ちからすると女性に見えるが、背が高い。まるで宝塚の男役のようだ。全体に赤を基調とした衣装で、若侍の鬘に白の鉢巻をし、トランペットを吹いている。しんがりは江戸の商人風の丁稚頭に髷を結った鬘を被り、薄紫の色調の小袖に濃い紫の羽織を着、黒白の縦縞の袴をはいている。背の垂れ幕に「花川戸はきだおれ市」と大きく墨書してある。
桃太郎の一行を模しているのだろう。距離が縮まると、先頭の男が五月に向かってウィンクして見せた。真ん中の楽師も、演奏しながら目を見開いて愛想を売る。五月も笑顔を返してすれ違った。
冬至が近く、一年で最も日が短いこの時節、早くも陽が傾き始めている。
花川戸公園に着くと、様々な靴を並べた露店が所狭しと建て込んでいる。ぐるっと一周して、露店を覘いて回った。茜に似合いそうな赤ん坊用の靴を買ってやるつもりで子供用の靴を物色した。
公園の北側に町会事務所が設けられ、南側の公園入口の右側に征志の家『オリシマ』の露店があった。表に征志の父親が立って、安いよ、どれどれがいくら、と客を呼び込んでいる。奥に征志がいて、レジを任されていた。靴を買った客の勘定を済ませて送り出すと、五月に「よお、待ってたぜ」と声を掛けた。
「来年から一緒に青年部幹部を張る身だもんね、挨拶に来たよ」と答え、口笛を吹きながら子供たちの小さな靴を物色する。
「子供靴がほしい? ベビー用?」
棚に案内してくれたが、あまり数は揃えていないようだ。五月は右手を顎に、左手を右肘に当てて考え込んだ。あまり選んでも悪いと思い、「じゃあ、これとこれ」と、男の子用、女の子の赤ん坊用に、可愛い靴を指差した。
西の空に夕陽が落ちてきており、その方角からトランペットの音がかすかに流れてくる。先ほどのチンドン屋が馬道通りまでぐるりと回ってきて、公園に戻って来たのだろう。
佐保子から、嘉彦との婚約時代にはきだおれ市にデートに行った話を聞いた覚えがある。切っ掛けになったのは、イタリア映画『ブーベの恋人』を一緒に観に行ったことらしい。
映画の中で、レジスタンスの闘志のブーベが、恋人マーラに貧しい給料を貯めて靴を買。 ところが石畳の階段の道で躓(つまづ)いたマーラは、靴のヒールを折ってしまう。この切ない場面が印象的で、映画の後に入った喫茶店で父とその場面のことを語り合ったそうだ。
後に一緒にはきだおれ市に出かけ、父は母に靴を買ってくれた、と自慢そうに話した。
さすがお父っつあん、粋で細やかだなあ。
すると目の前に、すっと一足の靴が差し出された。
「これ、どう思う?」
素敵な女物の、褐色のパンプスだった。
征志の目が五月の反応を窺っている。
「五月に似合うだろうと思ってさ。はいてごらんよ」
勧められるままに履いてみると、サイズも、幅も、ちょうどぴったりだった。
恥ずかしながら頑丈な足をしており、高級品は幅がなかなか合わなかったりする。 履物だけは、通販で買うわけにいかない理由だ。
足のサイズを当てるだなんて、恥ずかしいようだが、深くは考えまい。この靴は平靴なので、実用的そうで長持ちしそうな感じだ。ブランド品ではなさそうだから、買えなくはないかもしれない。折角のはきだおれ市だ、ここは一つ、奮発するか!
しかし勧めてくれるのは嬉しいが、子供の靴分の金しかないことに気が付いた。
「征志、五月、いつもの通り、宵越しの金は持たねえ主義でさ。悪いけど、子供の分だけしかお金がないのよ」
「勉強しとくよ」
「勉強しとくって……値引いてくれるのかい?」
おずおずと訊いたところ、征志はにっこりして頷いた。
「プレゼントだよ。」
えっ、まさか! 五月は、言葉が出なくなってしまった。
「何も、そんなに驚くことじゃねえさ」
「世界がひっくり返りそうな気分だよ」
征志の父は、出店の奥のほうで子供靴の包みを作りながら、見て見ぬふりをしている。
征志のがっしりした手の甲が目に入った。筋張った、男っぽい、ガテン系の大きな手。まだ若い手だが、この手はいろいろなことを表現しているように思えた。代々続く働き者の血筋。持って生まれた職人の気質。未来に向けて抱く様々な夢…
五月も、分かち合えないだろうか? こんな手を持つ人となら、一緒に人生を歩んでいけるかもしれない! いよいよ征志に惚れてしまいそうな気がした。
征志の父親が近づいてきたので、五月はたった今の顛末を話し、盛んに恐縮した。
父親は「いいってことよ」と朗らかに答えた。征志は後で呼びつけられて、お前の給料から払いな、とでも言われるのかしら。
五月は征志にお別れを言い、片手に子供靴、もう片手にプレゼントの靴を持って、公園の出入り口に向かった。来年、町会青年部の仕事に精を出す日々に思いを馳せた。
征志のがっしりした手に引かれて、自分も進んでいけるだろうか?
慣れないことをした征志のぎこちない背中に、珍しく女性らしい言葉で呼び掛けた。
ありがとう、征志。嬉しいわ。
チンドン屋が戻って来て、公園の入口に並んで立ち、昔のドイツ映画『朝な夕なに』の主題歌、『真夜中のブルース』を演奏している。帰っていくお客を惜しみつつ送り出すように、上半身をゆっくりと揺らしながら、しみじみと演奏する。
夕空に高らかに鳴り渡る美しいメロディーを聞きつつ、はきだおれ市を後にした。
公園を出る五月に向かって、再び先頭の男がウィンクし、桃太郎が軽くお辞儀をし、羽織の男がにっこり笑顔で見送った。
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