第6話 幡随院長兵衛

 いよいよ納会当日がやってきた。

 病院の午後の仕事を早く切り上げて、町会事務所に駆けつけた。午後六時半の開演に合わせて他の主演者たちも集まってきた。

 昨夜は出演者全員で最後の稽古を行った。皆、心も体も準備万端だ。

 早速、舞台裏でステージメイクが始まる。

 そのうちにざわざわしてきて、客が集まり始めたのが感じられた。舞台の袖からちらと覗いてみると、最前列中央に千一郎、その横に父が並んで座っていた。向かって左端には、司会役の泰芳が巨体を丸めて座っている。

 舞台化粧が終わり、歌舞伎の隈取をした自分の姿を鏡で見ると、なかなか決まっている。幡随院長兵衛は座頭格の役どころ、貫禄十分な派手な拵えでなければならない。我ながら格好いいかもと悦に入った。

 征志の白井権八も格好いい。顔は白塗り、萌葱(もえぎ)色の着付けに、○に井の字の紋、鮮やかな紅絹(もみ)の脚絆に前髪の鬘(かつら)という典型的な若衆のいでたちだ。普段、美男子と思った覚えはあまりないが、派手な隈取に彩られると美剣士に見えなくもない。千一郎の見立ては正しかったというところか。日本人の顔立ちに相応しい伝統芸能が生んだ見栄えのする格好だ。

 五月は舞台の上手に置かれた籠の中に入った。籠から出るのが登場シーンだ。

 閉所恐怖症のわけではないが、開演直前とあって、落ち着かない。垂れ幕を通して外が透かし見えるが、あまり気分がよくはない。昔の人はこんな籠に入って運ばれることに、よく文句を言わなかったものだと、狭い周囲を見回しながら思った。

 開演時刻がやってきた。

 やっさんこと岡泰芳が立って挨拶し、内容の解説を始めた。

「皆様も御存知、花川戸の代名詞として知られる『助六由縁江戸桜』は、京都島原の芸者揚巻と助六の心中事件を、江戸が舞台の荒事に作り直した作品です。しかし、舞台もストーリーも原形を留めておらず、いわばフィクションです。それに対して、これから上演される『極付幡随長兵衛』は、浅草で実際にあった話に基づいて作られております」

 泰芳の流暢な解説が続いた。

 江戸時代初期、旗本の不平分子で、徒党を組んで江戸市中を徘徊する無頼集団が現れ、旗本奴と呼ばれた。これに対して町奴と呼ばれる町人側の自衛集団が組織され、その頭目として旗本奴の狼藉から町人たちを守るために立ち上がったのが、幡随院長兵衛である。

 長兵衛は肥前唐津藩の武士の子で、江戸へ出たが、根が暴れ者で、殺人罪で死刑となるところだった。そこを下谷池之端にあった幡随院の住職に助けられ、それが縁で幡随院長兵衛と名乗り、浅草花川戸に住んだ。

 大名や旗本などに、奉公人を斡旋する仕事である口入れ稼業を営む一方、三千人の子分を抱える町奴の頭領として君臨した。今でいえば、やくざの親分である。

 一方、準主役の白井権八は本名を平井権八といい、元は鳥取池田家の家臣で、人を殺して江戸へ出奔した。江戸では馴染みの遊女の小紫と遊ぶ金欲しさに、辻斬り百三十名余に及び、最期は品川の鈴ヶ森で獄門に掛かった極悪人だった。

 しかし歌舞伎では長兵衛の食客とされている。

「では当研究会版『幡随院長兵衛』、皆様、とくとお楽しみください」

 泰芳の解説が終わり、幕が上がった。

 冒頭は品川増上寺の南、刑場として知られる鈴ケ森における、幡随院長兵衛と白井権八の出会いの場面である。

 花道から着流しの一本差しが登場、征志演ずる白井権八だ。そこに数人の刀を抜いたごろつき風の男たちが、ばらばらと追って現れる。いきなり見せ場だ。

 年の頃わずか十四、五歳の美剣士の白井権八が、言いがかりをつけてきた雲助ども十数人を、見事な剣捌きで切り捨てる。

 権八が刀を鞘に納めるのを見越して、五月は籠の垂れ幕を鷹揚に捲り上げた。立ち回りを籠の中からじっと見ていた幡随院長兵衛が、颯爽と立ち上がる設定だ。

 征志ににじり寄り、声を掛ける。

「お若えの、お待ちなせえやし」

 我ながら太い声だが、会場によく響き渡っている。

「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」

「お若え方の御手のうち、あまり見事と感心いたし、思わず見とれておりやした」

「雉も鳴かずば討たれまいに、益なき殺生いたしてござる」

 観客席から、早くもいよっと合いの手の掛け声が入る。

 最初の掛け合いを何とかこなし、「いいぞ、いいぞ」と気分が乗ってきた。

 征志も、客席を見渡す素振りなど、役者ぶりが堂に入っている。

 舞台は順調に進み、クライマックスの場面に向かっていた。

 長兵衛は対立する旗本奴の頭目の水野十郎左衛門に招待され、口上が述べられる。

「わが君が、庭の藤を眺めながら酒宴をいたしますので、何卒、拙邸にお越しくだされ」

 長兵衛は快く招待に応じるが、水野の魂胆は明らかに長兵衛の謀殺だった。

「行かないで」と嘆く女房や子供たち、子分たちの説得にも耳を貸さず、自身と仲間の名誉を守るため、涙を堪えて一人、水野の屋敷に向かう。

「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」

 五月はここぞとばかり、名啖呵を切った。

 殺されるのを承知で、水野の屋敷に乗り込んだ長兵衛は、酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で浴衣一つになったところを水野や家臣たちに襲われる。

有名な騙し討ちの場面だ。

「いかにも命は差し上げましょう」と啖呵を切った後、長台詞が続く。

「兄弟分や子分の者が、止めるを聞かず唯一人、向かいに応じて山の手へ、流れる水も遡る、水野の屋敷へ出てきたは、元より命は捨てる覚悟、百年生きるも水子で死ぬも、持って生まれたその身の定業、卑怯未練に人手を借りず、こなたが初手(しょて)からくれろと言やあ、名に負う幕府のお旗本、八千石の知行取り、相手に取って不足はねえから、綺麗に命を差し上げまするう」

 十分に抑揚をつけて、一言も間違えず、見事に述べ切った。寝起きも忘れて覚えこんだ甲斐があったと内心ほっとした。

『極付幡随長兵衛』の最大の見せ場の決め台詞に、観客は身を乗り出した。あちらこちらから合いの手が掛かる。客席と舞台が一体になる、歌舞伎の醍醐味極まれりの瞬間だ。

 さらに思い切り大袈裟に見得を切りながら、決めの口上を述べた。

「殺されるのを合点で、来るのはこれまで町奴で、男を売った長兵衛が、命惜しむと言われては、末代までの名折れゆえ、熨斗(のし)を付けて進ぜるから、度胸の据わったこの胸をすっぱりと突かっせえ」

 長兵衛は見事に水野の槍を胸に受け、齢三十五にして壮絶な最期を遂げる。

 中央に倒れている五月を残して、出演者たちが舞台の袖に退いていく。

 幕が下り、観客の拍手が鳴り渡った。

 幕が再び上がり、出演者が勢揃いで観客に辞儀をする。白井権八の征志に続いて、最後に長兵衛の五月が登場し、一段と大きな拍手が沸き起こった。

 泰芳が立ち上がり、挨拶を述べた。

「御出演の皆様、ご苦労様でした。どなたも大変印象的な熱演でしたが、西堀五月さんの幡随院長兵衛は、私めもぜひ頭と仰いで、どこまでもついていきたいと思ってしまう、見事な男伊達でした。改めて、出演者の皆さんに拍手をお送りください」

 拍手とともに、研究発表会は無事に終了した。町会の人々は、斜向かいに建つ料亭にどやどやと移動していく。広間で忘年会が執り行われる手筈だ。

 千一郎の挨拶の後、嘉彦に向かい、「西堀副会長、御挨拶と乾杯の御発声をお願いします」と促した。

 嘉彦はマイクを手渡されて皆を見回すと、半年以上の無沙汰を詫びた。

 その間に身の回りで起きた一番嬉しかった出来事として、孫娘の誕生に言及した。

 生れてすぐに、魚鱗癬という皮膚疾患と診断され、小児病院に救急車で運ばれた。小児科の医師から二週間の命と告げられた。母親の葉月は胸に抱くこともできず、泣き暮らしていたが、神様の御加護で赤ん坊は生き延び、無事に退院して家に帰ってきた。

 皆、しんとして聞いている。

 五月も絶望と喜びが交錯した日々を思い出していた。

「赤ん坊から見れば私は海千山千のロートルですが、まだ二か月の赤ん坊が病魔と闘い、懸命に生きている姿を見て、とても元気づけられました。私は血液透析に通う身になりましたが、あの子が耐えた苦難を考え、人生を前向きに生きて行こうと励まされました」

 皆が嘉彦に注目し、次の言葉に耳を傾けている。

「実は先日、町会長に来年以降は町会の仕事から身を引かせていただく旨、お願いしました。でも来年もできる限り皆さんのお役に立つつもりです。今後もぜひ宜しくお願いしたく存じます」

 皆の拍手を受けながら、嘉彦が、「皆さんの健康を祝して、乾杯!」と音頭を取ると、皆が唱和した。事実上の引退宣言と言える嘉彦の言葉に、五月は複雑な思いだった。

 いよいよ自分たちが仕切る時代か。まだまだ、父を頼りたいのに。

 今の嘉彦は、自分がこうしてここにある現在を、単純に喜んでいる様子に見える。

 千一郎が、五月と嘉彦の席へやってきた。

「西堀さん、改めて御快癒、おめでとう。いろいろあったが、まあよかったよな。御猪口一杯だけならいいだろ?」

「昔は一升酒、突き抜けた口さ」

 和やかに笑いながら、千一郎が嘉彦の猪口に酒を注ぎ、杯を交わす。

「ほら、五月ちゃんも。来年からは、よろしく頼むよ」

 師走の夜は更けていく。五月は「あいよ」と千一郎に頷き、一杯ぐっと飲み干してから、徳利を持って、千一郎と嘉彦の猪口に酒を注いだ。

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