第4話 母娘の面会

 それからというもの、たくさんの搾乳バッグに採られて冷凍された葉月の母乳を、冷凍保温ケースに入れて、鷲病院から小児救急病院まで運ぶのが匠の役目になった。

佐保子にとっても、今は夫の世話より葉月の心のケアをし、赤ん坊のために母乳を運ぶことが優先だった。

 赤ん坊が生まれた翌々日、五月の勤務中に、佐保子が電話してきた。

 葉月が産褥の体を押して、生まれた赤ちゃんを見に行きたいと言い張っているそうだ。

「私は生まれた娘の顔を見てない、照人の時はすぐに抱けたけど、あの子のことは顔も見られない、どうしても見に行きたい」と泣きながら話しているという。

 こういうときはいつも五月が相談相手だった。普段、乱暴者と見放されているようだが、頼りにされてもいるのだ。

「葉月の体が大丈夫なら、何とかして連れて行ってやろう。赤ちゃんは可哀相だけれど、母親にとって赤ちゃんの顔を見れないのは、もっと可哀想だよ」

 しばらくするとまた佐保子から電話が架かってきた。

 匠がこれから葉月を車に乗せて、小児救急病院へ行くことになったという。母親としての強い要望に応えることが、葉月の気持ちを落ち着かせると判断したのだろう。

五月も勤務を早く切り上げ、先に小児病院へ向かった。

 玄関で待っていると、匠と葉月が乗った車が玄関に乗り込んできた。匠がリクライニングした助手席から葉月を抱き起し、車から降ろした。

 葉月がそろそろと歩くのを、匠と五月とで両側から支えながら、駐車場から小児病院の玄関へ、次いで二階にある小児集中治療室へと、エレベーターで上がった。

 集中治療室の受付で名を名乗って中に入ると、看護師に案内された。

 葉月は「鵜飼葉月Baby」と名札がついたインキュベーターに近づいてゆく。インキュベーターに屈み込み、初めてわが子と対面した。

 透明なポリカーボネート製のインキュベーターの中の赤ん坊の姿を見ると、葉月の目から、涙が溢れて来て止まらなくなった。全身の皮膚が割れた可哀想な赤ん坊、抱きたくとも抱けない赤ん坊を前に、インキュベーターに体を寄せ、頬を押し付けたまま泣き続けた。匠はそんな妻をいたわり、包むように抱いている。

 看護師が、傍で葉月に無菌手袋をつけさせ、栄養補給や治療のために手を差し入れる窓から手を差し入れさせた。

 初めて握る娘の手をそっと包んだまま、葉月はいよいよ顔をくしゃくしゃにし、体を震わせた。 泣いたままの姿勢でいつまでも動けないでいる葉月を、匠はじっと抱いている。抱擁したままでいる以外に、できることは何もなかった。

 五月もインキュベーターの前でもらい泣きしていたが、居たたまれなくなって、先に集中治療室から出て廊下のソファに座った。

「葉月、大丈夫? 少し落ち着いた?」

 五月が訊くと、葉月はこっくりと頷いた。

「赤ちゃんは可哀想な子だけど、あたしたちができる全ての手当をするわ」

 葉月は娘が長く生きられそうにないことについて、心の準備をしたようで、匠に確かめるような視線を向けた。二人とも現実をしっかり見詰め、前向きに取り組もうと励まし合ったのだろう。

「俺も葉月も、最悪の場合についての覚悟を決めたよ」

「赤ちゃんの名前、茜にするの。元々、九月下旬が予定日だったから、秋空で茜にしようと思っていたのよ。八月生まれなら葉月だけれど、私と重なるから」

 五月は、なんだか不意を突かれた気がした。

 名前か、そうだ、名前をどうするか。すると純雄の声がこだました。

『お子さんは、二週間しか生きられません』

 しかし、たとえ二週間で死ぬ子だとしても、名前をつけてあげなければならない。いつまでも名無しで「鵜飼葉月Baby」じゃ、赤ん坊だっていよいよ可哀想だ。

 茜ちゃんか。

「暦の上では、もうとっくに秋だし、いい名前だと思うよ。可愛い赤ん坊だもの」

 五月は、やっと新たな生命がこの世に出たことを喜び合える気がした。

 葉月はまだ長く外にいられる体の状態ではないので、もう鷲病院へ戻るという。

 翌日、匠は佐保子とともに区役所へ行って出生届を出し、小児病院のインキュベーターには「鵜飼茜」の名札が掛けられた。

 葉月は、鷲病院を六日目に退院した。衝撃的だった茜の出生から立ち直り、前向きに生きる姿勢を取り戻した様子だ。その辺りは、葉月も五月と同様、母譲りだ。

 そう長くは会うことができないと思われる娘に会いに、葉月は毎日、小児病院へ通った。

 ところが「寿命は二週間」と言われた当初の予想とは異なってきた。茜の全身状態は少しずつ改善し始めたのだ。

 体表を被っていた薄皮は落屑(らくせつ)となって体から離れた。その下の皮膚は、足首、膝裏などの関節部ではまだ痛々しく割れていたが、それ以外の部分では徐々に乾いてきているようだった。二週間もすると、茜は眼も閉じられるようになった。

 食欲は旺盛で、運んだ母乳を残らず飲み切った。

 出生時以来の、元気のいい泣き声は相変わらずで、泣き声が大きいため、集中治療室の看護師たちに「恐竜ちゃん」と呼ばれ、可愛がられた。

 皮膚が乾いてきてからよく観察すると、母譲りのつぶらな瞳の可愛い子だ。生れ落ちた当初の衝撃的な印象が薄まって慣れてきたせいか、なかなか別嬪のように思えた。

 急性期を乗り切れば、後は漸次、改善してゆく症例が多く、成人する頃には全く正常と変わらなくなる例もあるという。それは匠が皮膚科の専門書等で調べて分かっていたことだ。しかし、純雄は、両親に茜の今後について説明するに当たっては、なお慎重な表現に終始した。

 それでも小児病院の厳重な感染対策のおかげもあって、三週間も過ぎる頃にはどうやら命は永らえたらしい状況が明らかになってきた。


 およそ二カ月後の十月の末、茜は小児救急病院を退院することになった。

退院の日が決まると、茜が家に帰ってくる日のために、家族の皆で準備が整えられた。

 佐保子は赤ん坊用の玩具を買い揃えに、仲見世通りで玩具屋を営む友人のもとにいそいそと出かけて行った。無類のお出かけ好きの彼女にとって、友人に会って四方山話ができる格好の理由でもあるようだ。

 その顛末には、仲見世通りの露店で、赤ん坊用のベッドにつけるディズニー・キャラクターのベッドメリー・モービルや、幻燈、手描き提灯を買い込んできた。腕一杯にしてマンションに持ち帰りベビーベッドに取り付けた。

 五月と佐保子は、折り紙で作った輪に「茜、おめでとう」と書いて数珠状に繋げたものを、いくつか作っていた。五月は粛々として折り紙作業に没頭していたが、終わると「ふう」と息をつき、汗でもかいたかのように額を拭った。

「あたしは、こういうのは一苦労だ。医療のような人の世話仕事ならともかく、芸心が必要な工作みたいなものはさ。おっ母さんに似たのかな」

 佐保子は五月の言葉を聞いているのか、聞いてないのか、折り紙の数珠を満足げに眺め入っている。出来上がった数珠を玄関と廊下に掛け、ぱんぱんと手を叩いた。

 後ろから嘉彦も出てきて飾りつけを見回した。

「五月と佐保子にしちゃ、なかなかよくできてらぁ」

「お父っつあん、そういう言い方ってないよ」

「ほめてるのさ。孫娘が難しい病気を克服して、やっと顔を拝めるか。俺も骨折って難儀したが、赤ちゃん、本当頑張ったよな。よく無事に生きながらえてくれたよ」

 嘉彦は透析治療には自分一人で出かけるようになっていたが、まだ遠出は控えていた。佐保子や葉月から、生まれたばかりの孫の容態を聞いてはいたが、実際の姿は、まだ写真でしか知らなかったので、茜の退院を誰よりも心待ちにしていた。

 いよいよ退院の日、五月は朝から鵜飼宅の飾り付けや、食事の用意に奔走していた。

 茜は葉月に抱っこされ、匠に手を取られ、主治医の中川純雄医師や看護師たちと共に写真を撮られて、これからの人生を祝福された。

 匠が運転する車の後部座席にチャイルド・シートにくくりつけられて、ちょこんと座り、病院から花川戸のマンションへ無事に帰還したが、茜は騒ぐでも泣くでもなく、じっと静かにしており、匠も葉月も安心して帰って来られたという。

 葉月に抱かれてマンションに入った茜は、目に映る部屋の中の眺めを、物珍しそうに見ている風だった。葉月は自分も初めて来たかのように、茜と一緒になってマンションの部屋の中を見回した。

「茜ちゃん、ここがあなたのお家よ」

 この子がお家に帰って来られて本当によかった、と皆が思っていた。

 佐保子は満面の笑みで両手を広げ、葉月と茜を押し包むようにしている。

 嘉彦も腕を組んで、この数か月を思い出しているようだ。

「おぎゃあ、とこの世に生まれ出てから、一万人に一人の重大な病気だと分った子なのに……。小児救急病院でインキュベーターの中に入った子が……」

 嘉彦は新調したサングラスを外し、しきりに目をこすった。

「これからは七人家族だ。皆で赤ちゃんを守っていこう」

 茜はベビーベッドの上に寝かされた。赤ん坊は母の顔をじっと見詰め、葉月は無邪気な顔を愛おしそうに見詰め返した。

 匠も赤ん坊を見詰めながらじっと立っている。感無量で動けないのだろうか。

 五月は茜を運んでいく救急車の車中の空気を思い出した。

 あんな苦労を噛み締めたのだ。一番辛かったのは葉月だろうが、父親の匠もどんなに辛かっただろう。ようやく葉月と照人と茜の、鵜飼家四人の暮らしが始まるのだ。 感慨ひとしおの帰宅だった。

 五月は新しい家族を家に迎え入れた一家の喜びに自分も一緒に浸れることに、ささやかな幸せを感じた。

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