第3話 救急搬送

 新生児室から出ると間もなく、葉月が分娩室からストレッチャーに乗って運ばれてきた。

 葉月は五月たちの姿を認めると、汗で上気した顔を輝かせ、喜びと期待に満ちた笑顔を向けた。

 こくん、こくん、と小さく頷き、目を潤ませながら、夫を見詰めている。

 元気な泣き声を上げる赤ん坊を産んだ、母の喜びに満ちた表情だ。破水してから自分で車を運転して病院に乗り付け、赤ちゃんを生むまで、とても頑張ったのだ。そのことを褒めてもらおうという期待も、少し恥ずかしげで、嬉しそうな笑顔に表れていた。

 五月は葉月の健気な顔を見ていて切なくなった。

 匠はまず懸命に笑顔を作っている様子で、妻に「よく頑張ったね」と労いの声を掛けた。

「可愛かった?」

「うん」と答えたが、匠の表情は明らかに硬かった。

 喜色満面の夫の顔を期待したのに、匠の様子が予想と違っているのを見て、「どうして大喜びしていないのだろう?」と不思議に思ったのだろう。

 葉月はもう一度「可愛かった?」と尋ねた。

 匠は笑顔を作り、「うん、とても」と答え、それを聞いた葉月はやっと笑顔になった。

 五月も懸命に笑顔を作ってはいたものの、言葉を出せないでいた。

 出産という大事を終えたばかりの葉月に、匠は、あの子のことを、何と言って説明するだろう? 五月たちは、どう対応したらいいのだろう?

 匠は言葉を選ぶように、一言ずつ話した。

「とても可愛いけれど、照坊のときとは少し違っているんだよ」

 葉月は夫の言葉の意味が分らない様子だった。

「どうしたの」

「赤ちゃんの顔や肌が、ちょっと普通と違うんだ」

「どういう風に」

「肌が突っ張っていたり、皮膚がいろいろ剥がれかけたりしているんだよ」

 すると葉月は、どうしてそんなことを言うのだろうと訝しげな顔をした。

「赤ん坊は皆、皺くちゃな顔をしているものよ」

 葉月は匠の言葉の意味を、懸命によく解釈しようとしていた。

 匠はストレッチャーの上で、一心に夫の顔を見詰める妻に、何と説明したらいいか分らないのだろう。葉月から目を逸らさないでいるのが、精一杯の様子だ。

 それでも赤ん坊がどういう子か、さらには、これからの展開について説明しなければならない。匠は一度、天を仰いで切なげな表情をし、決意したように口を開いた。

「葉月、ただの皺くちゃじゃないんだ。赤ちゃんは、病気があるんだよ」

 葉月は何を言われるのだろうと訝る表情で、ひたと匠の顔を見詰めている。

「僕たちの赤ちゃんは、先天性の皮膚疾患があって、インキュベーターの中で経過を診る必要があるんだ。魚鱗癬という病気なんだよ。これからNICUがある専門の小児救急病院へ搬送しなければならないんだ」

 それを聞いた葉月は、突然ストレッチャーの上で泣き出した。

 匠は葉月の手を取り、葉月はその手を両手で握り締めた。佐保子も、娘にひしと縋った。

「葉月、大丈夫よ。とても元気な赤ちゃんだから。小児病院も、少しの間よ」

 葉月は母から慰められても、顔をくしゃくしゃにして泣き続け、病室まで運ばれる間、匠の手を堅く握り締めたままだった。

 病室に入り、葉月をストレッチャーからベッドへ移動した。佐保子がベッドの上に乗り、五月と看護師が腰の辺りを抱き、匠が葉月の上半身を抱いて、いたわるようにベッドへ移す。

 匠は葉月の横に屈み込み、両手を取って諭すように話し掛けた。

「これから、世田谷の小児専門病院まで救急車で赤ん坊を運ぶから、乗って行くよ」

 葉月は匠の手を両手で握って懇願した。

「あの子を守ってあげてね。無事に赤ん坊を救急病院に送ったら、どんなに夜遅くなってもいいから、私のところへ帰ってきてね」

 葉月は両手で匠の手を取りながら、いつまでも泣き続けていた。

 娘の言葉を聞いていて、辛くなったのだろう、母も葉月に抱きついて泣いた。

 五月はそれ以上見ているのが辛くなり、部屋の外へ出た。

 時計を見ると、もう夜の八時を回っている。非常口のベランダに出てみると、さすがにこの時間は、涼しくなってきている。猛暑のひと夏も、終わろうとしていた。

 空を見上げると、満月から欠けてきているが、月が煌々と照っていた。


 それから一時間の後、匠と五月は点滴をつけてインキュベーターに収容された赤ん坊に付き添って、救急車に乗っていた。

 匠はとかく思いに沈みがちな様子で、救急隊員が座る運転席のほうを眺めている。

夜の街をゆく救急車の小窓から、街の灯りが流れていくのが目に入ると、今、どこら辺を走っているのか確認している様子だ。

 仕事柄、患者に付添って救急車に乗った経験は幾度となくあるだろう。だがこういう形で自分の子供を患者として救急車に乗ろうとは、思ってもみなかったろう。

 車の振動で、赤ん坊に付けられた点滴バッグがゆらゆらと揺れる。

 匠の気持ちを思いやると下手に話し掛けるのも躊躇われたので、五月は黙って目の前の赤ん坊の様子を見守った。

 小一時間で救急車は世田谷区にある小児救急病院に到着し、赤ん坊は二階にある集中治療室に収容され、インキュベーターには、「鵜飼葉月Baby」という名札がつけられた。

 どのインキュベーターも、すでに名前がある赤ん坊は名札が掛けられていたが、まだ名前もない赤ん坊は、母親の名前の下にBabyと書かれた名札がついている。

 五月は小児病院の集中治療室の眩いくらいの照明の下で、改めて生まれてからまだ3時間ほどしか経っていない赤ん坊を見詰めた。

 新生児は通常目を閉じているものだが、この子は目の周りの皮膚が突っ張っているためか、閉じることができずに半開きになっている。

 両の瞼は白い苔のようなものに覆われ、つぶらな黒目をあちこちに動かしていたが、その視線はうつろでどこへ向けられているのか分らない。口も同様で、周囲の皮膚に唇が引っ張られ、魚の口のように小さく丸く開かれたままになっていた。

 断続的に全身を動かしてはいるが、その動きはどこか突発的で滑らかさがない。皮膚の突っ張りによって動きが制限されているため、いちいち引っ掛かっているように見えた。

 体表から染み出した体液で全身が濡れており、特に半開きになった目の周りは、涙のためかひどく濡れている。

 痛いのだろうか。これでは、まるで因幡の白兎のようだ。体中が、今にもぼろぼろに崩れていくのではないかと思われるほどだった。

 間もなく大柄な小児科の担当医がやってきて、主治医の中川純雄です、と自己紹介した。体は縦横に大きいが、丸顔に丸い鼻の童顔の小児科医で、黒縁の眼鏡のおかげで何とか大人っぽく見える。子供に好かれそうな、優し気な印象だ。

 匠と五月は面談室に呼ばれて、赤ん坊の今後の治療方針について説明を受けた。中川医師は赤ん坊の疾患について、鷲病院の産科医と同様の説明をした。

 説明を聞いた後、匠は「寿命については、どうなんでしょう?」と尋ねた。

 中川医師は少し間を置いた。真っ先に訊かれると覚悟していた様子で、大きな体の肩に力が入っている。重い話をしなければならないらしかった。

「それについては、悲観的なご報告をしなければなりません。長くもたない可能性が高いです。はっきり申し上げますと、この疾患の多くの患者さんは、二週間以内に亡くなります。娘さんにつきましても、そうお考え下さい」

 匠はがっくりと肩を落とし、目を閉じた。

 それは親にとっては、残酷な宣告だった。

子 供ができたと分ってから出産までの、わくわくしたり、辛かったり、母親のお腹が大きくなっていくのを見る長い日々。その後に漸く訪れる、赤ん坊の誕生の歓喜。

その赤ん坊が、重い先天性の病気で間もなくあの世に行ってしまうとは!

 いったい神様はなぜこのような試練をお与えなさったのだろう?

 匠は赤ん坊の運命を思い、妻の悲嘆を思い、思考停止の状態に陥っている様子だ。

 中川医師は続いて今後の検査と治療方針について説明した。

「この病気の専門家は全国でも非常に少なく、今後は都内の大学病院から、専門の医者にも往診に来てもらいます。栄養につきましてはこちらでミルクをあげますが、よろしければ奥様にも搾乳をしていただいて、こちらへお持ちいただけますか?」

「分りました」

 匠は疲れたのか、もはや機械的に返答していた。

 葉月は赤ん坊におっぱいをあげるのがどんなに幸せか、しばしば語っていた。

 可哀想に、インキュベーターの中に入れられて、厳重に感染を警戒されているのでは、じかに授乳することもできまい。葉月のことだ、一生懸命に母乳を搾ることだろう。

 そんないじましい妻の姿が目に浮かべ、幾筋も匠の匠の涙が頬を伝わってきた。

 匠と五月は病院を後にした。匠は「すぐに葉月のところへ戻ってやらなきゃ」と呟いて玄関前の通りでタクシーを呼び止め、五月も同乗した。

「辛い話でしたね。匠さん、大丈夫?」

「俺は大丈夫だけれど、葉月が心配だよ」

「そうだね。でも葉月はいつも、あたしよりずっとしっかりしてるから」

 そうだ、何をやっても、葉月は自分よりうまくやる。しかしいくら葉月だって、あの赤ちゃんの姿を見たら、どんなだろうと思わずにはいられなかった。

 ましてや二週間で死んでしまったら、どんなにショックを受けるだろう。

「匠さん、何でも言ってね、あたしでできることなら、何でもするよ」

「ありがとう」

「あんなによく動いて、元気だもの、あの子はきっと大丈夫だと思う。」

 匠は頷いた。

「医者というものは、先行きがはっきり分らない場合は、見込みについて悲観的に話すものだ。俺自身、普段からそうだし、あの子の状態を見れば、担当医じゃなくたって、二週間で死んでしまうと思っても不思議じゃない。どうなるかは神のみぞ知る、だ」

 鷲病院に戻ったときには日が変わり、深夜二時になっていた。

 原付に跨り、エンジンを掛ける。 匠が見送りに来た。

「今日はありがとう。五月のおかげで随分心強かったよ」

 ヘルメットをいつもより深く被ると、行き先に目を向けた。 冬ならエンジンを温めるためにしばらく吹かすが、深夜でも猛暑の名残で十分に暖かい。

「葉月のそばで、寝てあげてね」

「看護師さんにベッドを頼むよ。葉月と手をつないで寝るさ」

「そうしてあげて。じゃあ、葉月に宜しく」

 挨拶すると、五月はアクセルを吹かし、人も車もほとんどいない道へ出た。

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