第2話 魚鱗癬
五月たちは、間もなく呼ばれるものと思って待機していた。
ところが、いつまでも産科の主治医が出てくる気配がない。
照人のときは出産に立ち会っていたから、赤ん坊が生まれる瞬間に見ることができたが、今回はなかなか呼ばれなかった。
「ずいぶん時間が掛かるね」
「どうしたんだろう?」
待たされるにつれ、過ぎていく時間がとても長く感じられるようになった。
通り掛かる看護師を捕まえ、努めて平静に「何か問題があるんでしょうか」と尋ねてみたが、看護師は目を合わせようとしない。
「もうしばらくお待ちください」と答え、急ぎ足で分娩室に入って行く。
担当医から匠がようやく声を掛けられたのは、かなり経ってからのことだった。1時間、いや、もっと掛かっていたろうか。
「鵜飼先生、どうぞお入りください」
匠が担当医から分娩室の前室に呼び入れられると、ドアが閉められた。
その頃になって、佐保子がやってきた。経過を話すと、「どうしたんだろう?」と思案投げ首をしている。ドアの向こうで、担当医が改まった重々しい口調で話しているらしい様子が感じられた。内容が聞こえるわけではないが、佐保子も耳を澄ませている。
そのうちドアが開けられ、担当医と匠が出てくると、奥にある新生児室に向かって行った。
匠は、ちらりと五月を見たが、その表情はこわ張っていた。
何か難しい状況に間違いない。赤ん坊だろうか、母体だろうか?
5分ほどしてから、匠は新生児室から戻ってきた。
「どうしたの?」と声を掛けようとして、思わず五月は言葉を飲み込んだ。
匠は明らかに落ち込んでいる。にこりともせず、泣き出しそうに見えた。控室のソファに腰を下ろし、ふーっと息をついた。視線が宙を泳いでいる。気持ちを落ち着けてから、五月たちに説明し始めた。
「赤ん坊なんだけど、実は重い病気があるんだ」
やっぱり、そうか。でなきゃ、こんなに待たせるわけがない。看護師の応対だっておかしかった。
「葉月は大丈夫?」
匠は頷いたが、眉をひそめている。
「今、生まれた赤ちゃんを見てきた。先天性の皮膚疾患を持っているんだ」
「皮膚疾患…なんていう病気?」
固唾を飲んで、匠の言葉を待った。
「魚鱗癬だ」
魚鱗癬という言葉が、頭の中で反響した。
俗にいう、鮫肌か? 確か知人に魚鱗癬だという人がいたが、手や腕を出して示されてみなければ分らないほどだった覚えがある。
女の子じゃ、気の毒に。でも見掛けで損する女の子は、世の中数多いるさ。あたしだって、自慢じゃないが見掛けで得したことなんか、ただの一度もないよ。
ただ肌がざらざらしているだけなら、他に問題なければいいではないかと思えた。
「悪いのは、肌だけ?」
「はっきりした奇形はないね。手足の指は全部揃っているし、頭部の異常もない」
五月は、匠を励ますために、懸命に言葉を継いだ。
「五体満足なんだから、よかったよ。肌だけなら普通に幸せになれるよ。あんなに元気に泣いてたもの」
今は匠を励ますためにそう言うより他はなかった。
「でも、その皮膚病がひどいんだよ。体中の皮膚が突っ張ってて、裂けたり、剥がれたりしている。浸出液だらけで、このままじゃ感染症を起こして死ぬそうだ」
「ええっ!そんなっ!」
重症の魚鱗癬を実際に見た経験がなかった。
「産科の医者が言うには、この病院じゃ手に負えないらしい。どこかNICUのあるところに運ばなきゃならない」
NICU、すなわち、新生児集中治療室に入らなければならないのだ。
佐保子も呆然とした表情になった。五月も呆然としたが、強いて元気を奮い起こした。
「匠さん、大丈夫だよ。元気出そう。あたし、何でも協力するよ」
「ありがとう。でも、葉月に何て言おうかと思ってね」
言葉が見つからず、五月たちは三人とも黙ったままでいた。
やがて担当医が現れ、受け入れてくれるNICUのある搬送先について、選択肢を二つ三つ示し、それぞれの病院を比較して話した。 匠が自分の大学の関連病院だからと、世田谷区にある専門病院を頼んだところ、担当医が尋ねた。
「緊急性の高い患者は救急搬送に際して、医者が救急車に同乗して行く必要がありますが、同乗して行かれますか」
匠は、「勿論です」と答えた。五月も思わず申し出た。
「匠さん、あたしも行こうか」
匠は「そうだな」と曖昧に応じて考えていたが、やがて頷いた。
「五月は看護師だし、同乗してもらおうか」
「本当なら葉月が行くところだけど、あたしだって役に立つよ」
「ありがとう。心強いよ」
匠は笑顔を作った。五月は同乗の責任を感じるとともに、緊張をも感じた。重い病気を持って生まれた赤ん坊なら、助けるためにできることは何でもする覚悟だった。
匠は五月を日本堤病院の看護師と紹介し、救急車に同乗していくと伝えると、担当医は、「ますます心強いですね」と答えた。
「匠さん、私たちも、赤ちゃんを見せてもらってもいいかしら?」
匠が頷いて許可を求めると、主治医は「ご案内します」と恭しげな調子で答えて、五月たちを新生児室に導いた。
匠の後に続いて、五月はインキュベーターに入れられた赤ん坊に近づいた。そこには生まれたばかりの姪の姿があった。もぞもぞとよく動く元気な赤ん坊のように見える。
しかし、近づいてよく見ると、通常の赤ん坊とは著しく異なることが分った。
その赤ん坊は、顔から体中まで、いたる所の皮膚が剥がれたり、剥がれかかったりしていた。皮膚の下は痛々しく赤剥けしたようで、しかも緊満して張っている感じだ。
腰や関節裏や手足などの、よく動かす部分で皮膚の突っ張りの強いところは、痛々しく裂けてしまっており、下の赤い肉が見える。
浮き上がった皮膚は、薄く乾いた状態で広く連なって続いており、まるで脱皮する動物が残していく皮膚のようだ。
何ということだろう。五月は思わず目を覆いたくなった。目の前の光景を現実とは信じたくなかった。ひとりでに涙が頬を伝わってきた。
体や顔の根本的構造や、手足の指の数などに奇形がないのは救われたが、それでも衝撃を受け、感情の整理が全くつかなかった。たった今、赤ん坊が誕生した幸福感に満たされていたのに、突然どこかへぶっ飛ばされてしまったかのようだった。
横にいる匠は無意識に何度も大きく呼吸を繰り返していた。
担当医に「大丈夫ですか、よろしいですか」と声を掛けられた。我に返り、辛うじて「ええ」と返事をしていた。
担当医が改まった調子で、言葉を一つ一つ思い出そうとするかのように説明した。
「お子さんの病名は先天性の非水泡型魚鱗癬様紅皮症といって、新生児一万人に一人の割合の、とても珍しい病気です。生命維持のために、厳重な感染管理と呼吸管理が必要です」
担当医はそのあと、統計や対応策について話した。この難しい名前の皮膚疾患についての説明は、いかにもたった今、調べたばかりという感じだった。
「では、資料を揃えます」
難しい説明を終えて肩の荷をおろしたのだろうか、彼らは早速、電話連絡や紹介状などの手続きに取り掛かった。
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