第2章 茜の誕生
第1話 猛暑
八月下旬を迎えようとしていた。
いつもの年であれば、そろそろ涼しい風が吹き始め、秋の訪れを肌に感じられ始めるころだ。ところがその年の夏は、まれに見る猛暑であり、連日、東京中の街路に熱波のような風が吹き抜けていた。
葉月の出産予定日が一か月後に近づいていた。
うだるような暑さが続くので、妊婦が体調を壊さないようにと家族の皆が気を使っていた。しかし照人が生まれるときは、葉月は分娩、産褥とも順調だったので、それほど心配することはなかろうと、家族一同、どこか安心していた。
葉月は、子供を産み育てることで、どれだけの幸せを得ているのだろうか?
子供ができたと分ったとき、妻が夫に伝えて分かち合う喜び、わくわくしながらも、緊張する妊娠初期。妊婦には辛いけれど、夫婦で知恵を凝らして乗り切る悪阻の時期。 徐々に母親のお腹が大きくなっていくのを見る喜び。そんな夫婦二人三脚の日々の後、ついに赤ん坊の誕生が訪れる。匠と葉月には、一か月後に、またその日がやってくる。
これで二人目、葉月は子供を五人産むつもりだそうだから、幸せな大家族になるだろう。あたしにも、その幸せ、少し分けてくんなよ。
五月はつくづく妹を羨ましく感じた。
いずれにしても、こればかりは葉月が主役、皆で支えて行こうと思った。
五月たち姉妹は竜泉の鷲病院で産湯を使った。二人を取り上げた産科医は現場診療からは退いていたが、その推薦で産科部長が葉月の担当医についた。
赤ちゃんは女の子と出生前診断されており、予定日は九月下旬だった。
ところが八月下旬のある日、葉月の体に異変が生じた。透明な液体が会陰部から流出したのである。破水した可能性があると思われたので、急遽、母に付き添われて鷲病院を受診した。しかし、担当医によれば、予定日まで一か月あり、尿漏れの可能性が高いとの診断で、葉月は自宅に帰された。
五月は勤めから帰ってきて葉月の経緯を聞き、見舞いに行った。
葉月はベッドに休んでおり、大汗を掻いた後らしく、髪が乱れて額に張り付いている。
「破水かもしれないって聞いたけど、大丈夫?」
息せき切って尋ねると、葉月は穏やかな表情でこっくりと頷いた。
「あたしも、そう思ったの。でも先生、おしっこだって言うのよ。失礼しちゃうわ」
「ははは。そんなに締まり悪くねえ、ってか」
葉月は笑いながら、じろりと五月を睨み、「耳年増の五月」と言い返した。
五月はとぼけて口笛を吹くそぶりをし、こほんと咳払いをした。
「照人の時は、初産だったから陣痛が長かったし、痛かったわ。でも今日はそんなに 痛くないの。それで破水じゃないって診断したんでしょうね」
「入院させて、様子を見てくれてもよさそうなもんだけどね」
五月は少し憤慨して見せたが、葉月は落ち着いており、表情も苦しげではない。しっかり者だから大丈夫だろう。「お大事に」と挨拶して、自宅へ引き上げた。
その翌日も、暑い日が続いた。
その日は嘉彦の透析の通院日で、午後から母が車椅子を押して日本堤病院の透析室に連れてきているはずだった。勤めが終わってから、父の様子を見に行こうと思い、透析室に向かった。
本館から出て別館へ行くだけで、むわっとする熱気が肌に感じられ、暑い風が吹き付けてくる。東京はいつの間に熱帯になってしまったのかと思うほどだ。
嘉彦はいつも通り治療を受けていたが、佐保子が妙に取り乱した表情でいた。五月の顔を見ると、いいところへ来たと言わんばかりに、手を掴んで部屋の外へ連れて行く。
「今、電話しようと思っていたところ。やっぱり葉月、破水だったみたいなの。今日も朝から少しずつ破水があったんだけど、さっき陣痛が来て、今、病院に向かってるのよ」
いつも落ち着いている佐保子が、娘と生まれてくる赤ん坊の緊急事態に、冷静でいられないようだ。でも、まず誰よりも匠が飛んで行っているだろう。
「それが匠さん、大学の研究室で実験中で、連絡がつかないらしいの」
「じゃあ、葉月はタクシーで?」
「ううん。自分で車、運転して行ったって」
五月は「えっ」と叫んだきり、しばし絶句した。
「そうなのよ。私、お父っつあんを連れて帰らなきゃならない。あんた、今すぐ行ける?」
これはのっぴきならない事態だ。飛んでいかなければならない。
母に「分った」と答え、透析室を出て本館へ駈け戻ると、手術場の同僚看護師に事情を伝えた。幸い、今日の午後は病院の各科とも、手術は予定されていない。
ジーンズとTシャツに着替え、ヘルメットを被って原付に跨り、アクセルを吹かす。日本堤から竜泉までは、目と鼻の先のようなものだ。ドヤ街の日本堤から、馬道通りを渡り、千束吉原の南側を抜けると、五分後には鷲病院に到着した。
病院玄関へ走るが、普段の運動不足が祟り、息が上がってしまう。日頃、もっとダイエットしろってことか。
葉月、待っていろよ。今、お姉ちゃんが飛んでいくぞ。
産科へ行ってみると、匠がいた。控室のソファに、所在無げに座っている。
匠の姿を見てほっとしたが、思わず語気が強くなった。
「匠さん、来てたんだ。おっかさんが連絡がつかないって心配していたよ」
「俺も葉月と連絡が取れなくて、困ってた。少し前に着いたが、駆け回っちまった」
疲労困憊の表情だ。
「今日もまたずいぶんと暑いね」
「ああ。まだ予定日は一月先の筈だし、昨日のは破水じゃないと思っていたから、まさか分娩室にいるとは思わなかった。マタニティ教室からこっちに来たら、看護師に『奥さん、もう分娩室に入っています』って。可哀想なこと、しちまった」
予定日より大幅に早いのが気にはなったものの、破水から陣痛、分娩開始までの時間が短いのは葉月らしいと五月は思った。
「さすが頑張り屋の葉月、芯の強い子だよ」
「つつがなく生まれてくれるといいけどね」
匠は下を向いて、両手を組み合わせた。
足先を細かく踏んでいる匠を見て、何か話をして気持ちをほぐしてやろうと思った。
「匠さん、照坊が生まれたときは、出産のときに立ち会ったよね?」
「うん。葉月の希望でね。横で手を握っててくれって。甘えん坊なんだよ」
匠は、妻を愛おしむ笑顔になった。
「今回も、マタニティ教室で講習を受ければ立ち合いOKだったんだ。でも緊急分娩で、それどころじゃなくなっちまった。せめて声を掛けたかったけれど仕方がない。ここで待とう」
外廊下で待つこと二時間、夕方六時過ぎだった。おぎゃあ、おぎゃあという赤ん坊の泣き声が聞こえた。控室まで聞こえてくる、元気のいい声だ。
五月と匠は、はっとしたように顔を見合わせた。
匠は、顔中が喜びと安堵に満ち溢れ、言葉が出ない様子だ。五月も同じ気持ちだった。
興奮のあまり我を忘れて、ひしと互いに肩を寄せ合い背中をたたき合った。
「やった!」「やったね!」「葉月、偉いぞ、よく頑張った」「大したもんだ」
娘が生まれたのだ。匠は顔をくしゃくしゃにしている。
子供がこの世に生を享けたときの気持ちは、最高に喜ばしいものだ。
「照人のときと同じ、いや、もっとかな。元気な泣き声だ」
「男親にとっての女の子だもんね。これから子供二人を育てて行くんだね」
今後の生活への期待に、匠は顔が自然と綻んでいる。わくわくする気持ちに満たされている様子が傍目にも分った。
初めての姪ができたことに、五月もとても幸せだった。
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