第6話 父の手術
翌日の日曜日は、いよいよ大宮入りの日だ。大宮入は三社権現の三人、すなわち桧前浜成、竹成兄弟と土師真中知を顕す三台の神輿がそれぞれの決まったルートを通って浅草の町を練りまわる。
昨日に続いて気合十分の祭り支度で、腕を組みながら神輿の取り巻きをしていたところ、昼ごろになって母から携帯が鳴った。出てみると、昨日、日本堤病院に入院した嘉彦の具合が悪く、今日は緊急透析とのことだった。
「意識もしっかりしているけど、どうにもだるいんですって」
今からすぐ行くよ、と母に告げた。
「町会の御役なのに、悪いね」
「まだ下っ端だから、神輿担げるわけじゃないの。町会長に断ってすぐ行くから」
家に飛んで帰ると葉月が照人と一緒にいた。
「検査結果が出て、お父っつぁん、クレアチニンが五以上、カリウムが八以上あるんだって。腎臓内科の主治医の脇坂先生が日曜透析の担当で、診てくださるって。透析の看護師さんもいるから、これから緊急透析してもらうそうよ」
やはりそうかと思った。糖尿病持ちの父の場合、今聞いた症状から考えやすいのは急性腎不全だ。カリウムが八あったら、心臓が止まる可能性もある。
五月はジーンズに着替えて原付にまたがり、日本堤病院への道を飛ばした。
別棟の透析室に行くと、待合室に母がいた。
「お父っつあん、今、右足の付け根に透析用のカテーテルを挿入されて、透析治療が始まったところ。中に匠さんと脇坂先生がいるわよ」
五月は透析室に入って行った。数人の日曜透析の患者さんに挨拶しながら、父のベッドに近づいた。匠が主治医の脇坂藤一郎と話をしている。
嘉彦はサングラスをかけて透析を受けながら、じっと天井を見つめていた。
緊急透析は四時間かけて行われ、嘉彦はかなり明るい表情になった。
「すっかり楽になったよ。胸苦しかったのも消えた」
心不全を起こしていたに違いない。
嘉彦が病室へ運ばれてから、藤一郎が、五月、母、匠を医師勤務室へ呼んで、いよいよ透析導入の時が来たと説明した。血液透析の際に穿刺針を挿入する太い血管を作るため、血管シャント手術を受ける必要がある。日本堤病院では匠が非常勤勤務の木曜日にシャント作成手術を担当していた。
「釈迦に説法になるから説明しませんが、シャント手術の予定を立てる必要があります。鵜飼先生、どうしますか」
「私がやりますよ。今週の木曜日に。五月、器械出しは、してくれるよね」
匠は五月の顔を見た。
五月は少しどぎまぎしたが、「分りました」と答えた。父親の手術に入るのはあまり気が進まなかったが、局所麻酔による小手術である。娘だからこそ、請け負わねば。 しかし、家族の手術でも全く迷うところがないのは、さすが匠は外科医だと思った。
藤一郎も突き詰めず、「じゃあそういうことで」と同意した。匠も五月も、どうもありがとうございます、と藤一郎に頭を下げた。
嘉彦の病室へ行くと、葉月が照人を抱っこして横についていた。
匠が嘉彦にこれからの治療について説明した。今後、血液透析を受ける必要があること、その後は一生、通院透析しなければならない可能性が強いこと、今週の木曜日にシャント手術を行う、執刀は匠、器械出しは五月が担当することを話した。
嘉彦は少し驚いた表情だが、「そりゃあ心強い。身内にやってもらえるなら安心だ」と喜んだ。葉月は夫が執刀するというので、誇らしげな様子だ。
「お父っつぁん、皆でお父っつぁんを守るよ。私だって、……どうしようかな。千羽鶴でも折ろう」
「シャントは左の前腕に作りますが、シャントが太くなって透析に使えるようになるのに三週間ほどかかります」
「あたしもここの看護師だったし、許可されたら手伝うわ」と佐保子が嘉彦の手を握った。
嘉彦はその手を握り返し、笑顔を見せた。
「透析やらなきゃならないって、俺は前から言われていたし、とっくに覚悟はできてる。いずれそうなるんだから、踏ん切りがついたってことさ」
五月は元気づけようと思って言った。
「お父っつあん、一緒に頑張ろう。全身麻酔じゃなくて、局所麻酔の手術だから心配するこたないよ」
「もう俎板の上の鯉だよ。矢でも鉄砲でも飛んでこいだ」
「手術の時もし痛かったら、構わないから、痛いって言っておくれよ」
「勿論、そのつもりさ。遠慮なんかしねえよ。江戸っ子は正直なんだ」
どこか破れかぶれなようだが、下町っ子の嘉彦らしい態度だった。
その週の木曜日、午後一番で、嘉彦のシャント作成手術が行われた。
シャント血管は、左前腕の正中動脈と橈骨静脈を吻合させることによって作られる。五月は緊張したが、匠は何のこともなく順調に手術を進めた。30分ほどで無事に手術は終了し、五月は胸を撫で下ろした。
手術が無事に終わる頃の解放感はいいものだ。とてもいい仕事を達成した気分になる。外科手術の一番幸せな時間帯と言える。嘉彦が手術室から病室へ運ばれ、手術器械の後片付けを終えてから、五月は見舞いに行った。
葉月が三社祭の写真を父に見せていた。自分でプリントアウトもしたが、写真店へ行って焼き増ししてもらったそうだ。
一枚は、匠が照人を肩車している写真。匠は青緑色の半纏を羽織り、白い鉢巻を締めている。赤い半纏が脱げかかっている照人は、片目に白い鉢巻が掛かったまま、雲一つない青空へ向かって、両手を突き上げている。なかなか決まっている。
もう一枚は、料亭の女将をしている粋な中年女性を真ん中に、若い姐さん二人が両脇について、照人が寝そべるように横に伸びて、三人に抱っこされている写真だ。
全員で撮った写真もあった。作務衣に青緑色の半纏をまとい、細い紐鉢巻を巻いた女衆は、いなせな雰囲気を醸し出し、魅力に満ちあふれている。うっとりするほど、いい写真だ。
嘉彦はいつまでも祭の写真を眺めながら、にこにこ笑っていた。
「見ろよ、これ。照坊、可愛いじゃねえか。五月も葉月も、他の女衆も、本当よく写ってるなあ。俺ももう一回、五人囃子で祭に出よう。そのためにも透析通いをしながら、まだまだ頑張るぞ」
五月も、家族も、嘉彦の周りに集まって、三社祭の写真を覗き込んだ。
これから通院透析の生活が待っているが、嘉彦には微塵の暗さも感じられなかった。
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