第3話 三社祭
浅草の住民にとって、三社祭は一年で最大の行事だ。 発祥は推古天皇の御代に遡る。
隅田川で漁をしていた漁師の桧前浜成、竹成兄弟の網に、人型の像が掛かった。
川に捨てて別の場所で網を投げても、何度も同じ像が掛かった。不思議に思った二人は、この像を土地の名士の土師真中知に見せたところ、真中知は聖観世音菩薩の尊像であると告げた。
土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を浅草寺とし、観音像を奉安して郷民の教化に生涯を捧げた。真中知の子が観世音の夢のお告げを受け、桧前浜成、竹成兄弟と土師真中知の三人を三社権現と称し、神として祀ったのが浅草神社の始まりである。
祭は五月第二週の木曜日の夜、本社神輿神霊入れの儀から始まり、金曜日の午後からびんざさら舞の行列が浅草の町を練り歩き、その奉納が行われる。
土曜日は、各町氏子神輿連合渡御の日であり、最終日の日曜日は、本社の一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮の大神輿が発進。氏子各町に渡御して、夕暮れ時に本社に宮入りする。
今日は土曜日、各町氏子神輿連合渡御の日だ。
観客が集まり、浅草っ子たちも心待ちにするのは、土曜日の各町氏子神輿連合渡御と、日曜日の三つの大神輿の宮入りだ。大神輿は担げる人数も限られる。浅草っ子たちが気兼ねなく参加して担げるのは、土曜日の各町氏子の町会渡御のほうだ。
朝から各町会の神輿大小百基がそれぞれの地元を練り歩いた後、浅草本堂裏広場に参集。そして浅草神社でお払いを受け、それから各町会に渡御する。それぞれの町の個性が出て、身近で楽しく感じられる日だ。
三社祭では、渡御の行列は、はじめにお囃子が乗った山車が先頭を切り、次いで神輿が続く。神輿には、男神輿、女神輿、子供神輿があって、それぞれ大、中、小神輿とも呼ばれる。出番は、小、中、大の順である。女性だけの神輿があるのは、浅草全体で四つか五つの町会であり、花川戸二丁目は、そのうちでも最も古くから女神輿を持っている。
五月にとって、三社祭は音頭取り役を務める一年に一度の晴れ舞台だ。
花川戸公園を通り、区立の小学校を横目に見ながら卸問屋が並ぶ区画を抜けると、町会事務所になっている商工会議所に着く。
商工会議所の通りには、背に「花二」と染め抜かれた印半纏を着込んでいる人々が集まっていた。男たちは濃紺か鼠色の法被に、両耳のところで立つように結んだ太目の鉢巻、女たちは濃紺か褐色の法被に細い捻り鉢巻姿だ。
山車には、屋根の縁に沿って、ぐるっと提灯が取り付けられている。
織島征志が事務所の前に腕組みして立っていた。
「おせえよ、五月。青年部は朝一に来なきゃ、勤まんねえぞ」
「わりい、わりい。五月だって女だよ。化粧に時間が掛かるんだ」
「美女はつれーな。馬子にも衣装ってか」
「そうなんだけど、ちょっとお父っつぁんが大変なんだ」
会議所から道路に張り出したテントの奥に、町会長の尾崎千一郎が座っていた。上は白の鯉口シャツに白の腹掛け、下は白の褌に白の足袋と雪駄履き、灰色の半纏を羽織っている。馬道通りで呉服屋を営んでおり、はきはきした話しぶりで、八十の歳を感じさせない。能と歌舞伎が大好きで、『花川戸古典芸能研究会』という地元の素人劇団を主宰している。町会の常連の多くがこの研究会のメンバーだ。
「元気者が来たね。あたしゃ、あんたを孫と思っとるんだ」
五月は挨拶してから嘉彦の具合が悪くて病院へ行ったことを伝えると、千一郎を始め、皆顔色を変えた。 千一郎は神妙な表情で言った。
「征志がいるから、とりあえず大丈夫だろう。西堀副会長、心配だねえ。たいしたことねえといいが。まあ皆で盛り上げようや。五月ちゃんもよろしくな」
五月は「任しといてください」と答えた。
半時もすると、事務所前の通りは神輿を担ぐ人々でごった返してきた。たむろする人々の間に混じって母たちの姿が映った。佐保子は普段着で、葉月はマタニティ・ドレスを着ている。
匠は上下の濃紺の作務衣に薄い青緑色の半纏、頭に捻り鉢巻きの祭り支度だ。 照人は幼児サイズの紺色の上下の前掛けと股引に赤の半纏姿で、少し硬くなっていた。
五月は初めての三社祭に緊張気味の匠に歩み寄り、格好をチェックした。
匠の後ろに回り、鉢巻きの両端が緩んでいるのを外し、きちんと折り目をつけて下の鉢巻に折り込んだ。
「これでいい。様になってる。何年も三社で担いでるって感じだよ。神輿を担いだ経験、あるんだっけ?」
「一回だけ。地方の病院で外科の外勤をしていたとき、地元の祭りでね」
「今日は音に聞こえた浅草三社祭、神輿の本場中の本場だから、気合入れていってくれよ」
匠は気合を新たにしている様子で、締まった表情になった。
午前九時、尾崎千一郎町会長が氏子神輿渡御の挨拶をし、皆で掛け声をかけた。
山車の上の五人囃子が演奏を始める。曲目は『屋台』だ。ゆっくりとした間合いで、ぴいー、ぴいーと、凛とした音色が街路を吹き抜ける。
篠笛の独奏から始まり、女衆二人が締め太鼓を叩き、鉦(かね)が入る。最後に泰芳が、気合のこもった撥(ばち)を入れた。体が大きいだけに、どん、どんと力強く太鼓の音が響く。
合力衆が山車の前後につき、前は綱で挽き、後ろは棒を押して、山車が進み始めた。続いて子供たちの小神輿が出発を待ち受けている。
二本棒に取り付けられた可愛い神輿が、小学生を中心とする花川戸の子供たちによって担ぎ上げられる。
そいや、そいやの、元気な掛け声とともに、動き出した。母親たちは熱い眼差しで我が子らを見詰め、すかさず写真をとり続けている。
子供神輿が角を曲がって小学校のほうへ消えると、次はいよいよ女神輿の番だ。
女衆は、気合を入れてまとめた頭に、細くお洒落な捻り鉢巻きを、きりきりと巻きつけた面々だ。五月は晴れ舞台の顔、顔、をぐるりと見回した。さあ、これからだと思うと、英気が体中に横溢(おういつ)してくるのを感じた。
「今日は集まってくれて、ありがとう。浅草老舗の女神輿、皆で盛り上げよう!」
「よっしゃあ!」と威勢のいい掛け声が返った。
「女衆の皆様、いよいよ出番だ。さあ、行くよ」
「やーやー」「さあさあ」という掛け声とともに、女神輿が立ち上がった。
先頭で五月が神輿に向かって立ち、「前へ、前へ」と掛け声を掛けながら、自分のほうへ招くように両腕を振る。
土曜日の朝の町は、春眠暁を覚えずだ。まだ家々の戸は閉まり、商店はシャッターが下りている。まだ風も冷たいが、神輿の担ぎ手たちは、担ぎ、揺られ、眠気はたちまちにしてどこかへ飛んでいく。小学校の曲がり角で振り返ると、トリを飾って、大きな掛け声とともに男神輿が立ち上がるのが見えた。大きいだけに、遠めでも迫力がある。
神輿が天に向けて高く差し上げられると、四本の担ぎ棒の下から男たちの腕が高くつき上げられる。
「おーおー」という咆哮(ほうこう)のような声が空に木霊(こだま)し、神輿は進み始めた。街路に「そいや、そいや」の太い掛け声が響く。
日本履物新聞社の前を通り、助六の碑がある姥ヶ池公園を回り、花川戸公園と区民会館の間を女神輿が通る。それから一ブロックほど遅れて続く男神輿が、馬道通りに出て行った。
五月は神輿に掛け声を掛けながら、前後を見渡した。少し進ませようとするときは、「前だ、前だ」と大きな声で発破(はっぱ)をかける。一方、早く進みすぎたと思えば、「抑えて、抑えて」と声をかけながら、担ぎ棒の先頭の端に手をかけて押し戻し、ペースを調整する。
最初からずっと担ぎ続ける気合十分の者もいれば、途中から入ってきたり、一通り汗をかくと早々に神輿を抜けたりする者もおり、めいめいのペースで参加している。
征志は担ぎ棒の前のほうに取り付いていた。慣れた身のこなしで声を掛けながら、勇まし気な表情で腕を振っている。流石は青年部幹部に推されただけある。
五月は、征志の男っぷりに改めて惚れ惚れしていた。
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