第2話 お祭り娘

 土曜日の朝の七時前、五月は明太子の握り飯を頬張りながら、ベランダの外から流れてくる軽快な笛の音に耳を傾けた。『投げ槍』という速いテンポの曲だ。

 朝食のテーブルには、握り飯の大皿と味噌汁の椀が並び、向かいには、匠と葉月が腰を下ろしている。子供用の椅子に照人が座り、両頬にご飯粒をつけながら、焼肉の握り飯を食べている。

 五月が外に気を取られている様子を見て笑った。

「祭囃子を聞いたら、五月はじっとしていられないんだね。お祭り娘だもんね」

「一年の一度の浅草っ子の生き甲斐だもの。居ても立ってもいらんないよ」

 五月はイクラの握り飯を一つ手に取ると、席を立った。

 ベランダに出て手摺にもたれ、眼下に流れる隅田川を見渡すと、頬に川風を感じる。

 護岸工事によって堤防と公園が造られ、対岸には首都高速道路が架かった景色が見える。かつて詩歌に詠われ、浮世絵に繰り返し描かれた景色は、今は想像するすべもない。高度成長経済時代には、産業排水によって汚染された。だが、現在は川の水の清浄度も大きく改善され、新しい川として生まれ変わっている。

 北側を眺めると、花川戸の町会事務所の辺りには、気の早い連中が、ぼちぼち法被姿で集まり始めている。篠笛の音が聞こえてくるのは。その辺りからだ。

匠と葉月もベランダへやってきた。

「祭の朝は早いわ。今日はパパと照ちゃんの三社デビューだからね。頑張ってね」

「晴れてよかったね。雲一つない」

「天気予報は、一日中ずっと快晴だって。最高気温二十八度、降水確率ゼロ。暑くなりそうね」

 五月と葉月は、竜泉にある鷲(おおとり)病院という産院で産湯を使った。葉月は五月の五つ年下だが、見掛けも性格も対照的だ。父に似て目鼻立ちのはっきりした顔立ち、均整の取れたスタイル。健康なところは母似だ。両親のいいとこ取りのような妹を羨ましく思う。五月は見てくれも言葉使いも男みたいで、太い声で、喋り方もがらっぱちな調子だ。

 葉月は、いつも男日照りの五月を反面教師と見ていたのか、「早々に結婚して家庭を作りたい」と話していた。日本堤病院に勤めて三年目の二十三歳のとき、病院の非常勤の外科医師だった匠と結婚し、家を出た。

 一年半前に長男の照人を産んでから、鵜飼一家は西堀家のマンションの隣が開いていたのを幸い、隣り合わせて暮らすようになった。目下、二番目の子を妊娠中だ。

鵜飼匠は大学病院の消化器外科に籍を置く外科医師で、現在は医学博士号を取るために研究している。日本堤病院で週に一回、非常勤医として手術や当直業務に当たっていた。

 五月と並んで隅田川を眺めていた葉月は、「あっ」と小さな驚きの声を上げた。

「ねえ、今、蹴ったのよ」

 葉月は夫の手を取って自分のお腹に当てながら、横目で夫の顔を見た。

「ちょっと、待って」

 二人はそのまま、しばらくじっとしている。

 祭囃子の音の高まりとともに、手に振動を感じた様子だ。

「ほら」と葉月は嬉しそうな表情で匠を見、匠も笑顔で妻の顔を見詰めた。

 正直、羨ましいと思わないではいられない。家庭を作る若夫婦の姿は、五月の身には輝かしく見える。

 母の佐保子は根っから子供が好きで、自分の子供や孫は勿論、親戚や友人であっても、赤ちゃんが生まれると飛んで行って世話をしたがる。ベビーシッターとして雇われる場合もあるし、そうでなくても、無償で世話を焼きに行く。

 葉月も母親同様、大の子供好きで、普段から、五人は子供を産みたいと話していた。五月も自分では子供好きなつもりだが、とかく兄貴分のように扱われがちだ。

「お腹に赤ちゃんがいるって、どんな気分?」

 五月が尋ねると、葉月はうっとりしたような表情で答えた。

「得も言われぬほど幸せよ。自分の中で、命が大きくなっていく幸せ。なんていうかなー、自分も一緒に育っていくっていうか…」

 子供を孕むあらゆる動物、産んでからも、自分のおなかで育てるカンガルーやコアラ、卵を抱く母鳥など、大地の母性なるものを連想させる、葉月の幸せそうな様子がとても愛おしく思えるのであった。

 診てもらっている鷲病院の産科の医師によると、葉月は現在妊娠六ヶ月目で、赤ちゃんは女の子と出生前診断されており、予定日は九月下旬だという。

 祭り囃子の笛の音を聞いて、母親の腹を蹴るとは天晴れだ。この子は母親のお腹の中にいる今のうちから、早くも浅草っ子として生まれてくる日を待ち侘びている。あたしみたいなやんちゃな女の子になるに違いないよ。

 すると、「ママ、お祭りだよ!、お祭り!」と言いながら照人がよちよちと歩いてきて、葉月の足元に纏わりついた。一歳半の子は、片時も離れてくれない。

「照坊主、こっちおいで」

 抱き上げると、照人は右手をぐるぐると元気よく振り回した。

「やる気満々だね。照坊主のおかげで御覧の通りの五月晴れだ。匠さんもよろしく頼むよ」

「そうだな。やっと三社デビューか。この春、五月に照坊を神輿に乗っけてやると誘われた時から、実は心待ちにしてたんだよ」

 匠の言葉に、匠を三社祭に参加するよう誘った経緯を思い返した。

 当初、匠は喜んだものの、不安を隠さなかった。

「浅草っ子冥利に尽きるけれど、照坊はまだ一歳半だよ。大丈夫かな」

 五月は匠の肩に手をやり、考え込んでいる顔を覗き込みながら言った。

「浅草じゃあ、赤ん坊は首が据わったら、神輿に乗っけるんだよ」

 赤ん坊は、首の筋肉の発達とともに首の位置が安定してくるが、その時期は一般的には生後四ヶ月である。つまり、生まれて四、五ヶ月したら、神輿に乗せてしまうわけだ。

 匠は難色を示した表情で、再度「大丈夫か」と尋ねた。「それって、看護師の言うことか」とでも思っている顔だったが、しばし考えてから心を決めたらしい。

「ここは一丁、照坊を浅草っ子の仲間入りをさせてもらおうかな」

「それでこそ、花川戸の男だよ」

 五月は、匠が複雑な表情で承知したことを思い出し、可笑しくなった。

「あの時はいやがってたけれど、今は心待ちかい?」

「五月の口から出るとあまりにはまっていて、文句のつけようがなかったからね」

「神輿、頼むよ。家族安泰を浅草の神様にお願いしよう」

 五月はどんと匠の肩を叩いた。

 そういえば、嘉彦は祭りの当日なのに、なかなか寝室から出てこない。

 佐保子が嘉彦の様子を見に行き、何事か心配そうに声をかけていたが、しばらくすると戻ってきた。

「お父さん、起きれないみたい。あたし、照坊のお披露目を見たら、午後にでも日本堤病院へお父さんを連れて行くわ」

「そうだね」

 五月が様子を見に行くと、嘉彦は顔色が青黒い。体調を崩した腎不全患者の顔だ。

「お父っつぁん、具合悪そうだね。今年は無理だよ」

「三社は俺の生き甲斐だ。それを奪われるかと思うと寂しいよ。歳は取りたくねえもんだ」

「また来年があるさ」

 嘉彦は寂しく笑った。

「尾崎町会長によろしく伝えてくれ。囃子の仲間にも。今年は征志と泰芳に任せた」

五月は「あいよ」と答え、自分の部屋に戻ると、衣装棚から祭り衣装を引っ張り出した。

 濃紺の上下の作務衣(さむえ)に着替え、半纏(はんてん)を羽織り、捻り鉢巻で鏡の前に立った。町会長の家が呉服屋で、そこで誂(あつら)えた半纏は、背中に「花二」と描かれている落ち着いた青緑色だ。

 美容院に行ったばかりなので、鏡に映る前髪はきちんと五分刈りに揃えられ、鬢も両耳の上まで綺麗に刈り上げられている。正面で構え、ちょっと斜を向き、首を傾げて自分の姿を見ていると、葉月がやってきて五月の晴れ姿を覗き込んだ。

「紫ちりめんの鉢巻き、着物は、黒羽二重の小袖に紅絹(もみ)裏、褌(ふんどし)まで紅色」と紹介される花川戸助六のような派手な組み合わせの色は、花札の絵柄の色、神輿を担ぐ由緒正しき者たちの着る色ではない、というのが五月の持論だ。葉月にも、神輿を神様に奉納する者に相応しい品が大事、地味で落ち着いた色がよい、と言い聞かせてきた。

「浅草広しといえども数少ない女神輿、担ぐにゃ女に未練があっちゃいけねえ」

 五月は歌舞伎役者のように、首を振り振り、眉根を寄せ、こぶしを利かせながら大見得を切った。鉢巻の位置を少し直し、両頬をパンパンと叩く。

「時間一杯の関取みたいね」

「あたしもそう思う。でも、この日ばかりは気合が入っちまうよな」

 両腕を組んで、胸を反らせてみる。

「ちょっと男伊達にすぎちまうかな。すっぴんだと、あたしゃ、まるっきり男だね」

 今度は両の袖を腕まくりして、逞しい二の腕を出してみた。

「見なよ、葉月。我ながら良い男っぷり。おっ母さん、なんであたしを男に産んでくれなかった。それじゃあ、行ってくるよ」

「早いね」と佐保子が言葉を返した。

「もう皆、集まり始めてるよ。町会青年部は、小原庄助さんみたいに朝寝朝酒朝湯じゃ勤まらねえの。葉月、あとから匠さんたちと誘い合わせて来な。遅れるなよ」

 家を出ようとすると、佐保子の声が追いかけてきた。

「あんまり飛ばすんじゃないよ。いつぞやみたいに、大立ち回りして留置場にぶち込まれるなんて、沢山だからね。朝一で警察に娘を引き取りに行くなんて、もうごめんだよ」

 五月は旧悪を思い出させられ、ひやりとした。

 それは、何年か前の三社祭で大宮入りの日曜日のことだった。宝蔵門のところで五月はどこぞのチンピラたちとやり合い、取っ組み合いの喧嘩になったのだ。

胸倉を掴まれて殴られたので、パンチを繰り出して応酬した。

 警官数人が駆け付け、チンピラたちは逃げてしまったが、五月は顔を腫らせながらも正々堂々と取り調べに応じた。その結果、派出所にしょっ引かれる羽目になった。

留置場に入れられてから、ベッドに横になりもせず、祭支度のまま冷たいコンクリートの上に胡坐(あぐら)を掻いた。

 間もなく警察に呼ばれた両親は血相を変えていた。

 普段から、図太いと自他共に認める佐保子もおろおろと狼狽し、演技半分、涙ながらに派出所の巡査に娘を返してくれるよう訴えた。嘉彦は低姿勢でお願いしていたが、段々興奮してきて、「威勢はいいが、家の娘は他人様に自分から喧嘩を売るような玉ではない。明らかに売られた喧嘩で、正当防衛だ」と声を荒げて主張した。

 しかし警察からは、「チンピラどもが、意趣返しを狙って来ないとも限らないから、安全のためにも出せない」と返答され、両親の要求は撥ねつけられた。

 結局、五月は朝まで留め置かれ、留置場の冷たい壁に背をつけて腕を組み、腫れた顔のまま瞑目して一晩を過ごした。

 この時の失態を思い出すと、ほのかに自戒の念が湧きもする。 

 親には心配させたが、あたしは後ろめたい行いは、何もしなかったさ。

「分ってるって。心配すんな、おっ母さん。行ってきます。お父っつぁんを頼んだよ」

 五月は声を響かせ、町会事務所に出かけた。

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