花川戸

松浦泉

第1章 町会神輿渡御

第1話 天戸組


 馬道通りの停留所でバスから降りると、横町から澄んだ笛の音が響いてきた。

 町会青年部の集まりがある商工会議所のほうからだ。

 西堀五月は表通りの喧噪を縫って流れてくる祭囃子に耳を傾けた。

 そちらへ歩いていくと、笛の音が徐々に大きく聞こえてくる。あれは父が吹く篠笛に違いない。緩やかで心の琴線に触れる旋律が、一日の仕事の疲れを癒してくれる。

 お父っつぁん、気合が入っているな。今年もいよいよ明日から三社祭だ。

 五月は浅草の北にある日本堤病院で手術場に務める看護師で、二十九歳になる。背は一六〇㎝でそれほど高くないけれど、肩幅が広く、色黒でがっしりしているので、他人からは大きく見られる。髪はショートカットに揃え、後ろは刈り上げ、前髪は立てている。

 いつも格子縞のシャツにGジャン、ジーンズ姿の五月は、一見女性に見えないらしい。まあ、自分でも自分を男だと思っているから、それで構わないと思っている。

 親分肌で気っ風がいい性質のせいか、仕事でもアフターファイブでも姐御役だ。金が入るとたちまち仲間に大盤振舞いして呑んでしまうから、いつも金に困っている。「宵越しの銭は持たねえ」江戸っ子気質を地で行っているってところだ。

 角を曲がり、花川戸商工会議所の通りに入ると、彼方に山車の姿が見えた。山車の奥に五月の父、西堀嘉彦が陣取り、女衆とともに篠笛を奏している。

 ここ浅草花川戸には、嘉彦が仲間たちと立ち上げた「天戸組」という祭囃子連がある。結成して三十年以上になるが、今や主力は五月たち、若い世代に移っている。毎年、三社祭で神楽を奏するのが一年で最高のお披露目の機会だ。山車と神輿とで編成される町会渡御の行列では先頭を切って出て行く。

 直前の水曜日の今日、天戸組の全員が予行演習と打ち合わせに商工会議所にある町会本部に集まっていた。雛祭りの歌にもある「五人囃子」で、前列には大太鼓が一人と締太鼓が二人、後列には笛と鉦(かね)が一人ずつ配される。嘉彦が見本を示し、女衆がならって練習しているところだった。

 その遠い昔から継承されてきた古風な音色にどこか懐かしさを覚える。江戸時代は享保の頃、江戸川流域で発祥した葛西囃子は関東から東海道一帯にかけて多くの祭り囃子の源流となった。三社囃子、神田囃子なども葛西囃子を祖としている。

 嘉彦は仕出し弁当の工場を営んでおり、現在、花川戸の町会で副会長を務めている。篠笛の師匠として長く若衆の指導に当たり、今年六十歳になる。

 我が父親ながらも、五月は嘉彦が篠笛を吹く姿に見惚れていた。背が高く、色黒、鷲鼻で、やや吊り気味のくっきりした目。妹の葉月は父親似の美人だが、五月は基本、母親の佐保子に似て豪傑顔だ。五月も葉月のような美人に生まれたかったなあと思うが、「あたしには花川戸の女番長として生きる道がある」と自分を納得させてきた。

 祭囃子の稽古がいったん終わると、嘉彦は六畳敷きほどの山車の奥から前方に歩み出た。長くなってきた夕日を浴びて、背の高いシルエットが「あしながおじさん」のように見える。手を挙げて「おう、五月」と声を掛けたので、手を振り返した。

「お父っつぁん、気合入ってるね。体の具合、大丈夫?」

「まあまあだ」

 嘉彦には糖尿病の持病があり、五月が勤める日本堤病院に掛かりつけだ。合併症の網膜症を患い、いつも焦げ茶色の度入りのサングラスを掛けている。家の中でさえ、テレビを見る時に画面の光が眩しいらしくて使っている。近頃はもう一つの合併症、糖尿病性腎症の進行を指摘され、腎臓内科医にはいずれ血液透析が必要と診断されていた。

「お父っつぁん、無理しないでよ」

「今年は照坊の三社デビューだ。頑張るさ」

 照坊とは、五月の妹、葉月と夫の鵜飼匠の一歳半になる長男、照人のことだ。今年の三社祭で、匠に肩車させながら神輿を担がせる、と約束したのだ。

山車の周りを、合力役の数人の男たちが取り巻いている。

 力士並みのでかい図体にビール腹の禿げ頭は、不動産屋の岡泰芳だ。皆から「やっさん」と綽名で呼ばれている。座り込んで缶ビールを飲み、真っ赤な顔をしている。

 いけねえな、神聖な祭りの前から飲んだくれてちゃあ。羽目を外し過ぎだろ、それに少しは痩せろよ、やっさん。あたしは他人様のがたいのよさをあげつらえる立場じゃないけど。

 五月は歩み寄って声を掛けた。

「いいご機嫌だね、やっさん。商売繁盛かい?」

「ぼちぼちよ。ついさっき、ここへ来る前に橋場の物件が一つ売れたのさ」

 泰芳は巨体を揺すり、得意げな表情を浮かべた。

 威圧感のある風袋の上、口達者で立て板に水ときている。福禄寿のような笑顔を浮かべて、流暢な弁舌で不動産物件を勧められたら、客はついつい物件を買ってしまうのかもしれない。 仲間内の飲み会ではいつも宴会部長役だ。

「やっさん、今日は、十八番の太鼓は叩かねえの?」

「この通りよ。大太鼓は征志が後を継いでくれる」

 山車の左前の角には太鼓が据えられており、織島征志が撥(ばち)を執っている。

 征志は五月の高校時代の同級生だ。今年から町会青年部の幹部になったこともあって、張り切っている。曲調に合わせて気合の入った撥を入れている。征志の家は、花川戸商工会議所の近くにある『オリシマ』という名の靴店である。大手の製靴会社に数年勤めた後、今は父親とともに実家を切り盛りしている。

 征志は山車の上からちらっと五月に目をくれた。よおと言ったのか、口を丸くすぼめた。五月は一瞬、どきっとした。

 投げキスなら歓迎だよ、征志。あたしゃ、ぞっこんあんたに惚れてんだから。太鼓に集中している横顔、凛々しいよ。

 上背はあまりないが、肩幅が広くて両腕の腱が逞しく張っており、撥を入れるたびに筋張って見える。ガテン系の職人肌で、下町の伝統を継ぐ雰囲気を漂わす征志に、五月は同じガテン系の女子として共感を覚えずにいられない。

 征志とは幼馴染のようなもので、高校以来の長い付き合いであり、町会青年部の同志だ。五月はずっと恋愛感情を持ってきたのに、残念ながら思いは実ったことがない。いくら誘っても征志は五月に気がないようだった。

 征志は放浪気質とでもいうのか、金をためるとバックパッカーとなり、海外の旅に出てしまうことがしばしばだ。大手の製靴会社の勤務も、恋い焦がれた外国行きのために辞めてしまった。そのたびに、五月の思いは空振りを繰り返してきた。

 ひょっとすると、あたしから逃げるために海外へ行くんじゃないよね?

 お互い身を固めてもいい歳だよ、と皮肉を言いたくもなる。でもそれは五月の勝手な思い込みか。征志のほうでは、五月を女と思っていなさそうだ。

 泰芳は征志の力強い太鼓を聴きながら、両手に500㏄の缶ビールを持って、いい機嫌であおっている。丸坊主に刈り上げた頭までが上気し、ときどき太鼓に合わせるように、ぴしゃりと叩く。至極満悦の様子だ。

「やっさん、祭りの前からそんなに飲んじゃ、神様に怒られやしねえかい?」

「祭りとはそういうもんよ、五月ちゃん。花川戸町会青年部の女番長さんよ、堅苦しいこと、言うなや」

 泰芳は肩をすくめておどけた。

「大丈夫、神様はお怒りにならねぇ。常に我々天戸組をお守りくださるってもんよ」

「でも天照大神が須佐之男尊(みこと)の乱暴に怒ったみたいに、怒るかもよ。天照様が天の岩戸から出てこなくなったら、どうする? 世の中、真っ暗になっちまうじゃないか」

「そしたら、五月ちゃんがアメノウズメみたいに、裸踊り、やってくれや」

「あたしがか?」

「そうよ。皆、大笑いだ。天照大神も見たくて飛び出してくるぞ」

自分の返事が気に入ったか、泰芳は豪傑笑いをした。

「あたしを女だと思ってねえな。見てろよ」

 五月はGジャンを脱ぎすて、シャツの前ボタンをいくつか開けた。

 しなを作りながら、泰芳にウィンクして右手を左肩に当てた。

「よっ、待ってたぜ、女番長。五月ちゃんのアメノウズメ・ショーの御開帳(ごかいちょう)だ」

 泰芳は満面の笑みになり、両手を広げて手拍子を打った。 周囲の合力衆も、「五月、五月」とコールをかけ始めた。

 困っちまったな。よっしゃ、一発、はったりかましたるか。

「歌舞伎の助六よろしく、大見得を切ってやるよ。止めるなら、今のうちだよ」

 本当は止めてほしいのにと、合力衆の目の色を窺(うかが)った。

「いいぞ、いいぞ。どんどん行ってくんな。何なら山車の上でやってくれよ。わざわざロック座まで行かねえでも、花川戸の五月ちゃんで御用達だぜ。ワッハッハ」

泰芳が周囲を見回すと、周りの合力衆も、そりゃいいやとばかりゲラゲラ笑い出した。

 にべもない。年頃の女の心のうちなど知る由もなさげな返事に、五月は度胸を決めた。綽名で女助六とも呼ばれるあたしだ、その名にかけてもあとには引けねえ。

五月はシャツをぐっと下ろし、左の肩から腋までを大きく出してみせた。やるからには突っ張って、顔をぐいと上に向けてみせたが、どこまで見えているだろう、きわどい所だ。

 泰芳は双肌を脱がんばかりの五月の威勢に驚いた様子だ。『本当にやるとは』思っていなかったらしい。慌てたのではかえって収まりがつかないと思ったのか、「いよっ」と気合を掛け、さりげなく山車の上の嘉彦の反応を窺った。

 嘉彦は再び囃子の練習に取り掛かっており、五月の様子など目に入らないのか、一心に篠笛を奏している。五月も『父の手前、あまり馬鹿はできないな』と思い、悪乗りはこの辺でおしまいにすることにした。

「はい、五月のアメノウズメ・ショー、今日はここまで」

「何だ、勿体ねえ」

「あたしだって、レディーなんだぞ」

 嘉彦の笛の音を聞いていると、祭の実感が湧いてくる。

 今年もいよいよ明日、木曜日の夜の本社神輿神霊(かみたま)入れの儀をもって、三社祭が始まる。

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