第6話

 何がしたかったのだろうか、そう思うと同時に気付く。その黒い影に。人型をしている。どれ程離れているのかは分からない、いや実際のところは把握している。ガードレールと較べてソレが異様に大きいことが遠近感を狂わせていた。確かにソレは俺に向かって近付いていた。俺はようやっと異様な雰囲気に気付いて逃げることにした。触らぬ神に祟りなし、ってやつだ。もう既に触った後かもしれないけれど。気持ち悪い足音が高速で近付いてきた。



 ────ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた



 勝也にあげた妖怪図鑑やらネットの都市伝説やらを何故か思い出していた。べとべとさんかテケテケか、下半身もあるように見えたので前者の類だろう。ただ道を譲っただけで済みそうだとはおもえないのだけど



 走る。

 駆ける。

 全速力で。

 心音が唸る。

 吐く息は熱い。

 足音は離れない。

 面白くなって笑う。

 耳元で呼吸音がする。

 折り畳み傘を放り出す。

 後ろで当たった音がした。

 肺は暴れ脳に血が上りゆく。

 瞬く間に思考は爆ぜて消えた。




 いい加減疲れて、というか何故俺が逃げなきゃならないのかわからなくなって立ち止まった。



 ────ぉぉぉぉぉぉおおああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!


 うるさ、そんでもって気持ち悪い。ソレは有無を言わさず俺の両肩を掴む。俺の眼前にソレの頭部と思しき部分が近付いた。近くで見るとソレがより不思議なナリをしているのがわかる。黒い粘土に眼球と口蓋だけを埋め込んだような顔が俺を見つめる。よくよく見ればソレは大きな籠か何かを背負っているようだった。布が擦れる音がする。眼球が舐め回すように俺の頭頂部から爪先までを見て、ニタァと笑う。剥き出しの歯列と糸をひく唾液が酷く脳裏に焼き付く。


 汗と煙草、それからむせ返るような獣の匂い。燥ぐ駄犬のような荒い喘ぎとその奥に何か声がする。……作られたような幼い、甘い声と歌。…アニソン?


 ソレは口を大きく開いて、俺の肩を掴んだままの両手に力を込めた。それから、それから──



「ぶっ殺すぞ! 変態ロリショタぺド野郎が!」


 バチチッ、と弾けるような音と閃光でソレの顔を灼く。


「テメェ! 今この俺を押し倒そうしたな! そんで何するつもりだった、そのちゃっちい××でよぉ! あぁ、言ってみろよ○○野郎が!」

 矢継ぎ早に句を繋いで右手に握り締めたスタンガンを再度影に当てる。ソレは電光を避けるように後ろに飛び退く。俺がスタンガンのトリガーから指を離すと、再度突進してきた。

 大振りの拳は空を切る。迷うことなく俺の顔面を狙ったまではいいが、腰が引けてるんだよ腑抜けが! 俺は背負っていたリュックを投げ付けて、その高い腰にタックルをかます。

 俺はソレを逆に押し倒して馬乗りになっていた。血圧が高くなる。血流が急く。血管の一つ一つが拡がっているように感じた。今、間違いなく俺は怒髪が天を衝いている。固めた拳をソレ目掛けて沈める。肉の潰れる音が鳴って、その奥に微かに女性の叫び声や震える声が聴こえる。その声は先程まで喋っていた少女にとてもよく似ていた。

「…ッ! その! 不愉快な! BGMを! 今すぐ! 止めろッ!」

 掻き消すように声をあげる。何が理由で絡まれたのかなんて知ったこっちゃないが、こんなクソがいたら拓人の身も危ない。お前はここで死ね。この××が。



 ──グチャグチャグチャグチャ。

 どれ程殴り続けていただろうか、ソレは時折発していた奇声もあげなくって肉を地面に叩き付けるような音だけが響いていた。少しだけ荒ぶっていた心が落ち着いて周囲に気を配る余裕が出来て気付く。虫の鳴き声がする。ふと空を見上げれば叢雲は割れて月が辺りを照らしていた。


「兄ちゃん!」

 声がして、振り返ると懐中電灯を持った婆さんと拓人が二人して畦道に立っていた。拓人は雨靴をバシャバシャと鳴らして向かってくる。

「何してんの?」

 拓人が無邪気そうに聞いてくる。

「何って…」

 俺は先程まで組み敷いていたものに視線を移そうとして、そこには何もなかったことに気付く。

「……あー、妖怪さんとお話してたよ」

「本当ー! どんな妖怪!」

「二人とも後にしな! ご飯冷めちゃうだろ!」

 拓人にどこまで話していいものか迷っていると婆さんによって会話は遮られた。

 俺はとりあえず立ち上がってリュックを拾い、制服に付いた固まった泥を払う。左の手の甲がズキッと痛み、よくよく見れば人間のものと思しき歯が刺さっていた。汚ッ! 直ちに引き抜いて茂みに投げ棄てた。

「帰りが遅いから道にでも迷ったんかと思って探しにくれば、全く…あんたは、本当に寛子の血が強いんだねぇ」

 婆さんはその白髪を掻き上げながら溜息をつく。俺は少しだけ居た堪れない気持ちになって、心細く滲む月を見上げて歩き出した。


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Dord キャベツ @Cabbage21

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