第5話
取り敢えず最後の数学のプリントが終わったので教師の元に持っていく。教師はそれを受け取るとその場で採点して返してくれる。彼女は数学担当らしい。
プリントは自信はあったのに最後の問題だけ途中式でミスったらしく三角付けられた。
「うん、成績優秀だね。…もう五時半か。不審者とかお化けとか、帰り気をつけてね」
「もう夏ですよ、時期外れでしょ」
頭が沸いた人が増えるのは春先だと思う。冬眠から目覚めた、越冬した変態共が地上に出てくるのだ。
リュックを前がけにしてファイルの中にプリントを仕舞う。彼女は回転イスでこちらを振り向くと
「何言ってんの、夏がシーズン真っ盛りでしょ」
「魑魅魍魎の類の話されてます? それって気をつけてどうにかなる問題なんすか?」
教師は少し考える素振りを見せて「それもそうだね」と納得したように頷いた。
「じゃあ、もう教室閉めるよ」
そう言われて廊下に出る。空模様を見ようとして窓に近づくと向かい側の棟、一つ上の階の廊下に誰かが歩いているのが見えた。
向かいの棟は廊下すら電気がついておらず、そんな中で一人何をしているのか。
俺が今いるのが二階なので、その誰かさんは三階にいるのだろう。顔は暗くてよく見えないが、白いシャツは男子の制服だろう。しばらく俺もそれを見ていると教室の施錠を終えた教師が話しかけてくる。
「どうかしたの?」
「え、あぁ向かいの棟の三階…」
「あぁ、あそこは音楽室があるの。今は改装工事中で立ち入り禁止なんだけどね。…で、音楽室がどうかした?」
「いや、誰か居た気がしただけです」
俺は白シャツの誰かさんから目線を外して教師に向き直る。教師は少し、困ったような笑みを見せて「行こっか」と歩き始める。
「以前からね、音楽室に出るって生徒の間で噂になってるのよ。夕方になると髪の長い女子生徒が地べたを這いずりながら追いかけてくるって」
「…髪の長い女子生徒?」
俺が見たのは男子生徒だった。いや正確にはその制服の白いシャツが移動しているのが見えただけだが。
「あくまでも噂よ、噂」
そう言ってるうちに職員室前について教師は「サヨウナラ」と機械的にしめたので俺もオウム返しして玄関へ向かう。
玄関から外に出ると雨は上がって仄かに雨の匂い、それが鼻腔をくすぐる。空は夕日の明かりに東から遠く宇宙の色が滲んでいた。
蝉の音を掻き消すようにイヤホンから流れる曲をヘビロテする。
校門を出て家目指して田舎の畦道を一直線に歩いていると「祥ちゃん!」と声を掛けられた。振り返ると見覚えのある女子がそこには立っていた。
「あぁ、えっと………み、っちゃん? だよね」
「うろ覚えなんでしょ。奥、奥三葉」
俺が言葉に詰まった理由を察して彼女は名乗ってくれた。汚れのない真っ白なスニーカーの良く似合うショートカットの少女だ。
朧気ながら昔、こちらに来た時に公園や野原で遊んだ記憶がある。そう、こんな顔立ちの少女だった。こうも曖昧なのはそれが小学生時代の記憶だからだ。中学生の夏もここを訪れたが、その時には出会うことがなかった。
「あ、俺夏休み明けから──」
「転校してくるんでしょ。知っとるよ。皆噂しとったけぇ」
田舎だとこういう噂が出回るのも早いのだろうか。そう思いながら彼女の隣に並び立って歩く。
「祥ちゃん、通学路こっちなんだ。一緒だね」
「…みっちゃ、奥さんも鴫なの?」
「そう鴫。……昔みたいにみっちゃんでいいよ。奥さんって呼ばれると違和感あるし、それに結婚もしてないしね! 一緒にいこ」
鉄板のジョークなのか彼女はそう言ってはにかむ。既に辺りは仄暗いにも関わらず彼女の笑顔は目立つ。
彼女の言葉に頷こうとして靴紐が解けていることに気付いた。
「ちょっと待って靴紐なおしていい?」
「……いいけど急いで、間に合わなくなっちゃう」
「ん? うん」
曖昧な返事をする。鴫までは歩いて帰れる距離だ。バス停の時刻を指しているわけではないんだろう。門限でもあるんだろうか。或いは何か見たい番組があるとか。
しゃがもうとして泥濘に近付くのを嫌い、ガードレールの鉄柱に足を掛けて靴紐を直す。ふと、今来た道に人影が見えた。少し先で俺の事を待つようにしていた彼女の元へ小走りで近付く。
「祥ちゃんはこんな時間まで学校残ってたんだね。手続きとかあるの?」
「そう。…みっちゃんも遅いね、部活?」
俺の質問に彼女は此方を振り向くこともせず返答する。
「昼前から部活だったの。……何部だと思う?」
彼女なりに会話が続くように考えたのだろうか。少し間を空けてそう聞かれたので、改めて彼女を見る。ふぅむ? ショートカットがイコール運動部ってのは俺の偏見だろうか。しかし、昼前からこんな時間まで夏休み中に部活となると、それなりに強豪の部かもしれない。
…そもそもこの高校何部があるんだろうか。そんな事を考えて上の空。
「ねぇ、祥ちゃん。祥ちゃんはさ、生きてて楽しい?」
蝉の声が止んだ。空はいつの間にか夕日が沈みきって暗く命を感じさせない。考えてる内に彼女は歩みを止めたらしく、俺の隣には虚空がある。
「は?」
急に話の流れをぶった斬る質問の意図がわからず、聞き返す。
「祥ちゃん、私のとこまで来てよ」
振り向くとそこに奥三葉と名乗った少女の姿はなかった。
化かされたかな。よくよく考えてみればこの泥濘だらけの道を通学路にして、汚れない真っ白なスニーカーがあるわけもないか。ましてや昼に来たのなら大雨だった筈なので尚更。
何がしたかったのだろうか。そう思うのと同時に俺はやっとソレの存在に気付くのだった。
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