「ふふんふ、ふんふんふ~」


 薬湯の方から友人Sの鼻歌が聞こえてきた。浴場内には僕と彼しか居ないので、響いている。


「それにしても、偶然ですね!」


 赤い手拭いを頭に乗せながら、こちらに話しかけてきた。


「そうだな」


 シャワーの水音に掻き消されないように、少し大きい声で返事した。


「ここの銭湯のタイル、やっぱ良いですよねぇ。特にこのタイルの色がグラデーションになってるところとか」


 今度は返事をしなかった。只今絶賛髪を洗っている最中だったから。



 僕はこの銭湯の常連だ。なんせ下宿先にはシャワーしかないので、お湯につかりたいときはここに来ている。ただ、キャンパスに近いということもあり、浴室内で顔なじみに会うことがしばしばある。その中でも特にSとはよく会う。僕と同じタイミングを狙って来ているのではないかと最近は疑っている。



「確かにいいよな、ここのタイル」


 体も洗い終わったので、薬湯に入っているSの隣に座った。今日の薬湯は秋桜の湯で、とても良い香りだ。


「そんなことより、まさか私が来ることを察知して、狙って来たんですか?」


「そんなわけないだろう」


 どうやら同じことを考えていたみたいだ。



 水風呂にはライオンの蛇口が付いている。まるでライオンの口から流れている水が溜まった風呂みたいだ。


 そんな水風呂に体育座りで入っているSがニヤニヤしながら話しかけてきた。


「そういえば、誘ったんです? 彼女を」


「あー……なんのことだか……」


「しらばっくれたって無駄ですよ! わかりやすいですからね。あのバイトの番台さん好きなんでしょ」


 どうやらSにはバレていたみたいだ。


 彼女とは同じ大学で同じ学部なのだが、キャンパス内で話したことはほとんどなかった。彼女が偶々僕のお気に入りの銭湯でバイトしはじめたので、話すようになり、次第に好意を抱いていった。



「別に茶化そうとしてるわけじゃないですよ。応援してるんです」


 そうは思えない。Sとはそれなりに付き合いが長いが、彼がこういう事柄を純粋に応援しているのを見たことがない。


「本当にそう思っているのか?」


「勿論思ってますよ。そりゃあ、友人ですからね」


 Sはニヤリと笑いながら、そう言った。


  

 ここは彼の後押しに乗ろうと思う。情けないが、背中でも押されなきゃ、彼女と次のステップに進めないと自分でもわかっていたからだ。


 心の内でSに感謝しながら、青い手拭いで体を拭き、脱衣所へと向かった。


 男湯と書かれた紺の暖簾をくぐった僕は、真っ先に番台の方へ進んだ。



「あ、あの……」



   ◇◆◇



 十月二十日。天気は晴れ。もうすっかり秋らしくなっていたあの日、僕と彼女はあの喫茶店に居た。ミリタリーっぽいカーキ色のジャケットが良く似合っていた。


「誘ってくれてありがとね!」


 彼女は嬉しそうに、笑顔でそう言ってくれた。


「とりあえず、なんか頼もっか」


 そう言った彼女はメニュー表と睨めっこした後、パンっと手をたたいてこちらを向いた。


「私は甘いのがいいから……カフェオレにしようかな。キミは?」


 ご存知の通り、僕はこの喫茶店に来たら、ブレンドコーヒーのブラックしか頼まない。勿論それを注文しようと思っていた。


「ブレンドコーヒーにします」


「よく飲むの?」


「ええ」


「んーじゃあ今日は違うのにしてみない? せっかくなら甘いのにしようよ」


 そう言った彼女は再びメニュー表と睨めっこし始めた。


「あ! これはどう? コーヒーフロート」


 季節的にはホットが良いかもしれないと思っていたけど、コーヒーフロートが良いなと思った。なんだか折衷案みたいな感じがして。



 Sよ、すまない。あの日あった出来事を全部話すつもりだったんだけど、ここから先の会話や出来事の記憶があやふやなんだ。もう話せない。


 ただ、水滴だらけのグラスの中に出来上がっていたカフェオレみたいな液体を一気に飲み干したことは覚えている。嗚呼、あれは甘かった。本当に甘かった……甘かった。

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