ひと夜の夢
みたか
ひと夜の夢
体ばかりが大きくなって、心は置いてけぼりになっている。今を生きなければならないと頭では分かっているのに、心は過去を生きたいと言う。こんな私を、そうくんはどう思っているのだろう。
十月三十一日。時計が夜の九時を指したとき、コンコン、と控えめな音が聞こえた。玄関に近づくと、またコンコンと扉を叩かれる。
「いらっしゃい」
扉を開けると、
「もうちょっと早く来たら良かったのに」
「うるさいな」
そうくんはお面の下でモゴモゴと口を動かした。白いキツネのお面は、一緒に行った夏祭りで買ったものだ。「雰囲気があってかっこいい、これにする」と、そうくんが選んでいたのを覚えている。
「どうぞ」
そうくんを部屋に招き入れ、ソファーに座ってもらう。二人がけのソファーの端っこに、ぎゅっと寄って座るところがそうくんらしい。
一人暮らしのアパートでは、少し大きく見える黄色いソファー。それにそうくんが座っている。この光景に、私はいつまでも慣れないでいる。
「外、寒かったでしょ」
あたたかいココアを入れて、そうくんに差し出した。マグカップを受け取ったそうくんの手のひらは、私と同じくらいの大きさをしている。小学生とはいえ、そうくんは十二歳。私の手のひらも身長も、あっという間に追い越していく年齢だ。大きくなったそうくんを想像して、そっと唇を噛んだ。
「で、あの言葉は?」
隣に座って顔を覗き込むと、そうくんは恥ずかしそうに俯いた。お面を被っているから、私の想像だけれど。マグカップを包むそうくんの手に、ぎゅっと力が入る。
「…………トリック・オア・トリート」
「はい、今年もちゃんと用意してます!」
どうぞ、と袋を渡すと、そうくんはきちんとマグカップを置いてから受け取った。
「今年はカボチャのクッキーにしたよ」
カボチャペーストで作った、カボチャ型のクッキーだ。カボチャにはひとつずつ顔が描いてある。袋に詰められたカボチャたちを、そうくんはじっと見つめていた。
「……ありがと」
「そんなに恥ずかしがらなくていいのに」
そうくんは毎年、「トリック・オア・トリート」を言うのを躊躇う。せっかくだから言ってほしい、とわがままを言う私に、そうくんは付き合ってくれている。俯きながら頑張っている姿は、何度見ても微笑ましい。
「いや……なんか変だろ、おれが言うのは」
「変じゃない、変じゃない」
「笑ってんじゃん」
思わず頬が緩んでしまって、肩を思いきり叩かれた。でも全然痛くない。それがなんだか、少し寂しい。
「クッキー、今食べる?」
「いや……帰ってから食べる」
そうくんは袋から手を離さない。そうくんが口をつけないまま、机上のココアは少しずつ熱を失っていく。こっそり入れたハート型のクッキーに、そうくんは気づいてくれるだろうか。
そうくんが我が家にやって来るようになって、十五年が経つ。そうくんが生きた月日よりも、いつの間にか長くなってしまっていた。
私が実家を出て一人暮らしをするようになってからも、そうくんは私のいる場所に必ず来てくれた。引っ越す場所は言っていなかったのに。誰がどこにいるかなんて、彼らには簡単に分かってしまうのだろうか。それとも私が知らないだけで、いつもそばにいるのだろうか。そう考えると少し恥ずかしいけど、そうくんにならいい。どんな私も、知っていてほしい。
「ねえ、今日も帰っちゃうの?」
「帰る」
もうすぐ夜の十二時だ。十二時になったら、そうくんは帰ってしまう。
毎年そうだ。日付を越える前に、帰らなければいけないらしい。そうくんの体は、今日この日だけしか保つことができないのだという。そう言われても、私は理解したくなかった。
「明日休みにしてるから、今夜はずっと一緒にいられるよ?」
「っ、帰る!」
このやり取りも、毎年繰り返している。この会話をするたびに、そうくんがいなくなる実感が湧いてきてしまう。
「……なあ、」
しんとした部屋に、そうくんの声が響く。いつもとは違う空気に、私は息を呑んだ。
「そういうこと、他のやつにも言ったことあんの」
「そういうことって?」
「だから、さっきみたいなこと……」
そう言われて、ようやく自分の発言を思い出した。
「ああ、今夜はずっと、ってやつ?」
「いちいち言わなくていい!」
可愛らしい反応に、胸があたたかくなる。そんなこと、気にしなくていいのに。こんなかわいいことを言われたら、抜け出せなくなる。
帰ってほしくない。ずっと一緒にいてほしい。目に見える形で、私の前にいてほしい。
「言ってないよ。そうくん以外には、誰にも言ってない」
「ふーん……」
そうくんの手の中で、クッキーの入った袋がくしゃりと鳴る。
「……今日はありがとう」
お面の下で、掠れた声がこもって溶けた。大人になる少し前の、ざらついた声。その声は、私にとって特別だった。街中でこの年頃の男の子の声を聞くと、無性に泣きたくなってしまう。
少年たちの声を聞きながら、何度もそうくんの声を思い出した。十月が終わって年を越して、春が来て、夏を迎える頃になると、私の中のそうくんの声が薄れていってしまうのが分かった。何度も繰り返し思い出しているはずなのに、まるで霧の中のようにぼんやりとして、掴めなくなっていく。それがすごく怖くて、哀しくて、私はいつも夏を満喫できないでいる。
「ねえ、どうしてお盆には来てくれないの」
「一年に一回って決まってる」
言いにくそうに頭を掻いたそうくんを見て、心がぎゅっと絞られたような感じがした。そうくんが嘘をつくときのクセ。そんな小さな仕草すら覚えているのだから、本当に私はどうしようもない。
「ハロウィンに帰ってくるのはどうして?」
「そりゃあ……まあ、お菓子とか貰えるし……」
その答えに、思わず笑ってしまった。かわいい言い訳だ。自分が生きた最期の日だからと、言わないところがそうくんらしい。
「じゃあさ、帰る前にお願い聞いてよ」
「なに」
「顔、見せて。そうくんの顔が見たい」
会いに来てくれるようになってから、ずっと気になっていた。そうくんは毎年、キツネのお面を被ってやって来る。私に素顔を見せてくれたことがない。
「……やだ」
「なんで? どんなことになってても、私驚かないよ?」
のっぺらぼうになっているとか、ぐちゃぐちゃになっているとか、そういうことなんだろうか。怖いのは苦手だけど、それがそうくんの姿なら大丈夫のような気がした。
「いや、そういう意味で言ったんじゃなくて……」
じゃあ、どういうことなんだろう。
いたずらのつもりでお面の隙間に指を挟むと、するりと入っていった。力を入れたら、すぐにでも外れてしまいそう。それなのに、そうくんは座ったままじっとしている。
「外しちゃうよ、いいの?」
そうくんは少し考えてから、小さく頷いた。
お面を摘まむ指先が震える。心臓がうるさい。私から言ったことなのに、このお面を外してしまったら、もう戻れないような気がする。
頬に沿って指を動かしたら、呆気なく空を切った。お面には触れるのに、どうしてそうくんには触れないんだろう。体温を感じられたら、そうくんはここにいるんだと信じることができるのに。
分からない。私にはもう、何も。
ゆっくりとお面を外す。そこには、あの頃のままの顔があった。眉根を寄せながら、手の中のクッキーをじっと見つめている。赤く染まった頬が懐かしくて、視界が滲んでいく。
「外してたほうがかわいいよ」
「うるさい……やっぱりつけとく」
私の手にあったお面を取って、また被ってしまった。本当に、もうお別れの時間だ。
「じゃあ、また来年までお別れだね」
「うん」
「次はもうちょっと早く来てね」
そうくんと会うまで、あと一年。長い一年が、また始まる。
ひと夜の夢 みたか @hitomi_no_tsuki
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